7 迷い子少女
週末の午後一時ほど。御茶ノ水駅に降り立った池田綾香は、案内板を参考に文京区側へと歩いた。すぐに、彼女も何度か足を運んだことのある所属レコード会社『万有レコード』の本社ビルが姿を現す。しかし、綾香はそこを素通りし、更に北へ向かった。道中、一人の中年女性に道を尋ねそのとおり歩いてみるも、なかなか目的の場所にはたどり着かない。駅から少し離れると、途端に道が入り組み出し、もはや自分がどこを歩いているのか分からないほどだ。
こんなん地元の人じゃないと見つけきらんやろ。迎えの一人でも寄こせっちゅうに。
ハアハアと息を切らしながら、心の中で毒つく綾香。家を出る時少し寒かったため、ダッフルコートを着込んでしまったが、今は暑くて仕方がない。見知らぬ地をもう一時間も彷徨っているという精神的、肉体的疲れも影響しているが、そもそも昼過ぎから陽が照り始め、気温がかなり上がってしまった。三月ももう中旬、少し遅い春の訪れということか。
あ、そうだ。
綾香は人気のない路地裏で立ち止まり、携帯電話を取り出した。南にもらった紙切れには住所の他に電話番号も書いてあったではないか。とりあえずは道を教わり、あわよくば迎えに来てもらおう。
コール音の聞こえる携帯電話を耳に当てながら、綾香は近くの石段に腰かけた。手を内輪にして顔を仰ぐ。野球帽を脱ぎ、汗を拭ってまた被る。
《はい、もしもし。『ミュージックスタジオ ジュピター』です》
若そうな男性の声だ。
「あ、もしもし?」
綾香はよそゆきの声で言った。「えーっと、ちょっとお伺いしたいんですけど、そちらへ行くにはどう行けばいいんでしょう。御茶ノ水駅から徒歩十分ですよね?」
《今どちらですか?》
その質問に眉をひそめる綾香。こっちが訊きたいよと心の中でぼやく。
「なんか裏の路地みたいなところなんですけど、目の前にオータムピアノスクール、それから水田歯科クリニックってのも見えます」
《近いですねー》
綾香は目を丸める。彼女にとって予想外の返答であった。《あなたの後ろに英語で書かれたうちの看板がありませんか?》
背後に目を向ける綾香。すると、彼女が座っている石段の先に古ぼけた扉があり、その脇に『ミュージックスタジオ ジュピター』と英語で書かれた看板が確かに存在する。
「あ、ありました……」
赤くなって答える。男性は《それじゃあどうもー》と一方的に電話を切ってしまった。綾香はカシャッと携帯を閉じ、ぼうっと扉を見つめた。扉は不透明で中は見えないし、そこが音楽スタジオであるという気配はまるでない。
「こんなん、分かるはずないやん」
綾香は言い訳のような独り言を呟いてから、立ち上がり扉に向かって歩き出した。
「ご予約はありますか?」
入店するやいなや、狭いカウンターの向こうから男性がいきなりそう尋ねてきた。おそらく電話に応対した若い男性である。黒のロングヘアーで、緩やかなカーブがかかっている。耳と唇にいくつかピアスを付けており、革のジャケットを羽織った身体のいたるところにもアクセサリーが光る。そんな風貌とは裏腹に、ルックスはいたって子供っぽい。
「えーっと」
マネージャー南吾郎に聞かされた名前を思い浮かべる綾香。「トーマス岸辺さんっていう人がここで私を待ってるって話なんですけど」
「ああ」
男性は二度頷いた。そしてカウンター脇の狭い通路を指差す。「聞いてます。一番奥のスタジオDにいらっしゃいますよ」
男性に会釈し、綾香は狭い通路を進んだ。彼女が何度か足を運んだことのある別の音楽スタジオとは少し違う雰囲気だ。暗い照明。ところ狭しと貼られたボロボロのポスター。なんというかアンダーグラウンドな場所で、どちらかというとデビューイベントを行った、ライブハウスに近いイメージである。
スタジオD。ここか……。
扉の半分ほどのスペースを使い馬鹿でかく『D』とだけ書かれた、部屋の前に立つ。ノックをし、数秒間待ってみるが応答はない。音楽スタジオといえば完全防音。外からのノック音も聞こえ辛いのかもしれない。綾香は扉についた大きな取っ手を捻り上げ、重い扉をゆっくりと開けた。
ん……?
部屋は六畳ほどの広さであった。ドラムセットやマイクスタンド、アンプなどの音楽機材が目につくが、人の姿は見えない。綾香は中に入って扉を閉めた。通路とは違い、比較的明るい部屋だ。ひととおり部屋を見回した後、彼女はまずダッフルコードを脱いだ。コートの下はキャミソールとサマーセーターの重ね着に、厚手のショートスカートといったスタイルである。
「どどど、どうもです」
突然どこからか声が聞こえ、綾香は「ひっ!」と驚いて飛び跳ねた。声のしたドラムセットの付近を凝視する。やがて、ドラムセットの後ろからひょこっと一人の男性が顔を出し、再び飛び上がる。
「わー! 変態!」
「へへへ、変態じゃありません」
綾香に歩み寄る男性。綾香のほうは逆に一歩後ずさりをする。「僕がこここ、この度君をプロデュースすることになったトーマス岸辺です」
「あ、あなたが……?」
綾香は怪訝そうな瞳でトーマスの全身をじろじろとなめ回すように見た。ワイシャツの上にカーディガンを着用し、下はスラックスというビジネスマン風の出で立ち。身長は綾香とほぼ同じ。お腹がポッコリと前に出ており、髪の毛は焼け野原のように寂しい。「えーっと。失礼ですがお歳は……」
「二十八です」
申し訳なさそうにトーマスは言った。また驚きの表情を見せる綾香。髪の毛だけで見れば五十代にしか見えない。
「そ、それと」
若干顔を曇らせながら綾香は言った。「なんでドラムセットの後ろに隠れてたんでしょう」
「いや……」
どこからかハンカチを取り出し、額を拭くトーマス。あのハンカチにだけは触れたくないと綾香は心から思った。「ととと、突然ドアが開いたからビックリしちゃったんです。ひょっとしたら幽霊でも訪ねて来たんじゃないかと思って、気がついたら隠れてました」
身振り手振りを用いて大げさに説明するトーマス。目、鼻、口、不自然なほど小さな顔のパーツたちも、顔面を自由気ままに散歩する。
「ゆ、幽霊……?」
綾香はトーマスに冷たい眼差しを送った。そして不安になる。いや、実は彼と初めて対面した瞬間から、薄らとその感情は存在した。
こめかみあたりを一筋の汗が流れる。それに気がついたらしいトーマスが「あっ」と綾香にハンカチを差し出した。
「どうぞどうぞ」
「あ、どうも……。っていりませんいりません!」
……。
この人が私の新しいプロデューサーなわけ? 私、この先いったいどうなるん?