35 まったりぶるうす
ラーメン屋『ぶるうす』洗い場奥の勝手口の外は人通りの少ない裏路地となっている。客足がひと段落した時、従業員たちはよくここで煙草をふかしながら他愛のない話をするなどして小休憩をとっていた。
「お前、腕良くなったよな」
若頭こと萩原和人が言った。頭に巻いていたタオルを首にかけ、立派なリーゼントを風に揺らしている。指先にはたった今火をつけたばかりの煙草をつまんでいた。
「そんな……」
ブロックに腰かける井本真一。彼もタオルを首にかけている。「もうちょいで一年経ちますから、そりゃ誰だって上達するでしょ」
本日は小雨がぱらついている。二人は狭い軒下で器用に身を隠していた。
「まあ、そうだわな」
そう言ってから萩原は煙草を吸い、ふうと紫煙を吐いた。「そろそろ秘伝のスープの作り方も教えてやんなきゃな」
「ええ!?」
真一は目を見開き、萩原の顔を見た。「ひ、秘伝のスープって……。あれは店長と若頭以外は手を出しちゃダメなんでしょ? 俺みたいなんが扱ったらまずいんじゃ……」
「別にかまわねえよ」
素っ気なく答える萩原。「あと何年かすれば店長は店を俺に託そうって考えているそうだ。その時に新しく『若頭』を選ぶとしたら、今のところお前以外には考えられねえからな。それとも、お前の中でいつかこの店を辞めちまおうっていう考えでもあるのか?」
「と、とんでもないです!」
真一は立ち上がり、ビシッと姿勢を正した。「この店に入ってから俺の天職はラーメン屋だって気づかされたぐらいです。これからもとことん修行させてください」
「店長も喜ぶぜ」
ハハと笑い、萩原はまた煙草をくわえた。
六月の下旬。時刻は午後四時。一日の業務の中でも特に客足が鈍る時間帯であった。
勝手口のドアがそっと開く。外開きのドアの前にたたずんでいた萩原は「おっと」と一歩足を進ませた。
「井本くん」
ドアの向こうから顔を覗かせたのは、眼鏡をかけた初老の男性。『ぶるうす』の店長である。「友達が来たぞ。ほら、よく来るアベックの二人だ」
「ああ」
アベックという言葉に苦笑するより先に、真一はうんざりとした気分になる。「分かりました。すぐに行きます」
二本目の煙草に火をつけた萩原と店長を残し、真一は店内へ戻った。ブルースの濃厚な音色を聞きながら洗い場からカウンター内へと出る道すがら、首にかけていたタオルを頭に巻き直す。そして、いつもの端の席に座る矢上詩織と田之上裕作の姿を確認し、「よう」と声をかけた。彼ら以外に客の姿はない。
「お疲れさまでーす」
紫色のポロシャツを着た詩織がニコリと笑みを浮かべながら言った。「また真一さんのラーメン食べにやってまいりました」
「そりゃ別にかまわねえけどよ」
手を腰にあて、チッと舌打ちをする真一。「たまには自腹で食えや。俺だってそんなに懐が潤ってるってわけじゃねえんだ」
彼らが店に来るたび真一は彼らのラーメン代をおごらされているのだ。
「説得力ありませんよ」
今度は田之上が言う。白いティーシャツの上から茶色のベストを羽織っている。「綾香ちゃん、あんだけテレビに出てるんですからガッポガッポでしょ」
右手でマネーサインを作る。真一は「バカヤロウ」と田之上に向かって吐き捨てた。
「綾香の儲けには頼らねえよ。ヒモみたいなマネできるかってんだ」
一年ほど前の自分を棚に上げるのであった。
二人分のラーメンを作り終え、順番にカウンターへと置いていく。誰もおごるとは言っていないにも関わらず、ラーメンを受け取る時、二人はそれぞれ「ごちそうさまです」と会釈をした。
「あ、そういえば」
箸立てから箸を抜き取りながら、不意に詩織が言った。「ん?」と彼女に顔を向ける真一。「綾香。こないだのスキャンダル大変でしたね。『実は佐世保出身だった』ってヤツ」
「ああ」
真一は壁に寄りかかり腕を組んだ。「博多出身にするってのは事務所側のアイデアらしくてよ。綾香は『私のせいじゃないもん』の一点張りなんだ。ま、バラエティ番組なんかでいじってもらえるから良かったんじゃねえかな」
「確かに」
そう言って田之上が頷いた。「こないだの『岩田幸三の嘘っぱちドキュメント』なんかじゃ、綾香ちゃん自分からガンガンネタにしてましたよ。あれ、すっげえ面白かったな」
土曜昼間の生放送番組である。
「たいしたスキャンダルじゃなかったってことね」
詩織はそう呟き、ラーメンをずるずると啜った。
「でも、お前と同棲してるってことがバレたら本当にヤバイだろうな」
突然背後から声がし、真一は振り向いた。萩原がいつの間にか休憩から戻ってきていたのだ。頭にはもちろんタオルが巻かれている。気がつくと、店長も客席に座ってスポーツ新聞を読んでいる。「どこで芸能記者が目をつけてるか分からねえぜ」
へへっと意地悪そうに笑う萩原。
「記者もそうですけど、事務所の人間にも気をつけないと」
真一も苦笑して見せた。「出身地のことがスクープされて以来、事務所もちょっとナーバスになってるそうで、綾香が言うには俺と同棲してるってことがバレたら強制的に別れさせられるって……」
「ひどい!」
眉をひそめる詩織。「もしそうなったら綾香を説得してアイドルをやめさせます!」
もしそうなったらか……。
真一は思う。もしそうなったら自分は、いや自分たちはどちらの選択肢を選べばいいのだろう。綾香と別れるか、それとも綾香がアイドルから足を洗うか。
店内に新たに三人客が入り、調理は萩原が担当することとなった。
「綾香ちゃん、今日も仕事なんですか?」
詩織よりもひと足先にラーメンを食べ終えた田之上が、スープを飲み、ふうと息をついた後で何気なくそう言った。真一はククっと思い出し笑いをした。
「本当は休みだったらしいんだが、何やらプロデューサーとのスケジュールが今日しか合わないらしくて、夕方から急に新曲の打ち合わせが入っちまったんだと。あの野郎、朝っぱらからブーブー文句ばっかり言ってたわ」
「知ってる」
まだ少しラーメンを残している様子の詩織が話に割って入る。「トーマス岸辺さんですよね。『やっぱり博多が好きやけん』で注目を浴びて以来大忙しみたいです。超人気ダンスグループのオズマンの新曲や、今度デビューする期待のR&B歌手のプロデュースも担当するらしいですよ」
「らしいな」
クククと相変わらず真一は気持ちの悪い笑い声を発している。「綾香は『トーマスは私が育てた』とか豪語してるけどよ。向こうはもう綾香のことなんかこれっぽっちも気にかけてねえんじゃねえか? まったく笑える話だぜ」