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18 涙の記憶

 綾香が帰宅した時、玄関の鍵は開いていたものの井本真一はすでに寝室で眠りこけているらしかった。リビングの灯りを点け、壁かけ時計で時間を確認する。真一が就寝しているのも無理はない。もう深夜四時を回っているではないか。鍵は単に閉め忘れただけであろう。

 綾香はキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットを取り出し、それをコップに注いだ。コップの水を飲み干しながらリビングへ戻り、糸の切れた操り人形のようにお尻からソファへと崩れ落ちる。

 あー、明日のラジオ休みたいなー。

 正午よりラジオの生放送にゲスト出演する予定で、それが明日一発目の仕事である。南に『絶対遅刻するなよ』と何度も釘を刺されたが、はっきり言って遅刻しないという自信はない。

 高級焼肉店を出た後、明日は休みだと言うちえ美を誘い、二人でカラオケを楽しんだ。始めは深夜零時になったらお開きにしようなどと話していたが、意志が弱く延長に延長を重ねてしまった。

 綾香は数分間人形のように身動き一つせず、ソファにぼうっと座っていた。不特定な場所に視線を定め、何を連想するわけでもなくただぼうっと。焼肉店での半ジョッキだけであるも、アルコールも入っている。眠気も混じり、頭と身体を働かせる気力を無くしていた。そんな中、彼女が唯一形にすることのできた意志がある。

 眠い……。さっさと寝よう。

 最後の力を振り絞って立ち上がり、彼女はリビングの灯りを消して寝室へ向かった。

「ただいまー」

 毛布にくるまって眠る真一の耳元で綾香は囁いた。真一が何も反応しないため、綾香はつまらなそうに唇を尖らせ、彼の隣の布団に横たわった。寝室には真一の分と綾香の分と常に二枚の布団が敷きっぱなしになっているのだ。

 仰向けになり、毛布を肩までかぶる。常夜灯の優しげな光に照らされながら、綾香は静かにまぶたを閉じた。



 綾香は嵐の中にいた。八方から押し寄せてくる津波のように威圧感を持った轟音。しかし、それが不思議と心地よく身体にしみこんでいく。

 そうか。これは歓声だ。私は嵐のような大歓声の中にいるんだ。

 スポットライトが彼女をとらえた。一層高まる観客のボルテージに応え、綾香は両手を大きく振った。

 どこかの屋内コンサート会場だ。とても大きなホールで、どのぐらいの観客が入っているのかは計り知れない。人の波は無限の宇宙のようにどこまでもどこまでも伸びているような気がした。

《みんなー!》

 ハンドマイクを通し、綾香、いや、綾川チロリはファンにそう呼びかけた。トレードマークの白いハットを頭にかぶり、ノースリーブの白いシャツとデニムのホットパンツを着用している。《アンコールありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えてもう一曲だけ歌わせてもらうばい!》

 更なる大歓声と時を同じくして再びステージが暗転する。ドラムのカウントに合わせ、爆発音が響く。アンドロメダのような無数の照明たちが同時に光を放ち、キャノン砲からアリーナへ向けて大量のカラフルな紙吹雪が飛び出した。

 疾走感のあるポップなナンバーだ。『やっぱり博多が好きやけん』ではない。しかし、彼女はもちろんその曲を知っていたし、自身の代表曲として認識していた。

 盛り上がりは最高潮のまま、あっという間に曲がクライマックスを迎える。さあ、ラストはお馴染みのフレーズ。綾香が左手を上げ、人指を立てる。

《ワン、ツー、スリー……》

 中指、薬指と順に指を起き上がらせ、彼女はタメを作った。そして……。

「イエーイ!」

 彼女と共に、会場のファンが一斉に左手を腰に、右手をピースにして額に当てチロリンポーズをし、叫ぶ。全員が一体化した瞬間だ。

 綾香は泣いていた。ライブの成功に対する感動と、それをファンと一緒に分かち合える感動……。

 あれ?

 いや、違う。それを遥かに上回る別の感情が、彼女の涙を心の奥底からくみ上げていた。

 彼女は胸にポッカリと開いた穴の存在を認めた。

 そうだ。そうだった。

 彼女はようやく思い出した。

 もういないんだ。真一はもう……。



 バッと綾香は上半身を起こした。息は上がり、身体中にびっしょりと寝汗をかいている。彼女はゆっくりと周りを見回した。薄暗い部屋、懐かしい匂いのする部屋。いつもの、吉祥寺の自宅ではないか。

 真一……?

 ふと顔を横に向ける。そこに毛布の中でうつぶせて、ぐっすりと寝息を立てる真一の姿があった。綾香はひと安心し、真一の枕もとに置いてある目覚まし時計を見た。時刻は午前五時。彼女が床についてから一時間も経過していない。

 はー、なんかリアリティのある夢だったな。

 改めてそう思っては見たものの……。

 あれ? どんな夢だったっけ?

 綾香はどうあがいても夢の内容を思い出すことができなかった。ただ、夢の中で自分が覚えた感情だけは目を覚ましてもずっと継続したままだった。目もとにうっすらと浮かんだ涙もその名残だ。

 彼女は真一の毛布をまくり上げ、彼に身体を密着させた。彼の金髪の頭にぐるりと腕を回し、思いっきり抱きしめる。そしてそっと呟く。

「真一。どこにも行かんどいてよ」

「んー……?」

 呻き声を上げる真一。綾香の腕の中で頭をキョロキョロと左右に動かし、やがて身体を反転させる。綾香の顔を確認し、彼は眉をひそめた。「なんだよー。自分が遅く帰ったからってわざわざ起こすんじゃねえよ。明日も仕事なんだぞ」

「お、起こそうとしたわけじゃないとよ」

 サッと腕を解く綾香。「ちょっと怖い夢見ちゃって」

「起こそうとしてるじゃんかよ」

 真一は手の平で自分の顔を何度かマッサージした。「なんで怖い夢見たからって俺にヘッドロックかましてくる必要があんだよ」

 ヘッドロックじゃないもん!

「別にいいよ」

 くるりと転がり、綾香は自分の布団に戻った。「一人で寝ればいいっちゃろ」

 また毛布を被り、ふて腐れたように目を瞑る。しばらく暗闇の中で複雑な思いをめぐらせた後、真一のチッと舌を打つ音を聞いた。

「分かったよ」

 けだるそうな声で真一は言った。まぶたを開き、彼に顔を向ける綾香。「ほら、来い」

 毛布を手で浮かせ、そこに綾香を誘い込もうとする真一。綾香は待ってましたとばかりに、ひょいと軽快な動きでその中へ身体を滑り込ませた。

「どこにも行かんどいてよ」

 真一の腕枕に頭を乗せ、身体に腕を回しながら綾香はもう一度念を押すように言った。真一は「何言ってんだよ」とやはりめんどくさげに答えてから、大きなあくびをした。


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