20 一つの覚悟
午前八時を少し過ぎた頃。長い長い夜間勤務を終え、橘川夢多はコンビニ『デイリーマート』のバックルームでそそくさと帰り支度をしていた。紅白のボーダー柄の長袖シャツとブルージーンズを着用している。
デスクに向かってパソコンを操作する白髪の初老男性はこの店のオーナーである。隣には、椅子に座ってオーナーと何やら話をする大田早苗の姿がある。二人とも『デイリーマート』のシマウマ制服を着ている。只今より勤務開始のオーナーとは違い、早苗は橘川と共に勤務を終えた直後であるが、過去にも何度かそうしていたように、通学時間がくるまでここで時間を潰していくのかもしれない。
橘川はというと、本日は学校に用はない。このまま電車に乗って家へ帰る予定だ。
「それでは失礼します」
橘川はオーナーに一言そう告げ、オーナーが返事をするのを待たずにそのままバックルームを出ようとした。ところがだ。
「待ってください」
予想外に早苗に呼び止められ、彼は足を止めて彼女に顔を向けた。
「な、なに?」
動揺から思わず声が裏返ってしまいそうになる。そんな橘川の様子に気づいたか気づいていないのか、早苗はニコッと微笑み、いつもと変わらぬ調子で言った。
「橘川さん、今日も学校休みですよね。できれば、少しお話していきません?」
彼女がそんなことを言い出すのは、あの日以来初めてのことだった。そう、橘川の早苗を見る目が変わってしまった、早苗の顔を上手く見ることができなくなってしまったあの日。
「は、話?」
できるだけ平静を装うとするが、そうすればそうするほど声が上ずってしまう。いや、そもそも早苗はとっくにあの日を境にした自分の異変に間違いなく気がついているはずだと橘川は思う。彼は大根役者で、彼もそれを自覚しているのだ。「話って、ここで?」
「いえ、どこでもかまいません」
相変わらず笑顔のまま早苗は答えた。「どこかで朝ご飯を食べながらでも、駅まで歩きながらでも」
早苗の本日の授業は午後からだということで、彼女の言葉に甘え、学校とは逆方向になる駅まで送ってもらいながら話をすることとなった。午前八時ともなれば街が本格的に活動を始める時間帯だ。二人は、通勤中のサラリーマンや通学中の学生たちに混じり、渋滞を作る車たちの排気ガスや、やたらと眩しく感じる朝の光を身体に浴びながら、駅に向かってゆっくりと並んで歩いていた。
「一度こうやってお話したかったんです」
早苗は自らの歩の先を確かめるように視線を落としながら言った。白い長袖ブラウスにブルージーンズという格好で、ジーンズのお尻部分にライオンの可愛らしいアップリケが貼ってある。「橘川さん、最近いつもすぐ帰っちゃうから」
早苗のその言葉に、橘川の心臓がけたたましく反応した。橘川は「そ、そうかな」と取りつくろうように苦笑し、コホンと咳払いをした。緑の野球帽のつばを少しだけ下げる。
「はい」
そう頷いてから、早苗は橘川に顔を向けた。その瞬間、橘川の顔から見る見るうちに笑みが消えていった。眼鏡の奥の早苗のまなざしが、いつになく真剣そのものだったからである。「無理はないと思います。橘川さん、みなみから聞いたんですよね。私が橘川さんのことを好きだってこと」
「あ、いや……」
あまりにストレートな早苗の言葉に、橘川は上手く返事をすることができなかった。何ごともなかったように十メートルほど歩いた後、なんとか「まあ……」と口にするのが精一杯だった。ふうと溜息を吐く早苗。
「やっぱり」
彼女は唇を尖らせた。「あの馬鹿。本当に口が軽いんだから」
しばらくぶつぶつと独り言を続けてから、彼女は開き直ったようにふうと息を吐いた。「まあ、いいや。どうせそのうちバレるだろうって思ってました」
やはり何も答えられない橘川。正直に言うと、早苗が自分のことを好きだという話が、単なるみなみの勘違いではないかと心のどこかで思っていたのだ。しかし、それがたった今否定された。彼の頭の中は生まれたばかりの赤ん坊のように真っ白となってしまっていた。
いつの間にか目的地の駅に到着してしまい、ロータリーのバス停前でどちらからともなく足を止める。話はまだ終わっていないということだ。ただ、早苗は先ほどから全く言葉を発しなくなってしまった。ひょっとしたら自分の返事を待っているのかもしれないと橘川は思う。そして彼は考える。
自分は大田早苗についてどう思っているのだろう。確かに、ここ最近は彼女のことが頭から離れてはくれないが、それは彼女の気持ちを知ってしまったからだ。それを抜きにすればどうだろう。いや、抜きにする必要はあるのだろうか。
「気にしないでくださいね」
橘川が猛スピードで思考を巡らせていた時、不意に早苗が言った。「え?」と目を丸める橘川。「私が橘川さんのことが好きだっていうことは確かですけど、それで橘川さんが迷ったり悩んだりする必要はありません」
「ですから……」と一度うつむき、再び顔を上げる。「もう私を避けないでください。前の橘川さんに戻ってください。私にとっては、こうして橘川さんと一緒にバイトできるだけでも幸せですから」
一歩後退してから「お願いします」と頭を下げ、早苗は今二人で歩いて来た道を走り去っていった。道路に飛び出しかけ、車にクラクションを鳴らされる彼女を見て橘川はハッと息を呑み、今度はその車に平謝りする彼女を見て、心を落ち着かせた。しかし、それは長くは続かなかった。たった今の彼女の言葉を思い出し、また心が平穏を失っていく。
そ、そんなこと言われてもなあ……。
ぼうっと立ちすくんだまま、橘川は意味もなく帽子を脱ぎ、それをかぶり直した。
橘川が自宅に帰りついた時、両親はダイニングのテーブルで朝食をとっているところであった。彼らに「おはよう、おやすみ」とだけ挨拶をして、すぐに自分の部屋へと引きこもる。橘川は帽子を机の上にポンと置き、それから倒れ込むようにベッドに仰向けになった。頭の中にはやはり太田早苗が居ついていた。
『こうして橘川さんと一緒にバイトできるだけでも幸せですから』
もし彼が色恋沙汰に経験豊富で、今までに何度も女性から愛の告白を受けている男であれば、明日から平然と、今までどおり友達として早苗と接していけるのかもしれない。しかし実際の彼は、この世に生を受けてからの二十余年、女性と交際したこともなければ、もちろん告白されたこともない。
一つの覚悟を決めなければならないと彼は思った。不器用な自分に残された道は、早苗に交際を申し込むか、もしくは早苗に別れを告げるか、そのどちらかなのだと。
目をつむり、深く息を吐いてから、彼はもう一度真剣に考えた。
自分は大田早苗についてどう思っているのだろう。