プロローグ
東京に春の訪れ。
そして井の頭公園の桜並木道をゆったりとしたペースで歩く、薄手の赤いコートを着込み、青いマフラーを巻いた少女、池田綾香にも、遅ればせながら人生の春が訪れようとしていた。
「桜、綺麗やね」
隣を歩く、黒いジャケット姿の井本真一に笑いかける。彼は綾香に目を向けず、桜を見つめたまま、答えた。
「ああ、でもなんか今日の桜は、そんなに綺麗に思えねえんだ」
「えー? なんでよ」
不満げな顔になる綾香。真一はフッと口元に笑みを浮かべる。
「もっと魅力的な女がここにいるからじゃないかな」
「あまーい!」
綾香は心の中で叫ぶ。(実際にも叫んではいるが)
こんなにカッコよくて、背が高くて、おまけに将来有望な男と付き合えるなんて、私は世界一の幸せものだー。
そう、真一は早稲田大学に通っていると聞いていた。
三月下旬、都内の専門学校に通うため、九州は長崎より上京してきた池田綾香は、うら若き十八歳の乙女である。茶髪のセミロングヘアーに緩くパーマをあてている。某ファッション雑誌オススメのヘアースタイルであった。肝心なルックスはというと、やや、突起の小さな平面顔で、おまけにバッチリ一重瞼ではあるが、これまた某ファッション雑誌で培った化粧術とマスカラのおかげで、なんとか美人と呼んでも遜色のないものに仕上がっていた。
そして一週間前、吉祥寺駅の近くで、そんな彼女をナンパしてきたのが、自称早大生の井本真一。綾香より二歳年上の二十歳であった。肩まで伸びた金髪と甘いマスク。長身で、モデルのようなスタイルの良さを誇っている。
綾香はそんな真一(主に容姿)にメロメロとなり、初めて会ったその日に「付き合って欲しい」と言いだした彼に、ただただ頷くばかりであった。
二人はやがて、散った桜に彩られる井の頭池のほとりで、少し立ち話をすることとした。池を囲む、柵に手をかけ、真一が真剣な表情で綾香を見た。
「なあ、綾香。夏になったら一緒に暮らさないか?」
驚いて目と口を大きく開ける綾香。
「それ、本気で言ってんの」
「ああ、本気だ」
真一の顔がいつもより格段と男前に見える。「俺のマンションに来てほしい」
綾香は迷った。彼とは出会ってまだ一週間だし、長崎、佐世保の実家から、吉祥寺のアパートに越してきて一ヶ月も経っていない。
いや、やっぱり無理だ。
「そんなん」
首を振る綾香。「無理に決まっとうやん。お父さんの仕送りで家借りてんのに、お父さんになんて説明すればいいんよ」
「そうか」
真一はしょんぼりと溜息を吐いた。「そうだよな。無茶苦茶なこと言ってゴメン。ただ……、俺どうしても綾香と一緒に暮らしたくてさ。最近、夜、なかなか寝つけなくて……、どうしてだと思う?」
「んー……」
視線を宙に漂わせ、綾香は考え込む。しかし分からない。「どうして?」
「お前という抱き枕がないんだよ」
「あまー……」
叫びかけて止める。「いやいやいや! そんなこと言われても、まだ同棲は早すぎるよ」
「そうだよな……」
再び、綾香は悩んだ。
どうしよう。真一と一緒に暮らしたいのは私も同じ。でも、吉祥寺のアパートが……。
ふと名案を思いつく。
「ねえ、真一! 半同棲ってのはどう?」
心地よい春風が綾香の頬を撫でる。そう、彼女の春がこれから始まる。
……はずだった。