4 とりまく人々
「三百五円のお返しです。ありがとうございましたー」
橘川夢多はキチンとそう挨拶をしてから、深々と頭を下げた。本当はスマイルで接客しろと言われているが、上手く笑顔が作れないため、徹底した丁寧さでそれを補い、オーナーの信頼を勝ち得ることができた。
前のバイトを辞め、新しくコンビニの深夜バイトを始めてから、まもなく二ヶ月が経過しようとしている。現在は春休みに突入しているため特に問題はないものの、大学期間中は前のバイトに比べ勤務時間が長く、しかもバイトが明ければ、次はすぐに大学というサイクルなため、毎日が眠たくて仕方がなかった。しかしながら、大学は店から目と鼻の先で効率が良いし、知った顔が同僚にいるというのはかなり気が楽なものだった。
「なかなか様になってきましたね」
橘川と同じく『デイリーマート』のシマウマのような白黒の縦じま制服を着た大田早苗が、橘川に笑いかける。ショートボブカットは相変わらず。自慢の美貌を眼鏡で封じ込めていることも相変わらずだ。「オーナーも言ってましたよ。『俺が現役を退いたら、橘川にこの店を継いでもらいたい』って」
「いや、それじゃあ大学に行ってる意味が……」
「説得はオーナーに直接お願いします」
ニコッとまた微笑む早苗。「それじゃあ私はドリンクを補充してきますので、お客さんが多くなったら呼んでくださいねー」
そう言って早苗はバックルームに姿を消した。ポツンと一人取り残された橘川は、カウンターに手をつき、ぼおっと壁の時計に目を向けた。只今午前一時を回ったところだ。学校の一般的な教室ほどの広さの店内には、立ち読み客の男性が一人のみ。有線放送のロックナンバーがやけに耳につく。
昨年の秀英大学文化祭、すなわち秀英祭で知り合った大田早苗ほか五人の後輩たち(秀英祭ツアー実行委員)とは未だに交流があった。特に学科が同じ早苗とは時折昼飯を一緒に食べるほどの仲で、同じく実行委員の肥満男子学生皆岡はじめなどに『イブは一緒に過ごすんですか?』とからかわれたこともある(イブは彼ら五人と一緒にミニパーティーを行ったため、結果的に一緒に過ごしてはいたが)。
早苗がこのコンビニでバイトを始めたのは昨年の十一月頃で、橘川が彼女に誘われてバイトを移籍したのが今年の一月である。橘川と同時に一年生のギャル系女子大生大庭みなみも誘われ入店したが、彼女は主に学校終わりの夕方から勤務している。
近所ということもあり、店にはよく秀大生が訪れる。特に秀英祭ツアー実行委員の面々は、用もないくせに度々と来店してくる。春休みになって若干頻度は下がったものの。
「おつかれっすー」
こんなふうに……。
「おつかれ。どうしたの?」
橘川は、たった今自動ドアから店に入ってきた藤岡茂に向かって言った。どこかのサッカーチームのユニフォームの上から厚手のジャケットを羽織り、ダボダボなジーンズをはいている。トレードマークの坊主頭は野球帽の下だ。眼鏡は昨年末あたりからかけなくなった。コンタクトレンズに移行したのだろう。「もう一時過ぎてるよ」
「友達とボウリングに行った帰りなんですよ」
ボウリングの球を投げるジェスチャーをしながら藤岡は答えた。「橘川さんサボってないかなーっと思って様子見に来ました」
「別にサボってないよ。あ、いらっしゃいませー」
新しく入店した客に挨拶をする。それから再び藤岡に顔を向け。「早苗ちゃん奥にいるから。話していけば?」
「あ、はい。と、その前に……」
そう言って藤岡は雑誌コーナーまで歩き、一冊の雑誌を手に戻ってきた。「売り上げに貢献したいと思います」
「『フェロモンズ』か」
月刊男性ファッション誌である。先々月号は確か橘川も購入した。彼の愛する綾川チロリのショートグラビアが載っていたからだ。「今月号は……。あ、松尾和葉」
「ヘヘ」
いやらしい笑顔を浮かべる藤岡。「やっぱ和葉の巨乳はたまりませんよね。もし直接会うことができたら、ガバッと乳揉んでみたいなー。こいつ、馬鹿っぽいから許してくれそうだし」
「即、お縄だと思うけど……」
そう呟いてから、橘川は『フェロモンズ』の表紙を飾った松尾和葉をまじまじと眺めた。ランニングシャツとオーバーオールを重ね着し、やはり胸の谷間をはっきりと強調させている。続いて視線を和葉の顔にスライドさせる。幼さの残る屈託のない笑顔が実に魅力的である。チラッと藤岡の様子を窺う。彼は財布の中をまさぐっているところであった。
やっぱ信じてもらえないだろうなぁ……。
秀英祭後に改めてテレビで松尾和葉を目撃した時、橘川はすぐさま『あの子だ!』と心の中で叫んだ。髪型は違うし、化粧の雰囲気も違う。何より性格は百八十度違ったが、前に書店で知り合った女子高生アイドル羽山美穂その人だと直感した。そもそも美穂と初めて会った時に
彼女に対して『テレビで見たことがある』という感想を抱いたわけだが、それはまだ顔と名前が一致していない時に観た松尾和葉だったのだ。
橘川はどうも釈然としなかった。なぜ彼女は羽山美穂などという名を名乗ったのだろう。それじゃあ応援しようにもできないじゃないか。それとも応援して欲しくはなかったのか。
うーん……。
と、始めは不思議に思った橘川だったが、今ではその答えにこだわる必要はないと考え直している。相手は超人気アイドルだ。自分のことなどとっくに忘れているだろうし、もう彼女と再会することもないだろうから答えは永遠に明かされない。考えるだけ無駄。きっと彼女なりの事情があったに違いない。
「あっ……」
橘川が思わずそう呟くと同時に、藤岡が天井を見上げた。BGMが変わったのだ。幻想的なピアノのイントロ、これはもちろん……。
「これ知ってました?」
藤岡が天井を指差した。「綾川チロリのデビュー曲なんすよ。あいつ久々にメール送ってきたかと思えば、『私のCD買え』ですからねー。俺は買ってませんけど、大田やみなみは買ったみたいですよ。橘川さんもどうですか?」
「か、考えとく……」
嫉妬の嵐を抑えながら、橘川はなんとかそれだけ口にした。もちろん、綾川チロリのデビュー曲は視聴用、保存用とすでに二枚購入している。未だ彼は、隠れチロリファンから抜け出せないでいるのだ。
橘川は今一度『フェロモンズ』の表紙に目を落とした。
松井和葉にはチロリちゃんより大勢のファンがいるしな。やっぱり俺はチロリちゃん一筋だ。