3 エンジェルフォール
「もうー! なんでよ! なんでなんよ!」
池田綾香が頭を抱え込んでテーブルに突っ伏せる様子を、親友の矢上詩織は頬づえをついて眺めていた。やれやれといったふうに溜息を吐きながら。
「みっともないよ。こんな場所で」
周囲に目を配る詩織。吉祥寺駅構内のファーストフード店『バスケット』は本日も大盛況である。平日の夕方なので、制服を着た高校生の姿が特に目につく。「ちょっとCDが売れないぐらいなによ。私の大好きなバンド『フォービアズサン』なんてヒットチャート五十位以内にも入ったことないんだよ」
「そんなマイナーバンドと一緒にせんで」
綾香のその言い草に少しムッとする詩織。緑の野球帽を被った綾香の頭を裏拳で小突く。「ぐぬっ」とうめき声を上げる綾香。
最近の綾香は自分の顔が世間に知られてきたことを自覚してか、プライベートではもっぱら帽子を被るようになった。仕事で着用することの多いソフトハットは避け、主に野球帽やニット帽を好んで被っている。帽子以外は基本的に自由な出で立ちだが、春先はまだ冷え込むのでそれなりの厚着は必須となる。今日はタートルネックの白いセーターにジーンズスカートという詩織に負けじと地味な服装だが、詩織は更に地味な黒のトレーナーとジーパンである。髪はオーソドックスなショートカット。
「だってさー」
綾香は横を向き、テーブルに頬をつけた。「先週の『生音(正式名称、生で音楽SHOW)』は大成功やったとに、まさか今週のヒットチャートで五十二位まで落ちるとはさー。十六位から五十二位ばい? なん、この落差。エンジェルフォールでもここまで落差ないばい」
「いや」
フライドポテトをひとつまみする詩織。もぐもぐと口を動かしながら続ける。「エンジェルフォールって水が拡散して滝つぼがないらしいからね。やっぱもの凄い落差だと思うよ」
「誰がエンジェルフォールの話をしとるんよ!」
綾香が声を上げて、ドンと机を叩いた。
先週の『生音』は詩織もチェックしてはいた。幻想的なステージでやや自己陶酔的にデビュー曲『クレセントムーン』を歌う綾香の姿はそれなりに印象に残ったものの、なんとなく『らしくない』という感想を彼女は抱いた。それに、先日他の友達とカラオケに行った時の話である。
「聞きたい?」
「聞きたい聞きたい」
そう返事をしてから、ストローでチューとコーラを飲む綾香。詩織のポテトにまで手をつける。落ち込んではいるらしいが、食欲はいつもと同じだ。
「その子はさ、綾香のことも、私と綾香が友達だってことも知らない子なんだ。そんな子が『クレセントムーン』をカラオケで歌ったわけよ」
「ええ!?」
綾香は瞳を輝かせた。詩織に顔を近づけて問いただす。「チロリンファンなん?」
「私も聞いてみたんだけどさ。『別に綾川チロリのファンじゃないけど、この曲好きなんだよね』だって」
「ふーん」
つまらなそうに唇を尖らせる綾香。「まあリリアンさんプロデュースの曲やけんね」
「でね」
詩織は人差し指を立てた。「その子はこう言うわけよ。『綾川チロリじゃなくてリリアンに歌ってほしかったなー』って」
しばし沈黙。綾香が詩織のポテトを次々とパクつく動作にのみ、時の流れを実感する。詩織がそんな綾香の右手をピンと指で弾き、綾香はようやく動作を止めた。
「そんなこと言われてもな」
綾香は頬づえをついた。「リリアンさんはアジアのみならず欧米でも人気上昇中の、まさに『世界の歌姫』ばい? 『佐世保の歌姫』じゃスケールが違うよ」
「あんたが『佐世保の歌姫』だってことは、佐世保の皆さん公認なの?」
詩織のその指摘には答えず。
「それでも私だって、リリアンさんの恥にならない程度の歌唱力を持っとるつもりよ」
今度はフォークでパンケーキをパクつく綾香。それは一応自分で注文したものだ。
「私は歌のことあんまり分かんないからさ。綾香とリリアンさんの歌唱力の違いもあんまり感じないよ」
「そう?」
綾香は目を丸めた。何かを期待するような瞳の色をしている。しかし、詩織の次の一言は彼女のそんな期待を儚く打ち砕いたに違いない。
「ただ、世間一般的な視点で言わせてもらうとさ。あんたが『クレセントムーン』を歌う姿の後ろ、もしくは上に、常にリリアンさんがいるんだよね」
『バスケット』を出て、二人は同じく吉祥寺駅構内の大手外資系CDショップ『センチュリーレコーズ』にいた。店内はやはり高校生の客が目立つが、『バスケット』ほど混雑している様子ではない。まあ、CDショップがファーストフード店なみに混雑していたら、落ち着いて物色することもできないであろう。
邦楽コーナーで好きなバンドの新譜をチェックする詩織。音楽は携帯のダウンロードで済ませるタイプなので、元々購入する予定ではない。しかし、しばらく見て回るとどうしてもほしいCDがでてきてしまうものだ。マイナーロックバンド『ジャロップ』の新譜がそれだ。
うーん、どうしようかな……。
財布の中身をチェックする。実家暮らしとはいえ学生である。無駄な金など一銭もない。やはりあきらめることとし、CDを棚に戻した時、どこからか綾香が湧いて出てきた。
「詩織詩織ー!」
なんだか上機嫌である。「ほら、『クレセントムーン』。『店員さんのおすすめシール』貼ってあったんだよ」
「へー」
CDを手渡され、興味なささそうにジャケットを眺める詩織。やたら化粧の濃いカメラ目線の綾香の右上に、確かにそのようなシールが貼ってある。「こんなジャケットだったんだね」
思わず口にしたその一言で何故か空気が一変する。「え?」と綾香の顔を確認すると、彼女は眉間にしわを寄せ、じっと詩織を睨みつけていた。
「詩織……。前に電話で聞いた時、CD買ったって言ってくれたよねえ。なんでジャケット知らんとよ」
「あ、それはその……」
ようやく事の重大さに気がつく詩織。本当は彼氏である田之上裕作が購入し、それを録音してもらっただけなのである(しかもすでに消去した)。
「親友がCDデビューしたってのに、まさか買ってないなんてことはなかろうね!」
綾香は詩織の首根っこを両手でつかみ、ゆさゆさと揺さぶった。
「分かった分かった。買うから許して!」
こうして、欲しかった『ジャロップ』の新譜をあきらめ、親友のどうでもいいデビュー曲を買わされるハメになった詩織であった。