9 やっぱり博多が好きやけん
トーマスは部屋の隅に置いてある機材のもとまで歩いた。ボタンを操作し、つまみをいじる。相変わらずメソメソとハンカチで目元を拭う姿が非常に滑稽である。
「もういい加減泣きやんでよ」
ドラムセットの椅子に座り直した綾香がうんざりとした口調で言った。トーマスが無言で頷くのを確認し、じっと曲が流れるのを待つ。やがて、部屋中のスピーカーから派手なデジタル音が鳴り響く。管楽器を用いたポップなイントロが、軽快なビートに乗り突き進む。
け、けっこういいかも。
蓋を開けてみればアイドル歌謡と言うよりも、パワーポップといった雰囲気の楽曲である。無意識のうちにリズムに合わせて小さく頭を振る綾香。ほのかな期待に胸を膨らませながら、イントロが終わるのを待つ。そして、不気味に可愛い子ぶった男性の低い声がAメロを奏で出した瞬間、綾香は「ちょっと待って!」とトーマスに停止を要求した。トーマスがボタンを操作し、曲がストップする。
「どどど、どうしました?」
涙目のトーマスが眉の端を垂らす。綾香は今にも吐いてしまいそうな顔をしながら答える。
「歌が気持ち悪すぎるんですけど……」
「ああ、僕が一オクターブ低く歌ってるんです」
自分を指差すトーマス。久しぶりに笑顔になる。「キーはチロリさんに合わせています。自分が歌ってるとイメージして聞いてくださいね」
「わ、私が歌っていると……」
綾香は複雑な気持ちになりながらも、集中し、言われたとおりにしようと決意した。曲が再開する。しばらくはトーマスの不気味なボーカルに心が拒絶反応を起こしていたものの、なんとかイメージングに成功し、次第に自分が歌っているような気になってきた。
トーマス岸辺が綾川チロリのために書き下ろした『やっぱり博多が好きやけん』。
歌詞は、東京への憧れに始まり、挫折を経て博多への愛に還る、といったタイトルどおりの内容。特筆すべきはキャッチーで覚えやすいメロディラインにある。事実、綾香は一度聞いただけでメロもサビもしっかりと心に刻み込むことができた。
曲が終わり、綾香はまずこう口にした。
「聴きやすい曲ですね」
「はい!」
先ほどまでの涙が嘘だったかのように、感無量といった表情を見せるトーマス。「コンサートで映える曲を作りたかったんですよー。チロリさんが手で煽って、ファンが大合唱するんです」
その光景を思い浮かべる綾香。悪くはないなと思う。
歌唱力に絶大な自信を持ち、自身の愛するR&B系ラブバラードで頂点を極めるという夢はまだ捨てきれてはいない。しかし、今回の曲にはラブバラードにはない魅力も確かに存在し、それをどこかで欲している自分にも気がつく。デビューから半年しか経過していない自分に対して、ファンが望むものはいったい何なのであろうか。
綾香は立ち上がり、マイクスタンドの前まで歩いた。トーマスが小さな目を見開き、彼女の顔を凝視する。彼女は言った。
「一回歌ってみるけん、カラオケバージョン流して」
トーマスから手書きの歌詞カードを手渡され、じっくりと歌詞を確認しながらイントロを聞く。先ほどのイメージングを再び呼び起こし、自分のボーカルを何度もシミュレーションする。そして歌い出す。
「おお!」
意識の隅で、トーマスが声を上げたことに気がつきつつも、綾香は自分の世界に入り浸り、歌にのみ全神経を集中させた。目の前に観衆が広がり、歌に合わせて観衆が手拍子をする。綾香は手を上げて答え、それから合唱を促した。『やっぱり博多が好きやけん』がまるで国歌のようなポピュラーナンバーに変貌を遂げた。誰もがその曲を知り、誰もがその曲を愛す。観衆たちの合唱を先導するのは、高校時代のカラオケ三昧の日々と度重なるボイストレーニングに裏打ちされた実力派アイドル綾川チロリの伸びのあるボーカル。わずか三分ばかりのステージが終わると、観衆はチロリに拍手と歓声を送り、チロリも笑顔でそれに応じてみせるのであった。
「すすす、凄いです! さすがです!」
トーマスの興奮気味なその声で現実に引き戻される綾香。彼女は「そう?」と照れたように頬をかいた。「歌が上手だということは存じ上げておりましたが、生で聴くと尚更凄いですねー。僕が歌ったバージョンとは月とすっぽんのようですね」
そんなもんと比べんでよと心の中で毒づきながらも、綾香は満足げに鼻を鳴らした。
「タイトルはあれやけど、こうゆうファンと一体感が持てる曲っていいね。でも……」
指をあごに当て考え込む。「なんか曲の最後あたりで皆が一つになれるようなフレーズが欲しいかなー。お客さんと一緒にチロリンポーズしたり」
「そそそ、そうですねー」
腕を組んでトーマスも眉間にしわを寄せる。「最後に博多コールでも入れときますか」
「それじゃあチロリファンっていうより博多ファンみたいやん」
冷静にツッコミを入れる。そもそも博多出身ではない彼女自身、それほど博多に愛着があるわけではない。「ま、この曲じゃ難しいかな。次の曲でお願いします」
綾香がそう言った瞬間、トーマスがこの世の絶頂ともいえる幸せそうな顔を見せた。わけが分からなくなり「え? え?」とうろたえる綾香。トーマスはその表情のまま言った。
「つつつ、次も僕がプロデュースして良いんですかー」
「あっ」
心の中でしまったと呟く綾香。まだ『やっぱり博多が好きやけん』がヒットするとは決まったわけではない。彼女は一度咳払いをし、言葉を選びながらゆっくりと発言した。「と、とりあえずこの曲がヒットせんと始まらんけんね。うちのマネージャー無情やけん、もしコケたらすぐに他のプロデューサーに代えようとするかもしれんやん」
「じじじ、じゃあ、こうゆうのはどうでしょう」
人差し指を立てるトーマス。「ヒットチャートで『クレセントムーン』の十六位を超えたら次も僕ってことで」
「私が決めるこっちゃないけど」
綾香はうーんと唸り声を上げた。それでまた『クレセントムーン』なみにヒットチャートを駆け下りてしまっては意味がない。「まあ、せいぜい十位以内に入るようやったら、文句なしで次もトーマスさんでいいっちゃない?」
「じじじ、十位以内ですか。セブンティーンプラネットのシングルが、アキバのCDショップで五位に輝いたことならありますけど……」
「その実績は全然当てにならない!」
綾香はふうと息を吐き、またドラムセットの椅子へと帰った。シンバルたちの間に見えるトーマス岸辺の寂しい頭を眺めつつ、セカンドシングルの行く末を少々不安に思う。
博多への愛を歌った曲か……。こんなん本当に流行るとかいな。
その時彼女は何気なく鼻歌を歌っていた。それは『やっぱり博多が好きやけん』のサビのメロディーであった。