8 凄腕プロデューサー
「ささ、チロリさん」
トーマスが綾香の背後に回り込み、彼女の肩をガッシリと掴んだ。「えっ!?」と狼狽し、後ろを確認しようとする綾香であったが、有無も言えぬままトーマスに肩を押され、ドラムセットのほうへと誘導されてしまう。「長旅ご苦労さまでした。足が疲れたでしょう。どうぞお座りください」
ドラムセットの後ろまで来たところで綾香は理解する。そこにこの部屋唯一の椅子があったのだ。彼女は遠慮なく椅子に腰かけ、ふうと大きな息を吐いた。ダッフルコートをひざの上に置き、それから両手を前で組み、やたらとニコニコした顔で脇に立つトーマスを見やった。
「ここってスタジオなんですよね……」
近くにあったドラムセットの大きく太いシンバルをなんとなく指で弾く綾香。コーンと意外に重い音が鳴る。「なんか私の知ってる場所と違います。ガラスで仕切られてないし、マイクも小さいし」
「そそそ、それはレコーディングスタジオですね」
ハンカチでちょこまかと顔全体を吹き上げるトーマス。「ここはリハーサルスタジオ。主にバンドマンの子なんかが練習に使うんですよ。レコーディング機材は一切ありませんし、ミキサーもいません。今日は自己紹介と軽いセッションだけ行う予定でしたから、安い練習スタジオで充分なんですよ」
台詞にスピードの緩急があり、聞き取るのに無駄な労を要する。少し時間をかけ理解できたところで、綾香は「はあ」と適当な相槌を打った。
「うちのマネージャーは新鋭のプロデューサーだって言ってたんですけど」
一応、機嫌を損ねてしまわないか上目づかいでトーマスの表情を窺いながら話す綾香。しかし、彼の機嫌が悪くなる気配はまるでない。「トーマスさんって今までに誰かアーティストをプロデュースしたことはあるんでしょうか」
「ももも、もちろんあります」
ドンと右手で胸を叩くトーマス。「アキバ発のセブンティーンプラネットというアイドルユニットをご存知ですか? 彼女たちは元々路上で細々とアイドル活動を行っていましたが、僕のプロデュースにより、地下でワンマンライブを行えるほどにまで成長しました」
やはり数秒間リスニングに難航した後、綾香は眉をひそめながら宙に視線を漂わせた。アキバ発のアイドルセブンティーンプラネット……。知らない。
「それってアマチュアの人なんじゃ……」
「アマチュアじゃなくてインディーズですね」
そこは譲らないトーマス。「ままま、まあ、プロのアイドルさんをプロデュースするってのは確かに初体験ですけど、んでもってプロのアイドルさんを目の当たりにして少々緊張してはいますけど……。一所懸命頑張りますので安心してください」
ガッツポーズを決める彼を横目に、綾香は複雑な表情でまたコーンとシンバルを鳴らした。マネージャー南吾郎の顔を思い浮かべる。
クソ……。あいつ、経費ケチったばいね。
「事務所はアイドル歌謡曲路線で行くって言ってますけど」
あきらめたようにはあと溜息を吐く綾香。「曲はトーマスさんが作ってくれるんですか?」
突然シャキっとした顔になるトーマス。その様子を見て、綾香は「ん?」と目を丸めた。
「チチチ、チロリさんのプロデューサーになるって話を頂いてから、今までのチロリさんの活動をしっかりと勉強してきました。デビューイベントでは豚のぬいぐるみで登場してスベったり、壷を割って号泣したり、サバイバルゲームで負けて罰ゲームしたり、先月は番組の企画でフットサルの試合をして、開始一分で足がツって退場していましたね」
「蒸し返して欲しくない活動もありますけど」
むしろそればかりである。
「こうしてチロリさんの人となりを知り尽くした僕だからこそ、チロリさんにピッタリな曲が作れるんだと思います。先日の『クレセントムーン』、確かにあれも良かったですけど、あれ以上の感動を呼ぶことのできる曲を今回用意させて頂きました」
「『クレセントムーン』以上の感動……」
綾香はまんざらでもないような表情を浮かべる。自信満々なトーマスの様子を見る限り、その言葉がまったくの嘘には聞こえなくなってきたのだ。「そ、その曲ってどんな曲なんですか?」
「ででで、では、とりあえずタイトルを発表します」
トーマスはコホンと咳払いをした。もったいぶったような口ぶりである。「タイトルは……」
「タイトルは?」
ゴクンと生つばを呑む綾香。トーマスは目を閉じた後大きく息を吸ってから、ようやくそれを口にするのであった。
「『やっぱり博多が好きやけん』」
……。
六畳の小さなスタジオ内に冷たい空気が流れ込んだ。
「それじゃあ」
立ち上がり、ダッフルコートを羽織ろうとする綾香。「私はこのへんで失礼します」
「落ち着いてください落ち着いてください」
トーマスが慌てて綾香からダッフルコートを脱がせる。不安げに綾香の顔を覗き込み、彼は言った。「ななな、何か気に入らないことでもありましたでしょうか」
「だって、タイトルを聞く限りやったらアイドル歌謡っていうか、昭和歌謡にしか聞こえんっちゃもん。っていうかコミックソング?」
「ちちち、違います。断じて違います」
ぶるぶると顔を振るトーマス。綾香の顔につばが飛び、彼女は「わ!」とすぐさま手で顔を拭った。「チロリさんといえば博多出身で、しかも東京で幾多の挫折を経験しておられます。そんなあなたが地元の博多を想うこの曲を歌えば、大衆の心をガッシリと鷲掴みできるっていうことです」
「今回が最大の挫折になりそうやもん!」
再びダッフルコートを羽織り、綾香はずかずかと扉のほうへ歩いた。「マネージャーには私のほうから言っておきますんで、この話はなかったことにしてください。さいならー」
取っ手を掴み、ひねり上げる。五センチほど扉が開いたところで、背後から聞こえる何とも不穏なサウンドに気がつき、「ん?」と綾香は後ろを振り返った。すると、部屋の中央で立ち尽くし、シクシクとすすり泣くトーマスの姿が視界に飛び込んできた。
「わー! 泣かんでよ」
扉を閉め、トーマスのもとに駆け寄る綾香。「別に私じゃなくても良かろうもん。あんたが凄腕プロデューサーなら、すぐに新しいオファーが来るっちゃないと?」
「チチチ、チロリさんのプロデューサーになることが決まってから、ぼかあ毎日チロリさんのことばかり考えていました」
喋り方に加え涙声まで混じり、更に理解が困難であったが、綾香は必死で聞き取ろうとした。「そそそ、それなのにこんなにアッサリと解雇されてしまうなんてぼかあ、ぼかあ……」
「分かった! 分かったから」
綾香は両耳をふさぎながら叫び声を上げた。「さっさと『博多が好きですけん』聞かせてよ! 聞くだけ聞いちゃるけん」
「違います」
グスっと鼻を啜り、トーマスは言う。「『やっぱり博多が好きやけん』です……」
「どっちでもいいよ!」