9 長電話を横目に
「綾香さーん」
こちらに背中を向けて不貞寝する綾香の耳に、真一はそっと囁いた。
「……」
返事はない。寝ているのかもしれないが、彼女の性格的に起きていても無視している可能性がある。
はあ、またやっちまった。
溜息を吐き、デスクの上のデジタル時計を見る。時刻は午後十一時である。
実は今日の綾香との約束を、彼は忘れていたわけではなかった。しかし、午後五時の約束の三時間前、午後二時に、少しだけ仮眠を取ろうと横になってしまったのだ。結果、時間になっても目覚めることは出来なかった。
上から綾香の顔を覗きこんでみる。目にうっすら涙を溜めながら、すうすうと寝息を立てている。どうやら本当に眠ってしまったらしい。
先ほどはひどいことを言ってしまったが、それは一種の照れ隠しのようなものである。真一は彼女のことが本当に好きなのだ。凹凸の少ない平面顔も、少しヒステリックなところも。それに、内に秘められた優しさも……。
綾香、ごめんな。
心の中で呟き、彼女の頬にキスしようとする。しかし、次の瞬間唇に強烈な刺激が走った。
「詩織に電話しとこう」
そう言って綾香が急に身体を起こしたのだ。そのせいで彼女のヘッドバットが、唇にカウンターで直撃してしまった。
「ぬほおおおおお!」
口元を押さえ、床に転がり、足をばたつかせる真一。
「ん? なに一人で暴れてんの?」
「ろらえ、(おまえ)寝てたんじゃねえのかよ!」
「ああ」
彼女は枕もとに置いたバックの中から携帯を取り出した。「一瞬寝ちゃったけど、ちょいと思い出してさ」
「思い出して?」
なんとか痛みも回復し始め、真一は立ち上がった。綾香はすでに携帯を耳にあて、通話待ちの体勢に入っていた。
「あ、詩織?」
繋がったらしい。そして何やら話を始める。彼女が、親友である矢上詩織と電話で話すときは、高い確率で長電話になる。真一はガラス製の小さなテーブルの上のリモコンを操作し、テレビのスイッチをオンにした。見たい番組があるわけではないが、ただじっと、彼女が電話を終えるまで待つのも退屈だし、居心地も悪い。
「うん……あー、やっぱそうねー……いやいや私なんか無理に決まっとうやん」
テレビでは明るげなバラエティ番組が放送されていた。しかし真一の意識は綾香の電話に傾いている。
一体何の話をしてるんだ?
「ハゲ」「事務所」「金の卵」と、電話口に向けた彼女の口から、意味不明な単語が次々と飛び出してくる。
「あ、ところで田川のおばさんおるやん? アイツ、なんて言ったと思う?」
主題を終え、次の話題に入ったらしい。真一は意識を電話から、テレビへと移した。
おっ?
今まで気がつかなかったが、番組のVTRクイズのパネラーとして、松尾和葉が出演しているではないか。
彼女は今年ブレイクしたばかりの清純派アイドルである。黒く艶のある髪を、常にポニーテイルでまとめている。整った顔立ちと、天然ボケを持ち合わせ、おまけに巨乳である。
ふむ、今最も将来性の高いアイドルだな。この子のイメージDVDも入手しておかなくては。
真一の頭の中のアイドルランキングが変動した。松尾和葉が8位から4位に順位を上げたのだ。
そう、彼は生粋のアイドルマニアであり、アイドル関連のグッズを数多く所有している。綾香は、最初はそんな彼の趣味を軽蔑していたが、最近では認めてくれるようになった。(というより、あきらめてくれるようになった)
もちろん、彼にとってアイドルとは、あくまで嗜好の存在であり、綾香に対する気持ちとは全く別のものだ。しかし、彼女はそのことについてあまり理解してはいないらしい。
「おやおや」
突然、背後から高圧的な声が聞こえる。「またアイドルですかな」
ほれきた。