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33 眠らぬ夜

《和葉ちゃん?》

 電話口から菊田つばきの声が聞こえる。《なになに? どうしたの? こんな遅くに電話してくるなんて珍しいね》

 時刻はもう午前一時を過ぎていた。しかし、迷惑がっているというよりも、どちらかというと心配そうなつばきの声のトーンである。

「眠れなかったんです」

 羽山美穂は言った。ベッドに仰向けとなり胸までタオルケットをかぶっている。「確か今日はつばきさん、収録のある日だったなって思ったんで、つい電話しちゃいました」

《うん。今収録終わりでスタッフたちと飲みに来てるんだ。和葉ちゃんが知ってる人もいるけど、和葉ちゃんから電話だって教える方向?》

「教えない方向で……」

 美穂が申し訳なさそうにそう言うと、つばきは数秒の間を置き《分かった》と返事をした。やがて彼女が席を立つ雰囲気。バックグラウンドに薄らと聞こえていた喧騒がパッタリと止む。おそらくトイレにでも入ったのだろうと美穂は予想する。

《はい、どうぞ》

「すごく悩みました」

 常夜灯の明かりをぼんやりと見つめながら美穂は口を開いた。「つばきさんにこんなことを相談していいのかって。なぜなら私はアイドルだし、つばきさんに対しても何度か私のポリシーをお話したことがあったからです。アイドルはあくまでファンの人たちあってのもので、アイドルはファンの人たちのものじゃなきゃいけないって……」

《和葉ちゃんのそうゆうお堅いところも嫌いじゃないよ》

 水の流れる音が聞こえる。やはり洗面所にいるらしい。《でも、しかたないよね。和葉ちゃんにも忘れられない人がいるんでしょ?》

「はい」

 美穂はキッパリと認めた。



《なるほど》

 美穂の話を聞き終えたつばきは独り言のようにそう呟いた。《秀英大学の学生で、名前は橘川夢多。本屋さんで和葉ちゃんが転びそうになったところを助けてもらい、そのお礼にとファーストフード店でデートをしてあげた。美穂ちゃんは彼に惹かれていると自覚していたにも関わらず、彼の連絡先その他を聞き忘れてしまった》

「なんか、すみません」

 あの日の自分の不甲斐なさを思い出し、なぜか謝ってしまう美穂。

《でも、ここまで分かってるなら簡単に見つかりそうだけどな。橘川さんは秀大生で、美穂ちゃんが通う高校近くの駅前にいたわけでしょ? 秀英大学ってそこから何駅ぐらい離れてるの?》

「えーっと……」

 美穂は目を閉じて考えた。「一番近い路線で五、六駅ぐらいかな」

《和葉ちゃんが橘川さんとはち合わせたのは学校終わりの夕方だよね。和葉ちゃんとファーストフード店で話をした後、橘川さんはバイトにでも行きそうな雰囲気だった?》

「あ……」

 つばきの言わんとしていることが分かり、美穂は思わず上半身を起こした。「い、いえ……。見たい番組があるからって、家に帰ったんだと思います」

《じゃあ、ほぼ決まりでしょ》

 そこまで言って、もったいぶるようにつばきは黙り込んだ。美穂に考える時間を与えてくれているのかもしれない。もちろん、成績は中の下だが美穂は一応馬鹿ではない。そこから導き出せる答えを彼女も明確に頭の中に思い描いていた。《橘川さんの自宅は和葉ちゃんの通う高校の近所にある。そう考えるのが一番自然じゃない?》

「全然気づかなかった。凄いです、つばきさん」

 立ち上がり、窓際に向かう美穂。《こう見えても教員免許とか持ってるんだからね》とつばき。美穂は「えー、すごーい」と感嘆の声を上げながら、窓にかかるカーテンをそっと引いた。

 橘川さん……。

 マンションの五階から見下ろす東京都千代田区の夜景。さほど離れていない場所に美穂の通う高校も見える。

 この街のどこかにあなたはいるの?

 学校帰りに駅前へ足を運ぶことの多い美穂であるが、彼女は電車通学というわけではない。つまり、つばきの仮説が正しければ、橘川夢多は彼女の近所に住んでいるということになるのだ。



《でも、その人もけっこう失礼だよねえ》

 若干つばきの声のトーンが変わる。美穂は「え?」と呟きながらカーテンを閉め、ベッドに戻った。《天下の松尾和葉ちゃんに誘われたってのに、観たい番組があるから帰っちゃうなんて、なかなかできないよ》

「ああ」

 くすっと美穂は笑った。「橘川さん、綾川チロリちゃんが本命なんです。で、彼女が出てる番組は絶対見逃せないんですって」

《へー、そうなんだ。それにしてもねえ……》

 そこでつばきの口が止まる。やや不自然に感じたため、美穂は怪訝に思った。《チロリちゃんか……》

「あっ」

 美穂はハッと気がついた。「前にチロリちゃんの話になったことがありましたね。あの時チロリちゃんに悪いイメージを抱いていたのは、実はそうゆう理由からなんです」

 「でも、今はもう仲良しですよ」と付け加え、つばきの返答を待つ。しかし、つばきが引っかかっていたのは別の事柄についてらしい。

《いやね、チロリちゃんに聞いてみたらいいんじゃないかって思ってさ。彼女、去年秀英大学の学園祭に出演したでしょ?》

「そ、そういえばそうでしたね」

 なるほどと美穂は納得した。「でも、だからってチロリちゃんが橘川さんを知ってる可能性は薄いんじゃ……」

《そりゃそうだけどね》

 苦笑するつばき。《でも、一応聞いてみれば? 橘川さんはチロリちゃんの大ファンなんでしょ? 和葉ちゃんとのデートを中断してまで出演番組を観に帰るほどの。だったら橘川さんのほうからチロリちゃんに近づいたって可能性もあるでしょ? ひょっとしたら橘川さんこそが文化祭の実行委員で、チロリちゃんをブッキングしたのも彼かもしれない》

「うーん」

 橘川にそんな行動力があるようには見えなかったため、どうもつばきの意見に賛同しかねる美穂。『仲良し』とは言ったものの、綾川チロリとはまだ二度しか顔を合わせたことがない。できれば、彼女に恋愛の相談などを持ちかけたくはないのである。「まあ、機会があれば聞いてみます」

 とりあえず無難な返事をする。つばきも《そう》と素っ気なく返し、それからやや声の調子を落として《和葉ちゃん》と呼びかけた。

《私や和葉ちゃんなんかはアイドルとしての別の顔を持っていて、ファンの人たちはそんなアイドルとしての顔を見てファンになってくれてる。でも、橘川さんの前ではプライベートの、素のままの和葉ちゃんでいていいんだからね》

「はい」

 今度ははっきりと返事をする美穂。「今日はありがとうございました。つばきさんに相談して本当に良かったです」

《うん、また何かあったら電話しな》

 午前二時前にようやくつばきとの通話を終える。一時間近くもつばきをトイレに拘束してしまったことに罪悪感を覚えながら、美穂は静かにまぶたを閉じた。気持ちが昂り、ますます眠れないだろうなと心の中で呟く。

 ただ、別にかまわないと彼女は思った。今夜は夜通し橘川のことを考えていたい。


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