そしてまた歌いだす
何ヶ月ぶりだろうか、ドアの呼び鈴がなった。僕はビクッと体を震わせた。誰だろう、全く心あたりがない。大学を卒業してからは友人とも疎遠になったし、都会での一人暮らしで仲の良い人間なんか出来るはずもなかった。「はい」僕は警戒心丸出しの声でドアをちょっとだけ開けた。
そこで僕の目に飛び込んできたのは、同い年くらいの可愛らしい女性だった。僕は思わず息を飲んだ。もちろん僕に彼女なんていなかったし、姉妹や親戚にだってこんな愛くるしい女性は見たことがない。だけどなぜだろう、僕はその柔らかな微笑みに何処か懐かしい匂いを感じた。
「こんにちは。この間助けてもらった『君』です」
「はぁ…??」
新手の宗教の勧誘だろうか。もしくは国営放送の集金か。そういえば怪しげな宗教は若くて美しい女性を餌に信者を勧誘していると週刊誌で昔読んだ気がする。
「有勝咲史さんですよね?」
「そうですけど…」
なんでこの女僕の名前を知ってるんだろう。ドアの隙間から僕はますます警戒心を強くした。そんな僕を他所に、彼女はにっこりと僕に微笑んだ。
「私、咲史さんの作った曲によく出てくる『君』です」
「き、君代さん…?」
やはり知らない名前だ。思えばこんな冴えない人生を歩んできた僕に美人の知り合いなど出来るはずもない。とすると、もしかしたら向こうが僕のことを一方的に知っているだけかもしれない。
「私、感動したんです、貴方がいつも路上ライブで歌ってくれる定番曲…『君が教えてくれた』なんですけど」
「あぁ」
嬉しそうに話す彼女の姿を見て、僕は合点がいった。大学の頃からストリートミュージシャンに憧れて、バイト生活の今でもたまに路上でライブを行ったりしている。もちろん僕にプロを目指す気力も才能もなかったので、いつもお客さんは無に等しい。彼女はその時に僕のことを知ってくれたのだろうか。未だかつてファンなどというものができたことがなかったので、僕は単純なことに舞い上がった。
「…とくにサビの《ありがとう 君と出会えた奇跡を僕は信じる》のところ何かもう私感動しちゃって」
話し出すと止まらない、という風に彼女は僕の曲を語り続けた。その賞賛に何故か僕だけじゃなく彼女まで照れたように頬を染め上げていた。
「…あの」
「え?」
「…《ほんとはわかってた 君が好きだってこと》の部分…あれって本当なんですか?」
「ん? いやまぁ、本当というか…そう思って書いた詞だよ」
「きゃあっもうっ!」
そう言った瞬間、顔を真っ赤にした彼女が僕を突き飛ばした。完全に虚をつかれた僕は無様に暗がりの玄関に尻餅をついた。なんだこいつ。両手で頬なんか抑えて、完全に自分の世界に入ってしまっている。そりゃこんなに自分の曲を褒められたら、僕は悪い気はしないけれども。
「…そんなはっきり言われると困ります」
「いってぇ…何なんだよもう」
「でも…最近咲史さん曲作ってないですよね?」
さっきから一点、今度は半ば責めるような目を僕に向けてくる。僕は思わず後ずさった。
「何でなんですか? 仕事が忙しいからですか? 他に大切なものが、楽しいものができたからですか? 最新作の『そしてまた歌いだす』でも最後歌ってたじゃないですか。《最後まで諦めないよ どんなに苦しくても》って」
「いや…あの」
彼女の勢いに軽い恐怖に怯えながら、僕は何でこの子がまだ発表してない新曲の歌詞を知っているんだろう、と頭の片隅で疑問符が浮いた。
「私といても…金にならないからですか?」
「金って…!? 人聞き悪いよこんなとこじゃあ」
彼女の目に光るものを見て、僕は完全に狼狽した。僕らの騒ぎを聞きつけてか、近所の人たちがさっきからチラチラとこちらを見ている。とにかくこのままじゃあ、有らぬ噂をたてられてしまう。僕は無理やり彼女を家に引っ張り込んだ。
「もう…何なんだ君さっきから一体! 皆から変な目で見られたじゃないか」
「…咲史さん、もう歌わないんですか? 昔はいつも、東駅前のベンチで夜中歌ってたのに」
部屋までは上がろうとせず、彼女は玄関先で直立に立って僕を見つめてきた。その哀しそうな目を見て、僕はさっきまでの怒りと分からない自責の念でごちゃまぜになった。
「…歌わないよもう。親からも言われてるんだ、さっさとマトモな職につけって」
「そう…なんですか」彼女が目を見開いた。
「もうギターは卒業だ。ライブもやらない。もうここには来ないでくれ!」
「……!」
何も言わず彼女は静かに家を出ていった。僕は振り返らなかった。しばらく経って窓から外の様子を伺い、あの女が帰ったことを確認して、僕はやっと肩の荷を下ろした。
全く、今のはなんだったのだろう。ライブに精を出していた学生時代でさえ、あんな女には出会ったことがない。何故歌を諦めようとした今頃になってあんな熱狂的なファンが…。僕は思い立ってホコリを被ったギターを押入れから引っ張り出した。防音設備のないこの部屋じゃ、まともに音を鳴らすことすらできないが。
ギターを持つと、途端に思い出がこみ上げてくる。そのまま僕は、何曲か流しで抑え目に引いてみた。やっぱり楽しい。この感覚は、マトモな職についたって到底忘れられそうもない。
そして、ふと気がついた。そういえば、『そしてまた歌いだす』は僕が大学を卒業してから唯一作った曲で、しかし結局最後まで完成しなかったのだ。何故あの子は、『そしてまた歌いだす』の歌詞を最後まで知っていたのだろうか…。
(…あの子に悪いことしちゃったかな)
僕はじっと切れかけた弦を見つめながら、さっきの彼女の目に光るものを思い出していた。
…今夜あたり、東駅前にちょっとだけ行ってみようかな。もちろんいないとは思うけれど、念のため、念のために卒業したギターも持って。