12 アポなし訪問
大谷ビルって……。ここでいいとよね。
翌日の午後三時過ぎ。綾香は一人、昨日と同じように、渋谷の街を訪れていた。そして渋谷駅から代官山方面に十分ほど歩いたところで、目的のビルを発見した。
あたりをキョロキョロと見回してみる。大通り沿いではないため、人の姿はまばらである。次にビルを見上げる。五階建てのビジネスビル。周りのビルに比べると、やや低く感じる。ところどころコンクリートがひび割れており、外観ははっきりいって……。
ボロっちいなー。渋谷にもこんなところあるんやね。
そんな失礼なことを考えながら、綾香はそっとエントランスホールに足を踏み入れた。
う……、これは……!
彼女を出迎えたのは、エントランスホールと、その先にあるエレベーターホールとを遮る、大きな自動ドアであった。しかし、ドアに近づいても全く開く気配はない。どうやらロックされているらしい。
次に彼女は、ドアの右手の床から突き出た四角柱の物体を発見する。上面には、数字や記号の書かれた十二のボタンが、電話機のように横に四列並んでおり、その隣に縦に細長く開いた隙間のようなものが確認できた。おそらくそこにカードキーを差し込み、暗証番号を押してロックを解くシステムだろう
ボロっちくても一応芸能事務所やけん、セキュリティは万全か……。どうしよう。
昨夜、バイト先の先輩である真鍋から、突然の休職を言い渡された後、真っ先に彼女の頭の中に思い浮かんだのは、あのスキンヘッドの黒スーツ男の顔であった。
生活の危機に直面してしまった彼女に、もはやプライドなどというものは存在しない。アイドルじゃなくてもいいから、雑用としてでも、サニーダイヤモンドプロダクションに雇ってもらえないか、と黒スーツ男に頭を下げてみよう、と考えたわけである。
ただ、問題があった。
なんと男の連絡先を、綾香は聞いていなかったのだ。となると、連絡先を知っているのは、昼間に名刺を受け取った詩織だけ、ということになる。しかし、既に午前零時を過ぎていたし、彼女にまた(三度目である)電話をするというのも気が引けた。
そこで綾香が考えた方法は、インターネットでサニーダイヤモンドプロダクションの住所を調べあげ、翌日アポなしで訪問し、直接男に頼み込む、というものであった。
うーん、もう帰ろうかいな。
サニーダイヤモンドプロダクションのある、大谷ビルのエントランスホールで、足止めを食らうこと、はや三十分。その間、誰一人として自動ドアを開けた人物はいない。(いれば綾香も、ちゃっかりと一緒に中へ入っていただろう)
時計の針は午後四時を差している。彼女にとって、午後六時からのバイトまでにはなんとか話をまとめておきたいところなのだが。
「コラーッ!」
「うわっ!」
突然、背後から野太い怒鳴り声が聞こえ、綾香はビクッと身体を震わせた。そして、おそるおそる声がした方に顔を向ける。「や、やっぱりい……」
そこに立っていたのは、あの黒スーツ男であった。
「悪い悪い、驚かせるつもりはなかったんだ」
コラーッ! って言ったやんか! 「ところで、こんなとこにまで来てどうした? 詩織ちゃんを説得してくれたか?」
彼は相変わらずの不気味な笑顔で、綾香に質問をまくしたてる。
「あ、あの……」
もじもじと身体をくねらせる綾香。「詩織は芸能界には全く興味ないらしくて……」
「ふーん、そうか」
男の笑顔が消える。「そりゃ、わざわざ報告ごくろうなこったな。名刺捨てちまったのか?」
冷たいトーンでそう言うと、彼はポケットの中から茶色い、革の財布を取り出した。
「あ、あの……」
例の話を切り出そうとする綾香。しかし、男は取り合ってはくれない。
「ほれ、電車代だ。釣りはとっとけ」
綾香は、男が差し出した千円札を「どうも……」と受け取った。そして野口英世の顔を見ながら、思わず顔をにやつかせる。
やった。思わぬ収入! バイト前になんか食べようかなー……じゃなくて!
「ち、違うんです! 黒スーツさん! ちょっと話があるんですけどー!」
慌てて叫ぶ綾香。そして同時に走り出す。なぜなら、男は既にカードキーを使い、自動ドアの向こう側へと行ってしまっていたからだ。
ドアはまだ閉まりきってはいない。僅かな隙間に、どうにか身体を入れてしまおう、と彼女が身を屈めた瞬間……!
ゴーン!
ホールに鈍い音が響き渡る。そう、悲劇は起こったのである。




