15 青天の霹靂
秀英大学の正門を出て五分ばかり歩いたところに、中年の夫婦が切り盛りする定食屋がある。五百円あればそれなりにボリュームのある食事にありつけるため、学生には特に人気のある店である。昼のピークを過ぎた午後三時。橘川夢多はこの店で少し遅めの昼食を取っていた。狭い店内(カウンター席が八つあるのみである)に他の客はサラリーマン風の男性二人組だけで、カウンターの中ではメニューを出し終えた店主が退屈そうにスポーツ新聞を読んでいた。
橘川贔屓のメニューは豚キムチ定食で、同時にこの店一番の人気を誇るメニューでもあるという。もちろん今日も彼が注文したのは豚キムチ定食であった。
バリバリとキムチをほお張りながら「ふあーあ」とあくびをする。本日は夜勤明けで昼からの自身が慕う教授の講義に出席してきた。もう卒業に必要な単位はほとんど取得しており、残された大学生活ですべきことを大雑把に言うと就職活動と卒業論文の作成のみなのだが、バイト先の店が学校の近くにあるため、バイトついでに学校へ顔を出さないと気が済まなくなってしまうのだ。ちなみに、講義の時間まで何をしていたかというとインターネット喫茶で時間を潰していた。
ガラッと店の引き戸が開き、四人組の女性が入ってきた。途端に店内が華やぎ、店主が鼻の下を伸ばす。秀大生であろうか。見た限りでは明らかに同年代である。基本的に人見知りをするタイプの橘川は、彼女たちに関心を示そうとはしなかった。野球帽のツバで顔を隠すように、うつむいて黙々と食事を続ける。ただ、よく考えてみると彼は横一列のカウンター席のほぼ中心に居座っており、このままでは四人組が橘川を挟んで席につくことになる。橘川は豚キムチ定食を盆ごと持って、一番端の席に移動した。
「あ、ありがとうございます」
四人組の一人が礼を言う。橘川は帽子のツバをつまみ、「いえ」となぜか頭を下げた。と、その時であった。
「あっ!」
四人の中で最も離れた場所にいた女性が声を上げた。他の三人と同時に、橘川も思わず彼女に注目する。無礼にも橘川を真っ直ぐに指差すその女性は、元秀英祭ツアー実行委員仲間であり、今はバイト仲間にあたるギャル系女子大生大庭みなみであった。髪を黒く染め直し、前よりは少々落ち着いた雰囲気になったものの、化粧は相変わらず濃い。白い薄手のワンピースに花柄のチョッキを重ね着している。
「あ、お疲れ」
橘川は箸を持つ右手を上げ、そう挨拶をした。みなみがずかずかと橘川のもとまで歩いてきて、彼の隣の席を陣取る。
「橘川さん。私、二年生になれましたよ!」
いちいち報告しなければならないほどまずい状況だったのかと心の中で呟きつつ、橘川は「あ、そう? おめでとう」と一応祝福しておいた。他の女性の一人がみなみに「知り合い?」と確認する。「うん、バイトの先輩」と答えるみなみ。
「同じ日に入ったんだから先輩じゃないでしょ」
橘川が苦笑しながらツッこむが、それを無視し、みなみは店主に橘川と同じ豚キムチ定食を注文した。
「それより橘川さん、聞きましたよー」
意地悪そうな笑みを浮かべるみなみ。何も思い当たることがなく、橘川は「え?」と目を丸めた。「早苗先輩を泣かせたそうじゃないですか。この色男!」
「は!?」
橘川の目が更に大きくなる。ますます覚えがなかった。「早苗ちゃんを俺が? そんなわけないじゃん。昨日も一緒に夜勤入ったし」
その言葉を聞き、今度はみなみがキョトンとした表情になる。それから、うつむき加減になり眉をひそめ、やがて静かに口を開いた。
「何言ってるんですか? まさか忘れちゃったとかじゃないでしょうね」
みなみが台詞を発する度にわけが分からなくなってしまう橘川。もう豚キムチ定食は二口ほどで食べ終わるというのに、箸は完全に止まっている。
「どうゆうこと? 何かの間違いじゃないの?」
「あらー、橘川さん、けっこう冷たいですねー」
「え? え?」とパニックになる橘川を一瞥し、みなみは続けた。「一週間ぐらい前に早苗先輩から一緒に映画を観に行こうって誘われましたよね。それなのに、お金がないからって断ったそうじゃないですから」
「あ、うん。そういえばそんなことあったね」
橘川の頭の中にその時の情景がパッと浮かび上がる。夜勤終わりにコンビニのバックルームにて、二人で世間話をしていた時のことだ。「何かと物入りでさ。って、まさかそんなことで泣いたわけじゃないでしょ?」
「うわ、最悪」
みなみではない、彼女の隣に座る女性が呟く。今のは自分に対して言われたのか? と橘川は悩んだ。
「そのことに決まってるじゃないですか」
店主から盆に乗った豚キムチ定食を手渡されるみなみ。見るからに不機嫌そうな表情をしている。「早苗先輩、その後すぐに藤岡先輩に電話したそうですよ。『あいつがあんなに泣いたの初めて見た』って、藤岡先輩言ってました」
「ええ!?」
他の客や店主の目も気にせず、橘川は大きな声を上げた。と、いってもサラリーマン二人組はいつの間にか姿を消していた。「だってその時は、なんとなく好きな映画の話になって、その流れで早苗ちゃんが冗談っぽく誘ってきただけなんだよ? 断った時も笑ってたし、今日だって別におかしなところはなかったし……」
慌てて弁明する橘川。少しツバが飛んでしまったかもしれない。
「早苗先輩の気持ちも考えてください」
ツンとした口調で、橘川を見ずにみなみは言った。「冗談混じりに聞こえたかもしれませんけど、きっと早苗先輩はすごく勇気を振り絞ったんだと思います。それなのになんですか。『お金がない』なんて、バイトの給料が出た後でもいいでしょう?」
「勇気を振り絞ったって……」
おどおどとそう口にする橘川に、みなみは冷たく流し目を送った。
「気づいてないってことはないでしょ?」
また橘川から視線を逸らす。一度キムチを口に入れバリバリとそれを噛み砕き、飲み込んでから彼女は続けた。「早苗先輩は橘川さんのことが好きなんですよ。バイト先の人たちは全員気づいてるんだから」
更に、橘川へ視線を戻す。その瞬間、彼女の表情から毒が抜ける。「へ? 橘川さん?」
橘川は口をぽっかりと開けて固まっていた。最後の一口となるご飯を、箸で器用につまみ上げたまま……。
さ、早苗ちゃんが俺のことを?
定食屋を出てからも橘川の頭の中は様々な事象で埋めつくされ、街の風景も通りすがりの人の顔も何一つ認識することができなかった。
それは家に帰ってからも継続した。夜勤明けで、すぐにでも眠ってしまいたいはずなのに目はギンギンに冴え、ベッドに寝転び小説を読めば内容が頭に入らず、テレビゲームをすればゲームオーバーになったことさえ気がつかない始末。
おまけにだ。楽しみにしていたはずの、綾川チロリ出演バラエティ番組はあっさりと見逃してしまったという。