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36 新曲

 青山の表参道沿いにある落ち着いた雰囲気の喫茶店。その窓際の四人がけテーブルを陣取るのは黒い野球帽をかぶりサングラスをかけた池田綾香である。白いティーシャツとグレイのハーフパンツという、非常にラフな出で立ちをしている。

 遅い。遅すぎる。自分から呼び出したくせに。

 綾香はテーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばした。時刻は午後五時半。もう三十分以上もある人物を待ち続けており、コーヒーを三杯もおかわりしてしまった。ヤケになったように三杯目のコーヒーを一気飲みする綾香。プハァと息を吐き、また窓の外に目を向ける。やや渋滞気味の道路、若者を中心に人が流れていく歩道。それらをぼうっと眺めつつ、更に五分ほど経過した時、ようやく彼女のそばへと歩み寄る人影が。

「待たせたね」

 そう言いながら綾香の向かい側に座る男を訝しげに見つめる綾香。

「あ、あの」

 眉間にしわを寄せ、気になっていたことを尋ねる。「トーマスさん……?」

「そうだよ」

 トーマス岸辺はにんまりと笑顔を見せた。綾香が戸惑うのも無理はない。寂しい頭を覆い隠した黒いソフトハットに、淡いブルーのサングラス。派手なピンク色のスーツにネクタイと、身体中のいたるところに光り輝くアクセサリー。トーマスは前に会った時とは別人のような姿に変わっていたのだ。

「レコーディングが長びいちゃってね」

 指先であごヒゲを撫でながら、トーマスは言った。口調までもが別人である。「まあ、チロリちゃん、今日は休みだって言ってたし、ちょっとぐらい遅れても大丈夫かなと」

「よくないよ」

 ブスッとした表情になる綾香。「休みを返上してわざわざ青山まで来てやったっちゃけんね。呼び出したほうが遅れるなんて非常識やろうもん」

 待ち合わせが青山なのは、近所のスタジオでレコーディング中のトーマスの都合である。

「そう?」

 シュボっとジッポライターで煙草に火をつけるトーマス。「休みを返上したようには見えないけどね」

 綾香の足元を見つめる。「うっ」と言葉を失くしてしまう綾香。そこに様々な店のロゴの入った大量の紙袋が置かれていた。ここにくるまで綾香は青山でショッピングを楽しんでいたのである。



「もう分かったけん」

 プイと顔を背け、綾香は頬づえをついた。「さっさと新曲聞かせてよ」

「オーケー」

 トーマスは気取ったふうにそう答えると、懐から一枚のMDを取り出しテーブルの上に置いた。綾香はそのMDをしばらく見つめた後、視線をトーマスに移した。

「今すぐ聞きたいっちゃけど、MDプレイヤーないと?」

「おやおや」

 頭痛をもよおしたように額を押さえ、首を振るトーマス。「君がMDに吹き込んでくれって言ったんじゃないか。今日ここで打ち合わせしようっていうのになんでプレイヤーを持ってこないんだ?」

「わ、忘れたと!」

 少し赤くなる綾香。

「しかたがない」

 今度は隣に置いたビジネスバッグよりポータブルデジタルオーディオプレイヤーを取り出すトーマス。本体にイヤホンを取り付け、イヤホンのスピーカー側を綾香に手渡す。

「ちゃんと用意しとうやん」

 憎まれ口を叩きながら、綾香はスピーカーを両耳に差し込んだ。



 こ、これは……。

 綾香は瞳を輝かせた。ピアノによる繊細かつ情熱的なフレーズ。三拍子のゆったりとしたリズムを奏でるドラム。ウッドベースによる激しくも心地よいベースライン。それらの三つの楽器のみで構成されたイントロを聞く限り、この曲はまさにジャズ。ジャズそのものではないか。

 トーマスさん。

 トーマスに目配せをする綾香。口の端を曲げ、頷くトーマス。

 今回の曲ではジャズに挑戦しろというのか。当然ながら前作のようなパワーポップと同じニュアンスで歌えば、曲はたちまち安っぽくなってしまうだろう。場数を踏んだ一流のシンガーでも敬遠してしまいがちなジャズ。それを自分のようなアイドル歌手が歌いこなせるものであろうか。

 ふん、面白いやん。

 綾香は心の中で呟いた。つまり、トーマスはそれだけ自分の歌唱力を評価しているということだ。ならば歌ってみせよう。歌いきってみせよう。ジャズという新たなジャンルに立ち向かってみせよう。

 やがてイントロが終わり、女性によるハスキーなボーカルが聞こえ始める。なんとも味わい深い歌声で、綾香は思わず目を閉じて聴き入ってしまった。が、しかし……。

 ん? ボーカル?

「ああ、ごめん」

 プレイヤーを操作し、演奏を停止させると同時にトーマスが言った。「間違って、ジャズシンガー、フローレンス真琴の曲をかけちゃった。最近気に入っててよく聴いてるんだ」

「ガオー!」

 イヤホンを外し、トーマスに飛びかかろうとする綾香の顔をトーマスが手で押さえつけた。「ふが」

「落ち着いて落ち着いて」

 苦笑するトーマス。「今度こそ間違いないから早くイヤホンつけなよ」

 綾香はふて腐れながらも、言われたとおり再度イヤホンを耳につけた。



 イヤホンから流れてきたのはやはりノリの良いポップス調の楽曲で、綾香は落胆しガックリとうな垂れてしまった。それでも、おとなしく楽曲に意識を傾ける。

 『やっぱり博多が好きやけん』に比べるとややテンポが遅いか。それにデジタル音よりも生の楽器にこだわったようなアレンジである。ただ、派手なブラスサウンドは今作でも健在だ。

 歌メロが始まる。今回はトーマスのボーカルではなく、キーボードか何かの楽器で歌のパートを追っている。

 おっ?

 綾香の目の色が変わった。前作は最初から最後までひたすらに明るいメロディであったが、今作ではところどころにしんみりとしたフレーズが紛れ込んでいる。それらが曲に上手くメリハリをつけている。

 曲がサビに変わる。その頃には綾香も無意識のうちに肩でリズムを刻み始めていた。サビではまた雰囲気が一変する。ダウンビートの激しいドラミングに牽引される管楽器や弦楽器たちのフレーズを良く言うなら壮大とでも表現するか。それらから堂々と主役を奪い去ったボーカルのメロディラインはトーマス特有の非常に耳に残るものであった。

 「ん?」と綾香は眉をひそめた。サビの後に何拍子か不自然な空白があるのだ。これはなんだろうと疑問に思いつつも、試聴を続ける。

「最後の間奏からサビに行くところ、ちょっと合わせるの難しそうやね」

 独り言のように綾香は呟く。トーマスが何か返したようだが、彼の声は聞こえない。



「なるほど」

 曲が終わり、綾香はイヤホンを外し、ふうっと大きく息を吐いた。「この空白の部分って、ここにチロリンポーズを入れろってこと?」

「そのとおり」

 トーマスが頷く。「チロリちゃんのためにこの曲を作ったっていう証明でもあるよね。ところで、曲の感想は?」

 しばらく黙り込む綾香。数秒後、彼女はようやく口を開いた。

「き、聴きやすい曲やね」

 前回とほぼ同じ綾香の感想を聞き、トーマスは満足そうな笑みを見せた。

 

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