6 実力派アイドル
サニーダイヤモンドプロダクションのオフィス内を悠然と歩く池田綾香。フードとジッパーの付いたグレーのトレーナーのポケットに両手を差し込み、デニムのホットパンツから長くはない足を伸ばす。彼女の履くハイヒールのカツカツという足音が、電話のコール音やパソコンのキーボードを打つ音に混じる。
「わー、チロリちゃんだー。久しぶりー」
一人の若い女性スタッフが声を上げる。綾香は歩を緩めずに「ども」と野球帽を被った頭を下げた。「チロリさん、おはようございます」「チロリちゃん、おつかれー」と、スタッフに声をかけられる度に、「ども」「どもども」と返事をし、ひたすら前に進む。
なんというウェルカム状態。今やSDPを支えとるのはこの私なんやねー。
綾香はしみじみと思った。そして、胸の奥からこみ上げてくるものの気配を感じたが。
「おせーよ。B級アイドル」
マネージャー南吾郎のその一言でシュンと萎んでしまう。オフィス最奥の南のデスクの前で、ゲソッとした顔になり立ち止まる綾香。南はシュボとライターで煙草に火をつけ、ふうと紫煙を吐き出した。スキンヘッドにサングラス、黒スーツといういつもと同じスタイルである。「お前ん家、吉祥寺駅のごく近所だろうが。呼び出してから一時間もかかってんじゃねえ」
「なんよー」
綾香はプクッと頬を膨らませた。「オフの日に、しかもこんな朝っぱらから呼び出しといて、なんちゅう言い方するとよ。女の子がバッチリと支度するには時間がかかるとばい。特に私みたいなトップアイドルは」
「デビュー曲が三週でヒットチャート圏外になってしまうトップアイドルか」
椅子にもたれかかり皮肉めいた口調で南は言う。綾香の胸にグサッとナイフが突き刺さる。
「レ、レコード会社の売り出し方が悪いんよ」
綾香はプイッと顔を背けた。もっとこう広告を電車とかに出してさ。いや、電車本体の柄を私にすればいいんよ。『チロリン号』」
南は大きく頷いた。
「そう、売り出し方だ」
思いのほか肯定されたので綾香は一瞬キョトンとしてしまったが、すぐにその真意を悟り、唇を尖らせる。
「ようするに今日は」
うつむき加減になり、上目づかいで南の表情を窺う綾香。「この先引き続きバラード路線でいくか、アイドル歌謡曲路線でいくかの話し合いってこと?」
「いや、違う」
また煙をゆっくりと吐き出す南。「アイドル歌謡曲路線でいくか、次のシングルを出すのをやめるかの話し合いだ」
綾香はつつおとしのようにガクッとうな垂れるのであった。
オフィスから、SDP御用達の喫茶店『ビリーブ』に場所を移した。店内に相変わらず客の気はなく、この店大丈夫なんかなと少し心配になる綾香。毎度お馴染み、一番奥の四人がけテーブルに綾香と南は向かい合わせて座っていた。
「どっちにしろリリアンが曲をプロデュースしてくれるのはデビュー曲のみの約束だったはずだ」
煙草に火をつける南。「他のライターに同じようなバラードを提供してもらったとして、『クレセントムーン』以上の売り上げを期待できるか?」
綾香は答えず、ずずっと音を立てブラックコーヒーを啜った。苦味に顔をしかめる。
「それから噂ではあるが……」
南はトントンと灰皿に煙草の灰を落としながら言った。「来月出すリリアンのニューアルバムに『クレセントムーン』のセルフカバーが収録されるらしい。これでお前の歌う『クレセントムーン』は世間の皆様の記憶から綺麗サッパリ消えてしまうわけだ」
「えー」
コーヒーにスティックシュガーを入れつつ、ふて腐れた表情になる綾香。「リリアンさん。『この曲はあなただけのものよ』って言ってくれたのにー」
「こんなに売れないとは思わなかったんだろう」
南はサラッとそう言い放ち、彼もコーヒーに口をつけた。椅子の上でずっこける綾香。
「分かったよ!」
綾香は勢いよく立ち上がった。テーブルが揺れ、コーヒーがさざ波を立てる。「アイドル歌謡曲でも、パンクでも演歌でもなんでもいいけん、早く次のシングル出させてよ」
「まあ座れ」
南がちょいちょいと人差し指で『座れ』の合図をする。おとなしく着席する綾香。「確かにお前はそれなりの歌唱力を持っていて、その歌唱力が最も生かされるのは『クレセントムーン』のようなラブバラードだろう。そうゆう意味では、『クレセントムーン』もあながち無駄だったとはいえない」
「どうゆうこと?」
明らかに不機嫌そうな顔で綾香はそう尋ねた。コーヒーにまた口をつける。
「世間にお前の歌唱力を印象づけることができたってことだ」
南は愛用のビジネス鞄の中から数枚の書類を取り出した。「それを見てみろ」
綾香は書類を一枚手に取り、言われるがままそれに目を落とした。
「なにこれ? ランキング?」
首を傾げ、南に尋ねる。南は「ああ」と頷いた。
「全国の『センチュリーレコード』で毎週行っているアンケートだ。今週のアンケート内容は『歌唱力があると思う女性アーティスト』でその結果だな。お前の名前がちゃっかり二十七位にランクインされてる」
「ほ、本当だ!」
パッと綾香の顔が明るくなる。「すごいばい! 人気デュオのカノンよりも上!」
「それから二枚目」
ランキング表を放り捨て、すぐに二枚目の書類を手に取る綾香。「こないだ出演した『生で音楽SHOW』の視聴者の反響だ。お前のステージに対しての感想は、『歌が上手い』が『曲が良い』を若干上回っている」
「ホントだホントだ!」
綾香は満足そうに何度も何度も頷いた。「こんだけ反響あるとに、なんで売れんっちゃろうね」
綾香の投げかけには答えず、南は新しい煙草にライターで火をつけた。
「とにかく。世間はお前の歌唱力をある程度認めている。これはすなわち、この先出す曲がアイドル歌謡だろうが、パンクだろうが演歌だろうが、お前は実力派アイドルとして扱われ続けるということだ」
「実力派アイドル……」
綾香はほんの少し頬を赤らめた。その言葉の響きが気に入り、心の中で何度も口にしてみる。
「先日お前が所属するレコード会社『万有レコード』の担当ディレクターと打ち合わせを行った」
煙草に口をつけ、またふうと吐き出す南。やがて、懐から一枚の紙切れを取り出す。「双方合意の上で新鋭の音楽プロデューサーをお前につけることにした。週末、ここでそいつに会ってこい」
目をパチパチとさせ、綾香は紙切れを受け取った。紙切れには『ミュージックスタジオ ジュピター』の文字と、そこの住所と連絡先だと思われるものが記載されていた。