甘い蜜の部屋
人は、どうしてこの世に生まれ何のために生きるのか。
ある人は愛するため、ある人は愛されるために生まれ、生きる。
では、自分は何のために生まれ、何のために生きるのか。
その答えはもうわかっていた。
愛されるために生まれて、愛するために生きているのだ。
幼い頃は、自分が誰を愛するのか、どんな人が自分の運命の人なのかと、夢想していた。
背が高くて王子様みたいな人だろうか、居心地の良い幼馴染のような人なのか、優しい人なのか、一番に自分を愛してくれる人なのだろうか。まだ見ぬ愛する人に胸をときめかせていた。
どんな人なのかは全く想像つかなかったが、きっと素敵な人なのだろうと思っていた。
砂糖菓子のような甘い甘い夢を見る少女だったのだ。
けれども、いざ自分が愛した人は、確かに背が高かったけれど、王子様とは対極にあって、居心地の良さを与えてくれるわけでも、優しくも、自分を一番に愛してくれる人ではなかった。
ユリアが愛したのは、一流の殺し屋だった。
仕立ての良い黒いスーツ姿の、全てにおいて奔放な腕の立つ殺し屋。当時の彼のクライアントの娘として出会った時から自分のことを子ども扱いをして、まるで計算し尽くされたように隙を作るカサノヴァ。ひっきりなしに愛人から電話がかかってきて、2日と空けずに彼の元を訪ねてくる。最初は何人から電話がかかってきて誰が訪ねてきたかを数えていたが、両手両足で数えられなくなるとやめてしまった。意味がないことだと気づいたのだ。ここで少し自分は大人になったような気がする。
時にはその愛人の取次をまだ子どもだった自分にさせて、愛人のとどまるところを知らない怒りを買うことは度々遭った。
自分が彼の愛人に爪で引っかかれたりした傷痕やぐしゃぐしゃに掻き回された髪を見て、彼はこう言ってのけた。
「ずいぶんとセクシーな顔になったじゃねぇか」
正直言って、どうしてそんな人を愛したのかなんていうことはわからなかった。
別にユリアの周りにはその男ージェフしかいなかったというわけではない。もっと人格的にマトモで紳士だってたくさんいたのに、惹かれたのはジェフだった。
とんでもないことに振り回されても、いくつになっても自分を子ども扱いしても、好きになってしまったのだ。
生きる理由は誰かを愛するため。その誰かは自分にとってジェフだと気づいた時には、彼は既にユリアの前から姿を消していた。
だから探した。探して探して、探しまくった。彼の気に入りのエスプレッソを出すカフェテリア、彼のスーツを仕立てているテーラー、彼が好む場所なら探し尽くした。気がつけば子ども子どもと言われていた自分も、立派なレディになっていた。
もうきっと、ジェフに会うことはできないのかもしれない。いつしかそう頭に過るようになってしまった。ジェフのことは忘れて、どこかの男と幸せになれと神様が言っているのかと思うようになるとは、思いもよらなかった。
どうやら、自分の神様は底意地がひねくれているらしい。
探すことをやめようかと考えた時に限って、神様は気まぐれを起こすのだ。
たとえば、長らく訪れておらず家主も帰って来なかったアパルトマンにて再会。
ジェフ探しの旅に疲れてしまって、何となしに姿を消す前に彼が住んでいたアパルトマンを訪れて、そのアパルトマンの一室で眠ってしまっていたのだ。
前に訪れた時と何ら変わらず、本当に人が住んでいたのかと疑問を投げかけるほどに生活感のないその部屋には、背の高いブックシェルフと年季の入った蓄音機、それとバニティ・フェアとベッドといった面々が主の帰りを健気に待っていた。
その中でも一等健気に主の帰りを待っているように見えたのは、バニティ・フェアである。ポルトローナ・フラウで取り揃えられた家具たちの中でも、最も主の信頼を得ていた真っ赤な貴婦人に、時に嫉妬し時に羨望した。けれども、いつ帰るかわからない主を待つ貞淑な貴婦人に敬意を表しつつ、ユリアは貴婦人とともに家主の帰りを待ち、眠っていたのだ。
「おい、バンビーナ。それはオレの女だ、さっさとどけ」
「バンビーナ」という懐かしい呼称にゆるゆると目を開けると、そこには貴婦人の主がいたのだ。
「…………」
突然のことに、ユリアは言葉を失った。
神様は底意地が悪いのか、優しいのか、よくわからない。目が覚めたら、視界に入ったのは探し求めていたその人だったなんて。
「……どうして」
「どうしても何もここはオレの部屋だ」
それはそうだけれども。
ユリアはとっくりとその姿を見る。ボルサリーノの中折れ帽、エルメネジルド・ゼリア仕立てのスーツ、長く白い指。間違いなく探していたその人だった。
「……いつ、帰ってきたの?」
「今朝だな」
どうしてこんなタイミングで。しかもこんな寝起きの格好で。再会した暁には「バンビーナ」なんて呼ばせないくらいの立派なレディとして会いたかったのに。化粧も薄くて髪もぐしゃぐしゃで、いくらヴィヴィアン・ウェストウッドの気に入りのワンピースを着ているとは言えども、とても彼に釣り合うようなレディには見えなかった。
くいっと、ジェフの白くて長い指がユリアの小さな顎を掴んだ。その仕草に心臓が跳ね上がった。今まではこんなことはされなかったのに。ジェフはユリアの顎を掴むだけでなく、その黒の双眸に彼女の姿を宿した。あまりにじろじろ見られるものだから、視線を下に向けてしまった。……恥ずかしい。
「……そんなにじろじろ見ないでよ」
食べ頃の林檎のように頬を紅潮させながら、絞り出せた言葉はその言葉だった。
「何言ってんだ。オレに見てほしいと思ってる癖に」
確かにそうだけれども。
そういうのは、時と場合と状況があるものだと反論したいところだが、どうせジェフにはそんなことお見通しだ。何て言ったって、カサノヴァだ。微妙な女心なんて彼にとっては子猫のようなものだ。
だから、ユリアにはこんな小さな反抗しかできなかった。
「……何かご感想をいただける?」
こんなにじろじろ見たのだ。見物料に感想をくれてトントンだ。
すると、彼は少し考えるような素振りをして、さもありなんと言った表情で告げた。
「まぁ、フランチェスカの素質はあるな」
フランチェスカの素質。何だか褒めているんだか、貶されているかわからない感想だったが、それは最大級の賛辞だということを、ユリアは知っていた。
フランチェスカ。
カサノヴァが最も愛した女の名前。
他の愛人たちは名前を覚えるのが面倒という理由で全ての女を「ヴィッキー」と呼んで、暗に自分は彼女たちを利用価値のある女であり、愛すべき女ではないと言っていたジェフが、はじめて自分に好意を寄せる女に対して抱いた感想だった。
「わたし、あなたのことを愛してるの」
口をついて出てきた言葉は、愛の言葉だった。愛している。子どもだと適当にあしらわれても、ヴィッキーたちの取次をさせられても、仕事以外はとんでもなくだめでも、彼にとってのフランチェスカであるとはっきり断言されたわけでもないけれど、ユリアはこの人を愛していて、この人を愛するために生きているのだ。
「知ってる」
「あなたの傍にいていい?」
ジェフを探して探して、旅をするのは疲れてしまった。もう、当てもなくジェフを探す旅は終わりにしたい。
そんなユリアの言葉に対する答えは、短いものだった。
「No」
「どうして?」
もう子どもじゃない。足手まといになんてならない。苦手だったロシア語も頑張って勉強したし、レディらしい立ち居振る舞いも、銃器の扱いも、できるようになった。
全ては愛するジェフの傍で生きるため。それなのに。
「わかんねぇのか?」
「わたし、あなたと離れてる間一生懸命頑張ったわ。あなたの足手まといにはならないわ」
「お前は、大人になりすぎたんだ」
「……大人に?」
子ども子どもと言われてきて、全然相手にされなかったから、頑張って大人になったのに。
「お前がもっと子どもだったら、傍に置いておく価値はあったんだけどな」
「どういう……っ!」
どういうもそういうも、こういうことを示していた。もっと自分が子どもであれば、ターゲットは子ども連れの男をまさか自分を狙った殺し屋だとは思わないだろう。もっと子どもであれば、彼の仕事を手伝うことができるだけの、利用価値はあったのだ。
そう思うと、途端に涙が溢れてきた。おかしい。今までジェフに子ども扱いされても、ヴィッキーたちの長いネイルで引っ掻かれても、ジェフが突然いなくなった時も、ギャングたちの手篭めにされそうになった時も、決して泣かなかったのに。
子どもの自分が嫌で、必死で大人になったのに。
この感情が、悔しさから来るものなのか悲しさから来るものなのか憤りから来るものなのか、ユリアにはわからなかった。けれども、ずっと箍を閉めていたはずの涙が溢れてしまっていることと、この涙を早く止めなければいけないということも理解できた。
頑是ない子どもは嫌いだと公言しているジェフである。特に泣く子どもは嫌いだと常々言っていた。このまま泣いていれば、もしかしたらまたいなくなってしまって、今度こそ永遠に会えなくなってしまう。
必死に止めようとしていたら、まぶたにキスが落ちてきた。
「!」
驚きの余り、一瞬何が起きたのかわからなかった。ユリアが状況を理解する間もなく、まぶたにあったジェフの薄い唇から赤い舌が出てきて、その舌がユリアが流していた涙の通り道を辿って、ユリアの唇にジェフのそれが重なった。
正直言って、ジェフからキスをされたのははじめてではなかった。
でもそれはまだ子どもで、来る日も来る日も愛人が彼を訪ねてきてふてくされていた時にあやすかのようにおでこにされたものや、近所のマリオと喧嘩して落ち込んでいた時に鼻にされたもので、唇へのキスははじめてだった。
はじめて唇にされたキスは、しょっぱい味がした。
驚きと口が塞がれたことによって、ユリアの涙が止まると、ジェフは唇を離した。
「泣いてる女は好きじゃねぇんだ。久しく泣いてなかった女のは特にな」
それはきっと本当で、嘘も孕む言葉だった。
泣いている女を泣き止ませるためにする口づけは、何も唇でなくて良いのだ。
それだから、ユリアはある決心をしてそれを告げた。
「ねぇ、ジェフ。わたし、欲しいものがあるの」
もう傍に置いてほしいとは言わない。だって、彼はそれを望んでいないもの。
「わたし、この部屋がほしいわ。散々あなたの小間使いだって何だってやってきたんだから、対価として頂戴」
ジェフは少し考えて、肯定の意を示した。
「この部屋をくれてやったとしても、オレが帰ってくるとは限んねぇぞ」
「あなたは帰ってくるわ。絶対に」
「とんだ自信だな」
「ううん。確信だわ。それに、もうあなたを探すの疲れちゃったの。だから、この部屋でずっと待っててあげる。他のとこに寝床なんて作らないでね」
「作ったら?」
そう言うと思っていたユリアは晴れやかに笑ってみせた。
「どんな手を使っても見つけ出して、わたしのところに戻ってくるようにするわ」
もうユリアは何もできない子どもではないのだ。
その答えにジェフはボルサリーノに手をかけて、少し表情を隠した。
「しばらく見ねぇうちにとんだプリンチペッサになったもんだ」
「当然だわ」
だって、わたしはあなたを愛するために生きていくんだもの。