26 男は顔じゃない
午後十一時半。羽山美穂はネグリジェにパンティのみという姿で自室のベッドに座り、親友の河内那美と電話で話していた。
《そう、ちゃんと言えたんだ》
「うん」と頷く美穂。《でも、残念だったね。貴美さんが橘川さんと知り合いだったら、一発で橘川さんにまで辿り着いたのに》
「しかたないよ。秀英大学は広いんだから」
《貴美さん、協力してくれるって?》
「うん」と美穂はまた頷いた。
「よくは聞けなかったけど、貴美さん、何かの資格を取るために勉強中なんだって。だから、さすがに橘川さんを探すために自分から動き回るような時間はないらしいけどさ。親しい人何人かに橘川さんのことを聞いてくれるとは言ってた」
《じゃあ、それだけが頼りだね》
ネガティブな響きはない。どちらかというと激励するような調子で那美は言った。
「だけど充分だよ」
ふうと息を吐き、美穂は天井を見上げた。「ようやく糸口が見つかったっていうのかな。それは貴美さんと知り合った瞬間からそうだけど、今日貴美さんに話して、糸の先っちょがちょこっとだけ穴に入ったね」
《そこまできたらあとは引っ張るだけじゃん》
なかなか洒落たことを言う那美。電話の向こうでしたり顔をしているのかなと美穂は思う。
「うん」
更に頷いてから、ふふっと嬉しそうに笑う。「引っ張るだけ」
貴美が味方についてくれたことで、今日一日、美穂は本当にご機嫌だった。本日の唯一の仕事であったレギュラー番組『病は着から』の収録では、いつも以上に元気な姿を見せることができ、番組スタッフたちから終始賛美の声を寄せられた。自宅に帰りついた後も、普段はあまり口を聞かない父の肩を揉んであげ、感動した父に泣かれてしまった。
もちろん今も絶好調だ。この先に待ち受ける未来が楽しみで楽しみでしかたがないのである。
《あ、あの写真は結局貴美さんにあげたの?》
「ああ」
那美の部屋で、彼女に撮ってもらった例の裸エプロン写真のことである。「ううん」と美穂は苦笑しながら答えた。「友達にあげても、ネットオークションに出してもいいって言ったんだけどね、いらないって返してくれた。ちょっとホッとしちゃったよ」
《なんだー。つまんない》
本当につまらなさそうに那美は言う。《じゃあ写真はもう捨てちゃったの? 世界で一枚の超お宝写真》
撮影に使ったデジカメは那美のもの(正しくは彼女の兄のもの)であったが、美穂の希望でデータは消去してしまっている。
「うーん、まあその話なんだけど……」
美穂は思わず目を泳がせてしまった。少々迷ったが打ち明けることとする。「あげちゃった」
《え!?》
電話の向こうで驚嘆の声を上げる那美。《あの写真を!? だ、だ、誰に?》
「綾川チロリ」
《綾川……。ええ!?》
綾川チロリといえば、橘川夢多が彼女のファンだというだけで美穂が一方的に敵視していたアイドルだ。那美が驚くのも無理はないと美穂は思う。
しかし、実際はチロリに対しての敵対心も日を追うごとにほとんど薄れてしまっていた。橘川と話をしたのは半年以上前のことで、ひょっとしたらもうファンをやめているかもしれないという思いもそうだが、一番の理由としてはチロリが自分に匹敵するほどの知名度を得てしまったからだと美穂は自己分析している。つまり、チロリを橘川がファンになるほどのアイドルだとして認めているということだ。よって、本日チロリが楽屋を訪ねてきた時も、最後まで友好的に接することができた。
「楽屋でスカート脱いだ時にポケットからポロッと写真が落ちちゃってさ」
美穂は苦笑する。「チロリに写真を見られちゃったんだよ」
《なんでスカートのポケットなんかに入れてんのよ。なんで綾川チロリの前で脱ぐのよ》
質問をまくしたてる那美。特に理由はないため、回答しない美穂。
「しばらくは見なかったことにする方向で話を進めてたんだけど、急に写真が欲しいって言い出してさ」
《なんであげちゃうのよ》
それにはもちろん理由がある。美穂は「えーっと」と、話しにくそうに説明を始めた。
「チロリのお兄ちゃんが私の大ファンなんだって。話によると無名時代から応援してくれてて、DVDとかも全部揃えてくれてて。そのお兄ちゃんの誕生日プレゼントにって言うから……」
《それであげちゃったんだ》
ふうと溜息を吐く那美。《美穂がファンを大事にするってことは本当によく分かってるけど、それにしても見ず知らずの男にあんな写真をよくプレゼントできるなー。ひょっとしたら全部チロリの嘘で、ネットとかに流そうって考えてるのかもしれないでしょ》
まるでマネージャーのようなことを言うなと美穂は思った。
「ちゃんと釘は刺しておいたよ」
慌てて弁明する。「『誰にも言うな』『誰にも見せるな』『ネットに流すな』、考えついたことは大体……」
《勇気あるなー、本当に》
那美は聞く耳も持たず、呆れたように言った。少々彼女をうっとうしく感じる美穂であったが思い直すこととする。那美は本当に自分の身を案じてくれているのだ。親友だからこその苦言である。
それに、美穂だって口頭で釘を刺したぐらいで、チロリが自分を裏切らないという確証を持てるはずはない。もう一つ、チロリを信じた最大の決め手があったのだ。
《あ、そろそろ切るね。『病は着から』が始まっちゃう》
午前零時を過ぎた頃、出し抜けに那美が言った。美穂は「えー」と不満そうな声を上げた。
「そんなんいいじゃん。もうちょっと話そうよー」
那美も普段は自分の出演番組のチェックを欠かさないが、今日は気分が高ぶっているので、それよりもまだまだ那美と話をしていたかった。
《ダメダメー》
うふふと悪戯っぽく笑う那美。《私だって美穂のファンなんだから。美穂の出演する番組はちゃんと観ときたいのー》
「私のファンなら、私の番組を見るより私と喋るほうが優先でしょうが」
《明日もまた喋るから大丈夫! それじゃあ美穂、また明日ね。おやすみー》
舌打ちをし、美穂も渋々「おやすみー」と挨拶をした。
通話が途絶えた後、美穂は携帯を手に持ったままベッドに横になった。ぼうっと天井を見つめながら「また長岡くんの話題はなしか」と呟いた。
あんだけ変わってれば、那美も振り向いてくれないだろうな。顔は良いのに、勿体ない。
美穂は開いたままの携帯の画面を視界まで持ってきた。片手で器用にボタンを操作し、画像フォルダーのサムネイルの中から最新の画像を呼び出す。
顔が良いといえば、この人も……。
その画像は、綾川チロリが金髪の若い男性とキスをしているというものであった。横顔ではあるが、金髪の男性はかなりの美少年に見える。
写真が欲しいと言われ美穂が渋っていた時、チロリが携帯を取り出しながら覚悟を決めたように言ったのだ。
『それなら、私も絶対流されたくない写真をあげるけん。和葉ちゃんも誰にも言っちゃいかんばい』
そう、この画像こそがチロリを信じた最大の決め手である。彼女は写真に写る金髪の男性と同棲しており、兄ではなく彼に裸エプロン写真をプレゼントするということまで美穂は聞かされていた。
「男は顔じゃないんだもんね」
画像を通して橘川夢多の顔を思い浮かべ、美穂はふんと鼻を鳴らした。