10 アイドルな彼女
四月に突入してから数日が過ぎ、井の頭公園の桜もすっかり満開となったある夜のこと。
二人前のインスタントラーメンを盆に乗せ、キッチンからリビングまでの短い距離を、汁をこぼさないように慎重に運ぶ。無事にリビングのテーブルに盆を置き終えた後、井本真一はふうと息を吐き、額の汗を拭った。地味なグレイのトレーナーに、愛用のジーンズを着用している。
「おい、綾香。飯だぞ」
ソファで眠りこける恋人池田綾香の頭をガシガシと蹴る。「んん」と呻き声を上げ、ゆっくりと身体を起こす綾香。分かりやすいほどの寝ぼけまなこで、薄らと茶に染めた髪の毛のところどころに寝癖がついている。胸元の開いたシャツにブラウスの重ね着。下はピチッとしたブルージーンズを履いている。おそらく外から帰った時のままのであろう。その証拠に、ソファの足元に彼女愛用のポーチが転がっている。
「あら? 久しぶり。帰っとったとー?」
目をこすりながら間の抜けた声で綾香は言った。それから、すぐにテーブルの上のラーメンに気がつき、ひょいとテーブル前に移動する。「わー。ぶるうす直伝のラーメンやね。どうしたと? お店から麺とスープ盗んできた?」
「インスタントだよ。馬鹿」
真一もテーブルの前に座り、箸でラーメンをつまみ上げる。綾香は「なーんだ」とぼやきながらもラーメンの匂いを嗅ぎ、「うーん、良い香り」と幸せそうな顔を見せた。
「いやー、一流アイドルは辛いねー」
しみじみと言う彼女。「昨日は夜遅くまでバラエティ番組の収録でさ。今日なんか雑誌の取材を三件受けたかと思ったら、午後からはレコーディングばい。レコーディングが済んでも、今度の曲は振り付けもあるけん、それのレッスンも受けないかんとよ。いったいいつになったら心休まる時が来るっちゃろ」
「じゃあ、やめりゃあいいじゃん」
「は?」
ズズズっとラーメンを啜る真一の顔を綾香が覗き込んだ。「やめるって何を?」
「アイドル」
ラーメンを口に入れたまま真一は答えた。綾香は一瞬顔をキョトンとした顔を見せたが、すぐにはぐらかすように笑みを浮かべた。
「別にそう意味やないとって」
バンバンと真一の背中を叩く彼女。真一は「ブッ」とラーメンを逆噴射した。「まあ、確かに毎日忙しいけどね。『キャンユー』で週六働いとった時に比べたら全然マシやけん。なんていうか充実度も全然違うし、生活もけっこう楽になったばい」
「まあ、そりゃそうだわな」
綾香を見ずに、真一は言う。「でも本当に時間が合わなくなっちまったよな。お前、一昨日も収録で朝帰りだったし、俺たちが顔合わせたの三日ぶりだぞ。さっきなんか普通に『久しぶり』とか言いやがって」
うーん、と綾香は言葉を失くしてしまったかのように唸った。二人の間に気まずい空気が流れ込む。真一は少々罪悪感を覚え、その空気をどこかへ吹き飛ばしてしまうことができる団扇を欲した。
彼はテレビのリコモンを手に持った。
「ん?」
テレビ番組に先に反応したのは綾香であった。毎週午後九時から放送されている『エンタメな人々』のようである。各界の著名人十数人が円を作って座り、様々な話題でトークをするという番組である。
「ああ」
真一は納得した。テロップに『好きな女性アイドルは?』とある。どうやらそれがトークのテーマらしく、綾香はそれに反応したのであろうと思う。今回は番組に出演しているタレントの多くが男性お笑い芸人であり、話題も軽いものが中心なのかもしれない。
出演者の口から様々なアイドルの名前が挙がる。小悪魔アイドル菊田つばきが本当は心優しい子だと力説する者もいれば、巨乳アイドル滝田亜佐美の男らしいエピソードを披露する者もいる。
「あ、裏切り者も出てる」
綾香は言った。『裏切り者』とはカビリオンズのことであろう。去年の終わり頃から今年の始めになって突如人気が上昇し、綾川チロリを凌ぐサニーダイヤモンドプロダクションの看板タレントとなったにも関わらず、一ヶ月ほど前に他の大手プロダクションに電撃移籍してしまったため、綾香は彼らのことをそう呼んでいる。
《僕はやっぱり松尾和葉ちゃんですね》
カビリオンズのボケ担当、野田誠が言った。《ルックスや巨乳は言うまでもなく、あのほのぼのとした雰囲気がいいですよね。カメラ回ってないところでもあんな感じなんですよ。思わず守ってあげたくなると言うか》
「嘘だ!」
テレビの画面を指差す綾香。もうラーメンは汁のみとなっている。「こいつ実際会ったらめっちゃ性格悪そうやったもん。前話したやろ? 私にケンカ売ってきたっちゃけん……」
真一に顔を向ける綾香。真一は「ふん」と鼻で笑った。
「だから、どうせお前が何か失礼なことしたんだろ」
丼を両手で持ち、スープに口をつける真一。丼を置いてから続ける。「結局俺へのサインもしてくれたんだから、性格悪いわけねえじゃねえか。俺の和葉ちゃんの悪口言ったら、いくらお前でも許さねえぜ」
「私、別に何もしとらんもん」
ふて腐れた顔になり、ぶつぶつと何かを言いながら再びテレビに視線をあずける綾香。カビリオンズのツッコミ担当松岡キャッツが、密かに流行している熟女アイドルへのマニアックな愛を熱弁しているところだ。
「それにしても」
頬づえをつき、綾香の横顔を眺めながら真一は言った。「どこかの一流アイドルさんの名前は全く出ねえな」
「……!」
真一を睨みつける綾香。すぐにプイと顔を背け、「今に出るよ」と強がった。
結局綾川チロリの名前は出ずじまいで、『エンタメな人々』は終了した。癇癪を起こしたようにテレビの電源を切り、リビング隅のパソコンデスクに向かう綾香。
「おい、食器ぐらい自分で洗えよなー」
つまようじで歯を掃除しながら真一は言う。しかし綾香は彼を無視し、パソコンを立ち上げてからデスクの椅子に寄りかかって座った。
「次に出すセカンドシングルは少なくとも前作以上の売り上げを記録したいけんね」
両手を頭の後ろで組み、パソコンの起動を待つ綾香。「そのためには固定ファンの増加が必須条件なんよ。ちょっとおいで」
ちょいちょいと真一を手招く。
「ん?」
立ち上がり、真一は綾香のもとまで歩いた。「なんだよ」
「さっきの番組みたいに、誰かがあるアイドルのことを好きって話すと、なんだか自分まで好きになったように錯覚することもあるっちゃんね」
綾香は真一にウインクをした。