99 自分を超えた時
「おはよう!」
教卓の目の前にある自分の席に着き、勉強道具を鞄から机の中へと移し変えていた時、背後からガタッという音と共にその挨拶が聞こえてきた。振り返り、椅子に座ろうとする河内那美の姿を確認すると、羽山美穂も「おはよう」と返した。
「昨日はゴメンね」
苦笑しながら彼女は謝る。「久しぶりに一緒にカラオケ行けるはずだったのに、急に仕事が入っちゃってさ」
「かまわんかまわん」
おどけた調子で那美は言った。「カラオケなんていつでも行けるしね。仕事のほうを優先させるべきだよ。って、当たり前だけど」
「あ、明日なんてどう? 明日はフリーなんだ」
「明日は私がバイト……」
那美が力なくそう答えると、美穂は髪の毛をいじりながら「うーん……」と唸った。
「ところでさ」
那美の瞳に悪戯っぽい光が宿る。「昨日のアレ観た? 夕方の番組。『東京列伝』だっけ? 秀英祭の特集やってたよ」
「えっ!?」
美穂は目を丸め、指先を口元に当てた。「し、知らない。大学の学園祭なんてテレビで放映されるもんなの?」
那美は頷く。
「秀英大学とお隣の昭和院大学は毎年どっちが盛り上がったかで競い合ってて、んで、その学園祭対決を『東京列伝』が毎回特集してるんだって。私も偶然観たんだけどね」
「ふーん」
美穂は橘川の顔を思い浮かべた。そしてすぐに自嘲的に笑う。その番組に彼の姿が映し出されるなどということは、よっぽどのことがない限り、ありえないであろう。「どうだった? 綾川チロリちゃんとか出てた?」
「うん、出てた出てた! あの子面白いねー!」
そこまで言ったところで慌てて口をつぐむ那美。「あ、美穂の恋のライバルをあんまり褒めすぎるのもよくないか」
「別にいいし」
美穂は吹き出した。
「他に二人のアイドルが出ててさ、内藤ちえ美って子と滝田亜佐美って子」
「知ってる?」と尋ね、美穂が頷くのを待ってから那美は続ける。「で、アイドルに秀大の人が一人ずつパートナーについて、秀大のキャンパス全部を使ってサバイバルゲームとかやってんだよ。もう、めちゃくちゃ面白かった」
「へー」
うんうんと頷きながら、美穂は相槌を打った。「じゃあ、秀英大学のほうが盛り上がったんだ」
「どうだろうね」
視線を宙に漂わせる那美。「プリンセス雅のマジックショーも相当盛り上がってたし、結果はどっこいどっこいじゃないの?」
美穂も考え込む。もし、綾川チロリの活躍で、橘川夢多の所属する秀英大学が勝利したとするならば、そのことを喜ぶべきかどうなのか判断がつかない。
ま、いっか。
また一人苦笑したところで、キーンコーンカーンコーンと朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り響いた。
一時限目は体育である。女子は体育館にて跳び箱、器械体操を行う。
体操着に着替えた美穂と那美は、体育館の壁に寄りかかって体育座りで座り、自身が跳び箱を跳ぶ順番になるまで待機していた。
「でさ、結局どうするつもり?」
美穂に顔を近づける那美。「このままじゃ橘川さんに再会できないよ。直接秀英大学を訪ねて『橘川って人を呼んでください』って事務の人に言うしかないんじゃないの?」
「そんなの無理だよー」
ひざの上にあごを乗せ、美穂は他の女子が跳び箱を跳ぶ姿をじっと見つめていた。「橘川さんと初めて会った本屋さんにちょこちょこ通うしかないかな……。あの日、なんで橘川さん、あんなとこにいたんだろう。聞いとけばよかった」
「それを言うなら連絡先」
那美のその言葉に、美穂は「そうそう」と顔を伏せた。
先に那美が見事六段の跳び箱に成功。続いて美穂が同じ六段に挑戦する。美穂が競技をする時はやはりそれなりの注目を浴びる。体育は隣のクラスとの合同で行われるため、特に普段美穂を見慣れていない隣のクラスの生徒などは、彼女の跳躍から目を離せない様子である。
「美穂は五段が最高記録か」
ポロシャツにジャージという姿の中年女性体育教師が、手に持ったバインダーに視線を落としながら言った。フレンドリーに接してくるため、生徒、特に女子生徒からの人気が高い。「あんたの場合、胸が邪魔になるから厳しいよね。ほら、和智なんて胸ペッチャンコだから、八段まで跳べるんだよ」
「先生だってぺチャンコじゃないですか!」
近くに立つショートカットの女子生徒(和智である)がブーイングをする。美穂は少し赤くなりながら「あはは」と笑った。
「それじゃ行くよ。美穂! 位置について!」
教師のその合図と同時に、美穂は一転真剣な顔つきとなった。実際、高校二年で五段までしか跳び箱を跳べないというのは、少々寂しい成績である。今日こそは記録を更新してやると彼女は意気込んでいたのだ。
ピッと短い笛の音が鳴り、美穂は体育館の床を思いっきり蹴った。そして、跳び箱に向かって一直線に走る。
自分でも分かっていた。身体能力的には跳び箱六段なんて跳べて当然なのだ。それができないのは恐怖心。跳び箱に足を引っかけて頭から落ちてしまうのではないかという恐怖心。打ち負かすべくは自分自身。
跳び箱を跳んだその先にはきっと橘川夢多がいる。彼には二度と会えない可能性だってある。そんな恋に立ち向かっていく、そんな恐怖に比べれば、跳び箱なんて全然怖くない。
よし!
踏み切り板を蹴る。空中で開脚しながら、両手を跳び箱上面に、できるだけ奥につける。あとは腕の力で、跳び箱を『超える』……!
「あっ!」
し、しまった。
上空で身体のバランスが崩れ、重心が左側に傾いてしまった。それにより勢いが損なわれ、跳び箱にお尻がぶつかる。館内のどこかから聞こえた短い悲鳴と同時に、美穂は下に敷かれたマットへと前のめりに転落していった。
ダメだったか……。
マットの上で尻もちをついたまま、美穂ははあと溜息を吐いた。しかし、彼女のそんな姿とは裏腹に、体育教師の明るい声が飛ぶ。
「惜しい惜しい! あと少しだよ」
パンパンと二度手を叩く彼女。「上達したじゃん、美穂。あんた、いっつも跳ぶ前から逃げ腰でさ、なんか怖がってばかりだったけど、今日は違った! ちゃんと跳ぼうとしてた。次は必ず成功するよ!」
「え……」
美穂は立ち上がり、目を丸めて体育教師を見つめた。「ほ、本当ですか」
「うん」
ウインクをする体育教師。「後でもう一回チャレンジしてみ、絶対跳べるから」
しばしキョトンとした表情を浮かべていた美穂であったが、やがて大きく頷き、「はい!」と返事をした。
余談であるが、この日のうちに美穂は六段、七段と立て続けに記録を更新したのだという。