37 意外な電話
太陽が西の空へ沈みかけた午後七時。吉祥寺駅を降りてから綾香は真っ直ぐ自宅には帰らず、自宅近所の小さな公園のブランコに腰かけ、一人ぶつぶつと呟いていた。
「ラブ、恋の魔法唱えまーしょう、ふふふーふーんふふーん」
公園には綾香以外に人影はない。先ほどまで降っていた雨のせいで、ところどころに水溜りが発生している。「違うなー。さあ、恋の魔法唱えましょうのほうがいいかな」
彼女が何をしているかといういうと、実は生まれて初めての作詞に挑戦しているところである。先ほどトーマス岸辺に聞かされた新曲は、トーマスによる『佐世保マイラブ』というタイトルと、真の故郷佐世保に対する愛が綴られた歌詞が存在したのだが、もちろん綾香の『待った』が入り、それならばとトーマスの提案で、今作は綾香が作詞を担当してみてはどうかという話になった。歌詞カードの作詞という欄に自分の名前が表示されるのも悪くはないと考えた綾香は、迷うことなくその案を受け入れたのだった。
「さあ、恋の魔法唱えまーしょう。タラリーラパラー……」
とりあえずは耳に残っているサビのフレーズだけでも今日中に詞をつけてしまおうという魂胆だが、どうも上手くはいかない。家に帰らず、こんな場所で思考を巡らせているのも、外の風景に何か作詞のヒントとなるものはないかという考えからである。今のところ風景は綾香に何一つ与えてはくれていない。
「さあ、夏のとーびら、開きまーしょう。オープンザサマードアー」
違う違う、と綾香は首を振った。理想はキュートでピュアなラブソングなのである。
綾香は立ち上がった。公園の中心にある滑り台まで歩き、砂場に面した滑る側から頂上へと登る。帽子を脱ぎ額の汗を拭ってから、赤と青、そしてその中間の紫が織り成す神秘的な空を眺め、深呼吸をする。しばらくぼうっと上空を見つめてみる。
「さあ、西のそーらにマイラブザフォーエバー……」
また首を振る綾香。横文字はよしておこうと今更ながら思った。
ここにいても埒があかないと判断し、ブランコのそばに置いた荷物を取りに行く。家に帰ってからもう一度曲を聴き、今度はメロから考えてみよう。
両手に大量の紙袋を提げ、いざ歩き出そうとした時、ハンドバッグの中にある携帯が突然着うたを奏で始めた。チッと舌打ちし、ドスンと荷物を下ろす。肩にかけたハンドバッグから携帯を取り出して、モニターに表示された名前を確認しようとするが。
あれ?
七時といえば恋人である井本真一のバイトが明ける時間。どうせ彼からであろうと高をくくっていたのだが、そこには見知らぬ番号のみが表示されている。綾香は怪訝に思いつつも、ピッと通話ボタンを押し、自らが歌う『やっぱり博多が好きやけん』の演奏を止めた。
「はい?」
《あ、もしもし、チロリさんですか?》
女性の声だ。この声は誰だったかと綾香が思い悩むまでもなく、電話の相手は自らの名を告げた。《私、和葉です。松尾和葉。チロリさん、今大丈夫ですか?》
「か、和葉ちゃん!?」
あまりに意外だったため、綾香は思わず声を上げてしまった。そういえば、松尾和葉とは昨年エックステレビにて彼女のビジネス用の携帯と番号を交換していた。「だ、大丈夫ですけど、突然どうしたんですか? 写真のこと、彼以外誰にも言ってませんよ」
途端に緊張する綾香。先日真一のために和葉の裸エプロン写真を入手するのと引き換えに、和葉に自身が真一とキスをしているスキャンダル画像を受け取らせている。これは綾香が裸エプロン写真を他に漏らさないということに対しての誓いという意味合いであったが、今でははっきり言って後悔していた。裸エプロン写真とキス写真ではどう考えても釣り合わないではないか。落ち着いて考えてみれば、明らかに自分のほうがリスクが大きいということが分かる。
ま、まさか、何かの間違いであのキス写真を流出させてしまったとかやなかろうね。
綾香はそう不安視していた。しかし。
《ええ、私のほうも大丈夫です。誰にも言ってません》
すぐさま和葉に否定され、ポカンとした表情になる綾香。《今日お電話したのは……、まあ、くだらないことなんですけど、ちょっとチロリさんに聞いてみたいことがあったからです》
「はあ」
綾香はようやく胸を撫で下ろすことができ、ゆっくりとした動作でブランコに腰を下ろした。「なんでしょう」
《チロリさん、去年秀英大学の学園祭にゲスト出演したんですよね》
「あー、はい」
眉をひそめる綾香。和葉がどんな話をしようとしているのか、まったく見等がつかない。
《えーっと、その……》
急に口ごもる和葉。《じ、実は、昔お世話になった家庭教師の先生が秀英大学に通ってまして、その人のことをチロリさんがご存知じゃないかなあって思って》
「なるほど」
そうゆうことかと綾香は納得した。「人探しだったんですね。でも、秀大生で知り合いになったのって実行委員を中心にほんの二、三人ぐらいなんで、お役に立てるかどうか分かりませんけど……」
《そ、そうですよね》
やや声を沈ませる和葉。
「ま、まあ、ひょっとしたらってこともあるし」
綾香は彼女のことを不憫に思い、できるだけ明るい調子で言った。「一応、名前だけでも教えてください」
《えーっと……》
一、二秒ためらったかのように間を空ける。《橘川さん。橘川夢多さんです》
「きっかわ……」
その名前が綾香の頭の隅にカチッと引っかかった。間違いなくどこかで聞いた名前だと思った。秀英祭であっただろうか。そう、確かに秀英祭だ。「ち、ちょっと待ってくださいね」
懸命に記憶を呼び起こそうとする。やがて聞こえてきたのは『橘川さん』という誰かの声。誰の声だろう。そうだ。これは内藤ちえ美の声だ。
《やっぱり知りませんよね》
和葉のその言葉を「いえ」と否定する綾香。
「多分、サバイバルゲームの時にちえ美ちゃんとパートナーになった人が橘川って名前だったと思うんですけど……」
《え!?》
自分から尋ねてきたくせに、かなり驚いた様子の和葉。《内藤ちえ美ちゃんのパートナー? そ、その話詳しく聞かせてくれませんか?》
「百パーセント確定ってわけじゃないんですけど……」
そこで綾香の脳裏に一つのアイデアが思い浮かぶ。「そうだ。私のパートナーだった藤岡ってヤツのアドレス知ってるんで、そいつ伝いで橘川さんに和葉ちゃんの番号を教えるってのはどうでしょう」
《え、ええ!?》
電話の向こうで、和葉が大きな声を上げる。《い、いや、それは……、心の準備ができてないっていうか……。いや、あの、ほら! そのチロリさんのパートナーだったって人に番号を知られるのはちょっとアレなんで》
確かに藤岡に番号を知られるのはまずいだろうし、ちえ美のパートナーだった橘川が和葉の言う橘川と同一人物だとは限らない。和葉が難色を示すのも理解できる。ただ、彼女のうろたえかたが半端ないので、綾香は不思議に思っていた。
やがて、ははーんと目を細める。口もとをにやつかせながら綾香は思った。
いやー、恋する乙女は可愛いねえ。