1 アイドルウォッチャー
大変長らくお待たせいたしました。
「それなら私があいどる」第二章のスタートです。
わずかばかりの駐輪スペースに自転車を止め、チェーンロックをかける。寒風に身を震わせながら階段を駆け上り、部屋のドアノブを回そうとする。回らない。コートのポケットから合い鍵を出し、鍵穴に差し込む。
そうか。今日は生放送だったっけな。
真っ暗な部屋に上がり、リビングの電灯を点ける。次いでソファに座り、井本真一は大きなあくびをした。そのまま手袋を脱ぎ、テーブルの上に置いてあったリモコンでテレビの電源を入れた。映し出される『プリンセス雅脅威の脱出マジック』のテロップ。真一は心の中で『お?』と呟き、テレビの画面に釘付けとなった。
若い女性リポーターが青ざめた顔で何かを叫んでいる。
《た、大変です! 爆発まで一分を切りましたが、未だプリンセス雅ちゃんはあの中にいます!》
リポーターの指差した先に、箱に入り顔だけを出したプリンセス雅がポツンと置かれ(?)ている。その脇に電光掲示板によるカウントダウン。いわゆる脱出マジックのようだ。どこかの屋外スタジオであろうか。照明によって浮かび上がった雅の周辺以外は深い闇に包まれている。
シルクハットの下の雅の顔がアップで映し出された。珍しく狼狽したような表情。箱の中で慌しく身体が動く気配がする。縄で縛られでもしてるのかなと真一は予想し、もう一度あくびをした。
これ、放送できてるってことは無事脱出できたわけだしな。
《さあ》
リポーターが言った。《生放送によるプリンセス雅の異次元脱出ショー。果たして彼女は無事生還することができるのでしょうか》
「……」
身体を前のめりにし、画面を凝視する真一。
数値は無情にも10を切った。9、8、電光掲示板は辺りの騒然とした空気など気にも留めず、自身の仕事をまっとうしようとする。プリンセス雅が泣きそうな顔で首を振った。ほぼ同時にリポーターの《あーっと、ダメです。止めてください》と悲鳴にも似た懇願。しかし、スタッフの《無理無理!》という声がかすかに聞こえる。
お、おい!
明日のスポーツ紙一面が真一の脳裏に浮かび上がった。『人気アイドルプリンセス雅 マジック失敗で事故死』。
3、2,1、いよいよその時が来た。カメラが、観念したかのように目をつぶる雅の表情をとらえた後、ドーンという衝撃音と共に画面は炎に包まれた。「雅ー!」と真一の悲痛な叫び声が部屋の中にこだまする。
一瞬の出来事にテレビの中は異様なほど静まり返っていた。雅のいた場所には箱の残骸のみが残り、スタッフらがそれに燃え移った炎へ消火器の粉を浴びせる。リポーターの、仕事を忘れその様子をぼおっと見つめる姿が真一の胸に深く刻み込まれた。
と、次の瞬間。画面に映ったリポーターの背中が不意に消えた。何かがカメラの目の前に現れたのだ。
《なーんちゃって》
それはすす一つないプリンセス雅の勝ち誇ったような笑顔のアップだった。後ずさりし、彼女の全身があらわとなる。いつものタキシード。いつものスタイルのいい長身。優雅な動作で身体を一回転させる雅。《このとおり、私はピンピンしてるよ。ちょっと心配しちゃったテレビの前の君。君はまだまだ青いね》
真一はポカンとした表情のまま固まっていた。手にはきつく握りしめられたプリンセス雅のDVD。彼はふうと一息吐き、DVDをポンと床に置いた。
まあ、そんなこったろうと思ったけどよ。
精一杯強がりながら、壁の時計を見る。まもなく午後八時になろうとしているところであった。
「しかたねえ、観てやるか」
真一はリモコンを操作し、チャンネルを変えた。
眼鏡とヒゲがトレードマークのお笑い芸人庭井すすむが映し出された。
《今日はなんと、あの松尾和葉ちゃんと東京デートを敢行しちゃいまーす》
ピタッと真一の指が止まる。そこが目的の局ではないものの、彼女の名を聞いて平気で見過ごすことなどできるはずがない。
《それにしても遅いなー。ここで待ち合わせだってのに》
急に芝居じみる庭井。腕を組み左右を見回す。辺りは明るく、生放送ではない。東京の、どうやらお台場エックステレビ近辺のようである。《あっ、いたいた。和葉ちゃーん、こっちこっち》
《庭井さーん》
声のみが聞こえ、ほどなくしてから庭井のもとに和葉が走り寄ってくるが。《いた!》
カメラに映りこんだ瞬間、転んでしまう彼女。
《何もないところで転ぶなよー》
ハッハッハと庭井は笑う。和葉も《エヘヘ》照れ笑いし、立ち上がりながら服を手でパッパと払った。まだ三月ながら、胸元の大きく開いたシャツを着ており自慢の巨乳を強調させている。彼女の動作に合わせて、その巨乳がボインボインと縦に揺れる。
《今日はどんなところに連れてってくれるんですかー?》
庭井の左腕に抱きつく和葉。庭井はウヒヒと気味の笑い声を漏らしながら、質問に返答しようとするが、その前に一言。
《和葉ちゃーん、胸めっちゃ当たってるんだけど》
《あっ!》
すぐさま庭井から離れる和葉。頬を赤らめ、上目づかいで庭井を睨みつける。《もうー。庭井さんってば、エッチなんだからー》
唇を尖らせながら、両手で自身の胸元を隠す。
《お前から抱きついてきたんだろー?》
鼻の下を伸ばす庭井。と、同じように鼻の下を伸ばす男が吉祥寺にもいた。
和葉ちゃーん……。
真一の手には、今度は松尾和葉のDVDがギュッと握られていた。
おっと、いけない。
慌ててDVDからリモコンに持ち替え、再びチャンネルを回す。
雅や和葉ちゃんもいいけど、一応こいつを優先させなきゃな。
《新作のプロモーションのために韓国に行ってきたんですけど》
明るく煌びやかなスタジオ。マイク片手に喋っているのは人気ロック歌手のKEIJIであった。レザーで全身を包み、グラサンをかけ髪を立てている。彼の隣には司会者岩田幸三が座り、その後ろに他の出演者たちの姿も見える。真一はKEIJIではなく、後ろの出演者たちに注目した。
あっ。
すぐに見慣れた顔を発見する。今日はトレードマークのハットを被っておらず、代わりに落ち着いた色の花飾りを髪につけている。真っ白なドレスに身を包み、両手は行儀良くひざの上に。たいして聞いてもいないくせに、KEIJIの一言一言に丁寧に相槌を打つ。名だたるミュージシャンに囲まれ、さすがの彼女もひどく緊張しているらしいということが画面越しでも容易に伝わってくる。
《なるほどねー》
スーツ姿の岩田幸三が突然後ろを振り向いた。《チロリちゃんはどう思う?》
突然振られ、《ふぁい?》と間抜けな反応をする綾川チロリ。付き合いの長い岩田が気を利かせてくれたのかもしれない。
《あ、そ、そうですねー。すごいなーと思います》
チロリがアハハとごまかし笑いを浮かべる。それを観て真一は、フンと鼻で息を漏らした。
やっぱり聞いてなかったか。
途端に不安になる彼。これから自身の恋人である綾川チロリこと池田綾香が、生放送でどんな醜態を見せてくれるのかを考えた末であることに他ならない。