11 リニューアルオープン
「はあ、はあ、やっと着いたー」
綾香の自宅は吉祥寺本町の西側にあった。吉祥寺駅を挟み、松庵の真一のアパートとは、ほぼ正反対の位置である。距離的には、真一のアパートから、一駅程度離れている為、彼女は三十分以上歩いて、ようやく自宅へと辿り着くことができた。
三階建ての小さなビルである。一階のエントランスホールにて、ずらりと並んだ郵便受けに向かい、彼女がパカッと携帯を開いたときには、彼女の着ている水色のワンピースは汗でびしょびしょになっていた。ちなみに、このワンピースは先ほど真一のアパートを飛び出した際、適当に選んで着たものである。真一のアパートには綾香の衣服も多数備えてあるのだ。
携帯の液晶に着信アリの文字。全部で三つの着信が入っており、その全ては真一からのものだった。
まさかいきなり私がアパートを飛び出すとは思わんかったかな。
綾香はふふっ、と苦笑し、着信を無視したまま、詩織の携帯へ電話をかけた。しばしのコール音の後、先ほど聞いたばかりの、親友の声が聞こえだす。
「なに、どうしたの? ……え? そんなこと言われても私はアイドルなんて興味ないし、さっきも言ったでしょ? ……えー?」
携帯を耳にあてたまま綾香は階段を上がり、二階の廊下に出た。そして横に三つ並んだ扉のうちの、一つの前に立ち、バッグを探る。やがて、バックの中から取り出した鍵でロックを解除し、扉を開けた。真っ暗な部屋が彼女を出迎える。
真一のアパートより少し上等な1LDKであった。ただし家賃はほぼ二倍である。
「いったいどうしちゃったの綾香? ……え? そんなのやだあー、それなら直接スカウトの人に頼めばいいじゃん! ダメ! あんたの悪い癖だよ。私もいい加減めんどうみきれない、じゃあね! ガチャ、ツーツー……」
詩織との通話が途絶えたとき、綾香は既にリビングのソファでゆったりとくつろいでいた。いや、正しくはゆったりとしているのは姿勢だけで、頭の中では相当焦っている。
や、やばい……。詩織なしじゃ、どうやってあいつに頼めばいいん?
彼女の目論みはこうだった。まず、なんとか詩織を説得し、サニーダイヤモンドプロダクションへ連れていく。そこで詩織に、『私がアイドルになるなら、綾香と一緒じゃなきゃ嫌だ』と駄々をこねさせる。晴れて、アイドル池田綾香の誕生というわけだ。真一のアパートを飛び出し、自宅へ戻ってきたのも、この密談を彼に聞かせないためである。
いくらなんでも都合良すぎたかな……。仕方ない、真一には本当のことを……。
チャラチャラチャーン♪
突然彼女の携帯の着メロが鳴り出した。綾香は驚き、ソファの上で三十センチほど飛び上がる。
し、真一?
そう思い、液晶を見るも、そこには覚えのない番号が表示されていた。
ま、まさかあの黒スーツ男じゃ……。早くも催促の電話か?
おそるおそる通話ボタンを押す。
「あー、もしもし」
聞き覚えのある男の声だ。「お疲れっすー。『キャンユー』の真鍋っす」
「え?」
拍子抜けする。「ま、真鍋さん? お疲れさまですう……」
綾香のバイト先の先輩であった。『キャンユー』は大手雑貨安売りチェーン店で、彼女がバイトしている店は吉祥寺駅北口近くの『キャンユー吉祥寺駅前店』である。
「あー、いきなりごめんね。池田さん、今日休みだったからさ。実は再来月から、うちの店リニューアルオープンすることになったわけよ」
「リニューアルですかあ……?」
綾香は、古ぼけた店の内装を思い出した。
まあ、リニューアルするのもアリやろうねー。
「そんでもってさ、改装工事が今月末から始まるからさ、その報告ねー」
「あー、そうなんですかあ」
とぼけた声で相槌を打つ。
「うん、だから今月末から再来月までバイト休みだから。そんじゃ、お疲れっすー」
「お疲れさまですうー」
真鍋との電話を終えて、しばらくぼおっと部屋の中を見る綾香。やがて、そろそろ就寝しようか、と彼女は立ち上がり、洗面所に向かった。いや、向かいかけた。
あ、あれ……?
重大なことに気づき、固まる綾香。またまた汗を滴らせている。
再来月まで休みってことは……来月の給料はどうなるん?
答えはもちろん『ゼロ』である。