32 ダイヤモンドダスト
オレンジ色の薄明かりに照らされた通路を真っ直ぐに進む橘川夢多。黒いシャツとジーンズを着用し、頭にはやはり野球帽をかぶっている。通路の左右には四人がけのテーブルが並んでおり、それらを陣取る客たちの姿を一組ずつ一組ずつ見定めていく。そんな中、『それ』らしき男女二人連れの客を発見する。二席ずつ横並びの客席は通路と並行に配置されており、その男女は二人とも通路側に座っている。橘川に背を向けているため、認識は困難である。
声をかけるしかないか。
まさか彼らの正面側に回り込んで顔を確認するわけにもいかない。橘川は一度大きく深呼吸をしてから二人の背後に忍び寄った。
「橘川さーん。こっちです」
通路を隔てて反対側の客席から女性に名前を呼ばれる。橘川はピタッと動きを止め、後ろを振り返った。そこにこちらを見つめながらニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる大庭みなみと藤岡茂の姿があった。ハッと前に向き直る。橘川が声をかけようとした男女は顔を後ろに向け、怪訝そうに眉をひそめていた。もちろん、二人ともまったく知らない顔である。
「ど、どうも」
ハハと愛想を笑いをし、橘川は逃げるようにみなみたちの陣取るテーブルへ歩み寄った。
「橘川さん、完璧あっちに声かけようとしてましたね」
時折イヒヒという笑い声を混じらせながら藤岡が言った。夏前だというのにニット帽をかぶり、長袖のカラフルなトレーナーを着込んでいる。指先には短くなった煙草をつまんでいる。「あいつらもあいつらですよね。向かい合って座れよって感じで」
「見てたんならさっさと声かけてくれよ」
溜息を吐きながら通路側の藤岡の隣の席に腰かける橘川。「後ろ姿が二人にそっくりでさ。危うく赤っ恥をかいてしまうところだった」
「えー、橘川さん、そっち座っちゃうんですかー?」
奥の席に座るみなみが不満そうな顔で言った。緩いウェーブのかかった茶髪の頭に花をかたどったブローチをつけ、ドレスのように派手な白いワンピースを着ている。胸もとは広く開いているが、小ぶりの乳房のせいか谷間らしきものは確認できない。「私という華を一人にして、男が並んで座っちゃうなんて信じられなーい」
「お前の近くにいると香水臭くてかなわねえんだよ」
煙草を灰皿にもみ消す藤岡。「ねえ、橘川さん。そう思いますよね」
「いや」
否定しようとするも、すでにこの距離でも香水の香りがプンプンと漂ってくる。「そ、そうかも……」
「ひーどーいー!」
足をバタバタさせるみなみ。「そんなんだから、二人ともモテないんですよ!」
「橘川さん、彼女いるだろうがよ」
藤岡は、おそらく水であろう透明な液体の入ったグラスを口につけた。
時刻は午後八時。秀英大学最寄りの駅からほど近い場所にある居酒屋『大迫』。橘川は藤岡に電話で誘われ、彼らの飲み会に途中参加したのであった。
「早苗先輩は来ないんですか?」
みなみが橘川に尋ねた。から揚げをもぐもぐと噛みしめながら頷く橘川。
「俺は休みだけど、早苗はバイトだしね。後で恨まれそうだから今日のことは内緒だよ」
「おー」
藤岡が感心したように目を丸めた。「いつの間にか早苗って呼び捨てするようになっちゃったんですね。なんか意外だな」
「別にいいじゃん」
橘川は思わず頬を赤らめた。「向こうから言い出したんだよ。『早苗って呼び捨てにされたほうが嬉しい』って」
「え? じゃあじゃあ」
好奇心いっぱいの顔でみなみが上半身を乗り出した。「早苗先輩もひょっとして橘川さんのこと『夢多』って?」
「あ、いや……」
二人の視線から逃げるように橘川はうつむいた。そのまま「まあ」と二度ほど頷いてみせる。
「キャー!」
なぜか拍手をするみなみ。「あんなに男っ気のなかった早苗先輩と、あんなに女っ気のなかった橘川さんが呼び捨てだなんて、キャー!」
「橘川さん、こいつ絶対馬鹿にしてますよ」
藤岡がみなみを指差した。みなみは「違うし!」と唇を尖らせる。彼らのやり取りをはたで聞きながら、橘川は頭をフル回転させ新たな話題を模索していた。早苗とのことを冷やかされるのは未だに慣れていないのだ。
「ほ、他に誰か呼ばない?」
結局はそんなところに落ちつく。「皆岡くんとか貴美ちゃんとか、久しぶりに会いたいんだけど」
「いいですね!」
みなみがあっさりと話に乗る。「藤岡先輩、レッツテレフォン!」
しかしながら、藤岡はテーブルの上の一点をぼうっと見つめ黙り込んだままである。橘川は不思議に思い「どうしたの?」と彼に尋ねた。
「貴美で思い出したんですけど……」
そう言ったところで藤岡は橘川に顔を向けた。「橘川さんって松尾和葉と知り合いなんですか?」
「え?」
途端に彼らのいるテーブル周りだけ、まるで時間が止まったようにシーンと静かになった。
「いや、ちょっと前、貴美にメールで聞かれたんですけどね」
百円ライターで煙草に火をつける藤岡。「そのまんま『橘川さんって松尾和葉と知り合いなの?』って。俺は『知らねえよ』って答えてそれっきりなんですけど、なんとなく気にはなってたんですよね。どうなんですか? やっぱり橘川さんって松尾和葉と知り合いなんですか?」
二人の注目をよそに、橘川は一人思考を巡らせていた。
たしかに、知り合いというほどではないかもしれないが、自分は松尾和葉と顔見知りだ。そのことを長岡貴美が知っているということは、貴美も和葉と知り合いなのか、それともあの日駅構内のファーストフード店で和葉と一緒にいるところを目撃されたのか。まあ、どちらにしてもそこまでは充分に納得できる。ただ、一つだけ腑に落ちないことがある。
なぜ、早苗ではなく藤岡に確認しようとしたのか。
貴美は自分の連絡先を知らないので直接確認することはできないかもしれないが、それなら恋人である早苗に確認したほうがより的確ではないのか。早苗からそんな話を聞いたことはない。
いや、と橘川は思い直す。
恋人であるからこそかもしれない。一応は女性関係の話なのだ。貴美は、早苗、もしくは自分に気をつかってくれたんじゃないだろうか。
「橘川さんってば、どうなんですか?」
みなみの声で我に帰る橘川。みなみは真剣な眼差しで真っ直ぐに橘川を見つめていた。
「ま、まあ」
別に隠すようなことじゃないよな、と橘川は自分に確認をした。「知り合いってほどじゃないけど、ちょっと話をする機会があってさ」
その瞬間、みなみと藤岡は同時に驚嘆の顔を見せた。
「マジっすか!」
「ウキャー!」
新たな話のネタを得た彼らの瞳は、まるでダイヤモンドダストのように光り輝いていた。