29 初めてのスキャンダル
午後二時。吉祥寺駅前のロータリーに見慣れた黄色の軽自動車が停まる。深く野球帽を被り、黒いティーシャツとバギージーンズといういつもに比べてやや地味な出で立ちの池田綾香は、さっと車に駆け寄り、「おはようございます」と挨拶をしながら助手席のドアを開いた。運転席に座るお馴染みスーツ姿の南が「おう」と野太い声でそれに応える。綾香が助手席に座った瞬間、南は彼女のひざの上に一冊の雑誌をポンと置いた。それは本日発売の『週間スキャンダル』であった。
「初スキャンダルおめでとさん」
南が嫌味ったらしく言う。綾香はフンと鼻を鳴らし雑誌を南のひざの上に返した。
「さっき私もそこで買ったもん」
ハンドバッグの中からチラッと同雑誌の角を見せる。
『週間スキャンダル』に綾川チロリが実は佐世保出身だったという記事が載ったことを、綾香は昼間のワイドショーで初めて知った。特集を組まれるわけでもなく、一分ほどの尺で話のネタ的に紹介されただけであったが、彼女は部屋中を意味もなくうろうろとさまよってしまうほど焦り、心配になって南に電話したりもした。ただ、南は記事のことを知っていたものの、さほど気かけている様子ではなかった。
「あんなもん、いつかはバレるに決まってんだ」
ハンドルを操作し、アクセルを踏み込みながら南は言った。「記事にも書いてあるとおり、タレコミの犯人はお前の地元の同級生らしいじゃねえか。今は『やっぱり博多が好きやけん』のヒットでお前の株も上昇している時期だからな。金になるかもしれない情報をみすみす胸のうちに閉まっておこうなんてヤツがこの世にいるか?」
「うう、絶対夏美が犯人やん」
悔しそうに頬を膨らませる綾香。「私があの子の彼氏と二人でカラオケ行って、そのせいで別れることになったけん、今でも私を恨んどうっちゃん」
「アホか。お前と一番仲が良かった親友が犯人の可能性もあるぞ。人間はそうゆう生き物だ」
血も涙もない南の言葉に、ガックリと肩を落としてしまう綾香であった。
本日の仕事は都内の某レジャー施設でのロケーションである。高速には乗らず、時折渋滞に巻き込まれながら少しずつ目的地へ近づいていく。
「ねえ」
ずっと黙っていた綾香が約十分ぶりに口を開く。「普通の子は出身地をごまかしとったことがバレたぐらいどうってことないやろうけど、私の場合は『やっぱり博多が好きやけん』がヒットしてしまったけん、たくさんバッシング受けるっちゃないかいな」
「お前を地元出身だと思って親近感を覚えていた博多の人間や、一部のファンは怒るかもしれないな」
前を向いたまま頷く南。「だがどうってことはない」
「なんでよ」
綾香はキッと南を睨みつけた。「テレビの仕事とか、干されたりする可能性もあるっちゃないと?」
「それはない」
そうキッパリと断言する南を訝しげに見つめる綾香。南は続ける。「『やっぱり博多が好きやけん』でブレイクしたかと思いきや今度はこの騒動だ。これだけ話題性に富んだアイドルを
テレビが見放すわけはないだろう。今日のレジャー施設での仕事でも、共演者は今回の騒動のことを触れてもオーケーということになっている。せいぜいいじられてこい」
「あんたがオーケー出したっちゃろうもん」
綾香はボソッと憎まれ口を叩いた。
「まあ、世間を欺いていたという悪いイメージはしばらく付きまとうだろうがな。そんなものはあっという間に人々の記憶から消え去ってしまうもんだ」
ぼうっと窓の外を眺めながら南の話を聞く綾香。ひょっとしたら綾川チロリそのものの記憶さえ消え去ってしまうのではないかと彼女は不安になっていた。
「もう『やっぱり博多が好きやけん』関連のイベントもほとんど残っていない」
車が赤信号で停車したのを機に、ジッポライターでシュボと煙草に火をつける南。「一区切りついたら今度はトーマスと新曲の打ち合わせにかかるぞ」
「新曲……」
綾香の瞳にほんの少し希望の光が宿る。しかし、それもあっという間に闇の中へと飲み込まれてしまった。「でも、『やっぱり博多が好きやけん』以上のヒットは無理やろうね」
はあと深い溜息を吐く。南はそんな綾香をチラッと一瞥し、チッと舌打ちをした。
「それなりにロングヒットはしたが、売り上げ枚数でいえば十五万にも満たない。もし百万枚も売り上げる大ヒットになっていれば、お前も晴れて一発屋の仲間入りだっただろうが、十五万なら他の曲で塗り替えることも充分に可能な数字だ。お前はついてるほうだぞ」
「そうか。そうよね」
すぐに元気を取り戻す綾香。「トーマスさんも自信があるって言ってたし、新曲でバーンと『やっぱり博多が好きやけん』を忘れさせればいいとよ! よーし、今日からは博多の歌姫改め佐世保の歌姫で頑張るけんねー!」
番組側が予約していたロケ現場近くの屋内パーキングに駐車する。時刻は三時を少し回ったところだ。
綾香は車から降りてドアをバタンと閉めると、顔をもみもみとマッサージし、二、三度チロリンポーズの練習をした。それから「よし!」と威勢良く声を上げ気合いを入れる。南に顔を向け、早く来いと促そうとするが。
「ん?」
運転席に座ったまま南は車から出てこようとはしない。綾香はそちら側に回り込み、窓から中の様子を眺めてみた。どうやら誰かと電話をしているようである。
ん? 仕事の電話かな。ひょっとしてキャンセルの? それとも、まさか女やなかろうね。
様々な考えを巡らせていたその時、ドンという衝撃音と共に顔面に激痛が走る。顔を押さえ、のた打ち回る綾香に冷たい眼差しを向けながら、南は運転席のドアをバタンと閉めた。
「ドアの前でぼうっと突っ立ってんじゃねえよ」
綾香の顔面を襲ったのは南が勢いよく開けたドアの窓だったらしい。むくっと立ち上がり、涙目で南を睨みつける綾香。
「あんた……、他に言うことないと?」
「しっかりと顔をマッサージしとけよ」
南は携帯をスーツのポケットにしまった。「それより、来月の博多祇園山笠の日、九州ローカルのテレビ番組にゲスト出演する予定だったんだが、向こうから断りの電話入れてきやがった」
「う……」
綾香の心がどんよりと沈み込む。が、精一杯持ち直そうとする。「む、無理はないよね。まあ、佐世保出身ってバレとるのにそんな番組に出たらブーイングの嵐やろうけん、かえって良かったっちゃない?」
「まあな」
ふうと息を吐く南。「これで残る福岡での仕事は、来週の福岡ドームでの始球式だけか」
「ふ、福岡ドーム!?」
綾香は目を見開いた。「そんなん絶対無理だってば! そっちもキャンセルしてよ!」
「無理だ。来週だからな」
南は平然とそう言ってのけると、後部座席のドアを開け、中から大小様々な荷物を取り出して両手に持った。「始球式の前は大観衆の前でミニライブだぞ。良かったな」
「ミニライブ……」
福岡ドームの大観衆のど真ん中で、数万人のブーイングを浴びながら『やっぱり博多が好きやけん』を歌う自分を想像し、綾香はクラクラと眩暈に襲われてしまうのであった。