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28 恋愛初心者

 深夜零時を少し過ぎた『デイリーマート』店内。

「いらっしゃいませー」

 入店してきたカップルに橘川夢多がそう挨拶すると、彼のいるレジカウンターからは見えない店の奥の雑誌コーナーから「いらっしゃいませー」と大田早苗がオウム返しをした。コンビニの夜間は様々な商品が納品されてくるが、この店の場合、その第一陣が雑誌であり、一人がレジを、一人が雑誌の品出しを、とそれぞれ仕事を分担するのが最も効率の良い作業方法であった。

 一分足らずでチューハイを二つだけ持ってレジカウンターの前に立つカップル。橘川はピッピッと電子音を鳴らしてバーコードをスキャンし、合計金額を告げた。カップルのうち、茶髪ショートの背の小さな男性のほうが、のんびりとした動作で財布の中を探っている最中、新しい客が店内に入ってきたため、橘川は「いらっしゃいませー」とまた挨拶をした。そして、奥からは早苗のオウム返し。

 六月に突入した。あまり就職活動に力を入れていなかった大学四年生がぼちぼち焦り始める時期である。橘川もその中の一人であるが、名門秀英大学のネームバリューは非常に大きいため、週五日の深夜バイトと並行しながらマイペースかつ楽観的に淡々と就職活動を行っていた。

「指切っちゃった」

 返本の山を両手で抱えながら早苗がレジカウンターに戻ってきた。橘川が「どれどれ」と彼女のか細い指先を見つめようとすると、彼女は本をバックカウンターにドスンと置き、改めて右手をそっと差し出した。確かに親指に一つ、赤い筋状の切り傷が確認できる。

「本当だ」

 まるで自分のことかのように苦悶の表情を浮かべる橘川。「どこをどうやったら指なんか切っちゃうんだろうな」

「雑誌扱うの苦手なんだもん」

 申し訳なさそうに笑う早苗。「ページをめくる時にさ。ついピッと紙の端っこに指を走らせちゃって」

 想像して更に「うわ」と顔を歪める橘川であったがそれも束の間。

「ん? ページをめくる時って……。また仕事放っぽりだして雑誌読んでたの?」

「あっ」

 早苗はしまったというふうに口を大きく開けた。それから「エヘヘ」と無邪気な笑顔を見せる。

「ったく」

 眉をひそめる橘川。「なんか、やたらと時間かかってるなって思ったんだよ」

「ごーめーんー」

 甘えた声で橘川にすがりつく早苗。橘川はふて腐れたように彼女を無視しながら、心の中では彼女が可愛くてしかたがなかった。

 橘川が早苗と交際を始めてからわずか三週間ほど。わずか三週間ではあるが、幾つか変化したこともある。まずは早苗の橘川に接する際の態度。交際直後から何かのスイッチが入ったようにパッと敬語が消え、一日単位で馴れ馴れしさが増していった。橘川はそんな彼女の様子を間近に見て他人ごとのように、上手だなと感じていた。始めは彼女の変化に戸惑うが、徐々にそれが自然となっていき、ついには戻れなくなる。こうやって男女は距離を縮めていくのかと彼は学んだ。

 もう一つ。早苗の外見も随分と変わった。それまではおかっぱ頭に眼鏡、ノーメイク、いつも似たり寄ったりの服というのが彼女の一般的なスタイルであったが、まるでこの時を待っていたかのように、眼鏡がコンタクトレンズに変わり、メイクを欠かさないようになり、服のバリエーションも増えた。髪型は変わってないが、ピンで前髪をとめることが多くなった。かつてミスコンで四位に入賞した時の彼女を思い起こさせる。

 恋をすると女は綺麗になるとは言うが、なぜ交際する前には変化しなかったのか。それについての答えはまだ出ない。やはり自分はまだまだ恋愛初心者なのだなと橘川は一人納得するのであった。



 午後一時過ぎ。冷凍食品の納品があり、それらの陳列場所がレジに近いため、今回は二人で品出しをする。

「最近、ツアーのメンバーと会ってる? みなみ以外で」

 ダンボール箱を開け、中からカップ型アイスクリームを取り出しながら、早苗は何気ない様子で尋ねた。秀英祭ツアー実行委員のことであろう。大庭みなみはこの店のバイト仲間なので、会っていて然りというわけである。

「うーん」

 オープン式のアイスクリーム什器の中を整理する橘川。視線を泳がせ考え込む。「藤岡くんはちょくちょく店に来るよね。皆岡くんは彼女できたって話を聞いたけどそれ以来会ってないな。貴美ちゃんはもう四年になってから全然会ってないや」

「私は皆岡くんとは会ってないけど貴美とはよく会ってるよ」

 橘川に顔を向けずに早苗は言った。なんとなく含みのある言い方だったため、橘川は不思議そうに早苗の顔を覗き込んだ。「実はね」

 照れ笑いを浮かべる早苗。「橘川さんに片思いしてた時、貴美にもよく相談に乗ってもらってたの。あの子意外と相談に乗るの上手いんだよ」

「へー」

 目を丸める橘川。「なんか恥ずかしいな。じゃあ貴美ちゃんって俺たちが付き合ってることも知ってるってこと?」

「もちろん」

 そう頷いた直後、早苗は「あっ」と空になったダンボール箱を投げ捨て、レジカウンターに向かって走った。レジの前に客が立ったからである。

 一人残された橘川は苦笑する。早苗と交際を始めたことはバイト仲間たちに秘密にしていたはずであったが、やはりどこからか漏れてしまったらしく(みなみ、もしくは早苗か)つい先日オーナーに『仕事中あんまりいちゃいちゃするなよ』と釘を刺されてしまった。確かに仲睦まじいのは良いが、それで仕事を疎かにしてしまうと二人の間に溝ができてしまう可能性もある。仕事中の私語はできるだけ控えなきゃなと心の中で呟く彼であった。



「そうそう、忘れてた」

 レジから戻り早速私語を再開させようとする早苗を手で制し、ゆっくりと首を振る橘川。

「ダメだよ。そろそろ仕事に集中しよう」

「あ、そうだね」

 残念そうに、そして照れたように早苗は笑った。「実は今日納品された『週間スキャンダル』で綾川チロリちゃんがスクープされてて、ずっと話そうと思ってたんだけど……。橘川さんの言うとおりだね。仕事中の私語は控えなきゃね」

「うんうん」

 ……。

 え?

 早苗を二度見する橘川。しかし、早苗は橘川など見向きもせず、てきぱきとアイスクリームの品出しに夢中となっている。自分から言い出した手前、今の話題を蒸し返すこともできない。

 『週間スキャンダル』といえばゴシップ記事を中心とした日本を代表する写真週刊誌だ。過去にこの雑誌によって泣かされたタレント、著名人の数は計り知れない。

 スクープって……。まさか熱愛報道か!?

 早苗という恋人を得て橘川は既に割り切ってしまっている。自信が熱を上げる綾川チロリに恋人がいたとしても、多少のショックを受けるかもしれないがファンを続けていく自信はある。ただ、その熱愛報道によってチロリが芸能活動を停止せざるを得ない状況に追い込まれて

しまうのでないかと彼は心配していた。そうなったら簡単には立ち直れない。

「『綾川チロリ 実は佐世保出身だった』だって」

「え?」

 つい顔を上げる橘川。早苗はニコリと笑い「安心した?」と尋ねた。橘川は何も答えない。橘川が綾川チロリのファンだということは未だ誰にも話したことはなかったが、いつも彼のそばにいる早苗はどうやら感づいていたらしい。

「佐世保……。長崎の佐世保か」

 ホッと胸を撫で下ろす橘川。

 なんだ、そんなことかよ。いや、でもそれはそれで……。

 有線放送のロックナンバーに耳を傾けながら彼は思う。そういえば最近、あれだけ流れていた『やっぱり博多が好きやけん』を有線でさっぱり聞かなくなってしまったなと。


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