【エリィ視点】非公式・記録に残らない出来事
ラスティエル殿下は扉に背を向けて立っていた。
右手は取っ手にかけられたまま、離れる気配がない。
エリィの視界にあるのは、微動だにしない殿下と扉だけだ。
旧校舎の古い部屋は空気そのものが奇妙にゆらいでいる。
閉じ込められたと理解したと同時に、扉の向こうに人の気配があることに気づいた。
複数の足音。慌ただしい空気。
ラスティエル殿下の側近、テオドール卿の存在も、はっきり分かる。
「……殿下、わたし、何も……」
「分かっている。落ち着いて」
殿下は取っ手に手をかけたまま、低く声を落とした。
声には苛立ちも焦りもなかった。
「この状況は、君の意思じゃない。そうだね?」
「はい、もちろんです」
殿下がわかってくれている。
それだけで、エリィの肩から少し力が抜ける。
自分が仕組んで、閉じ込めたんじゃないかと疑われていなかった。
そうわかって、張り詰めていたものがほどけた。
しばらく沈黙が落ちた。
外では風が鳴っている。
学園で過ごす最後の季節の音だった。
「……もし」
その一言に、エリィは視線を上げた。
殿下は視線を取っ手に固定したまま一歩も動かない。
ほんのわずか間を置いて、再び言葉を繋げた。
「もし君が、王太子を選ばなければ命が危ない、
という状況に追い込まれているのなら」
ラスティエル殿下は、はっきりと続けた。
「俺は、王太子の地位を弟に譲る」
一瞬、意味が理解できなかった。
理解した次の瞬間、喉が鳴った。
冗談でも慰めでもない言葉だと、エリィは殿下の表情で理解してしまった。
「それは! そのようなことをおっしゃっては……」
「ああ。これは、公の場で言うべき言葉じゃない。
だからここで言おう。記録には残らない。
今ここで聞いた者以外、誰も知らなくていいことだ」
ラスティエル殿下は線を引くように、言葉を並べた。
「だが、君にだけは伝えておくべきだと思った」
殿下の指に、わずかに力がこもるのが見えた。
「誰かが生き延びるために、
愛や婚姻や地位を差し出さなければならない世界なら」
低く、揺るぎない声。
「その歪みを引き受けるのは、選ばされる側じゃない。
王太子という立場にいる俺だ」
この言葉を聞かされるのは、きっと世界でエリィだけだ。
なんて重い覚悟だろう。
エリィの視界が滲んだ。
胸に落ちてきたのは、ときめきではなかった。
「君は、何も選ばなくていい」
「……殿下は、優しすぎます」
「違う。これは優しさなんかじゃない。
俺は、婚約者を裏切らない。
同時に、無関係な人間を犠牲にもしたくないだけだ」
それが、この男の限界であり、誠意だった。
「出よう」
殿下はそう言い切ると、取っ手を引いた。
何かがほどける音がして、外の空気が流れ込む。
廊下の気配が、はっきりと近づいた。
「この学園生活も、もう終わりだ」
振り返らないまま、殿下は扉を開けきり、道を示す。
一歩もこちらに近づかない。
手を差し伸べるられることはなかった。
「良い思い出を作ろう。俺も、君も」
振り返らずに言い残し、彼は先に廊下へ出た。
護衛たちが即座に動きいて通路を確保する。
テオドール卿は何も言わず、すぐに殿下の背後に控えた。
エリィは一人、その背中を見送った。
◇
扉が閉まる音が、ゆっくりと廊下に溶けていった。
部屋に残されたのは、痛いほどの静けさだった。
エリィも廊下に出たが、なかなか動き出せなかった。
その場に立ち尽くし途方にくれてしまっていた。
胸の内に残っているのは、混乱でも、ときめきでもない。
理解してしまった、という感覚に近い。
自分は守られた。
ラスティエル殿下の覚悟が重かった。
彼はずっとそうなのだろう。重いものを背負って生きている人。
学園での思い出が胸を過るたび、その事実が重くのしかかってくる。
どう受け止めればいいのか分からないまま、エリィは小さく息を吐いた。
――そのとき。
「……エリィ?」
廊下の先から、聞き覚えのある声がした。
俯いていた顔を上げると、ひとりの青年が立っていた。
騎士科の制服をまとい、真っすぐな姿勢でこちらを見ていた。
ガレス・フォン・ヴァレンティだった。
「……大丈夫か? 殿下とすれ違ったが、何かあったのか」
そう言って、ガレスはゆっくりと近づいてくる。
過剰な心配を見せることはしないけれど、
決して無関心ではない。
困っていたらすごく真摯に向き合ってくれる。
あの訓練場の日と同じ距離感だと、エリィはふと思う。
「何もありませんでした。荷物の片付けをしに来てたんです。
そしたら殿下が通られてびっくりしました。それだけですよ」
一生懸命笑顔を作る。
嘘は言っていないけど、本当のことも言ってない。
声を出すと少しだけ震えた。
ガレスはほんの少しだけ視線を下げた。
「ならいい。卒業前だ。
こんな人のいない場所に、一人でいるのは危ない。
寮まで送ろう」
それだけ告げて、ガレスは踵を返す。
エリィは一瞬だけ迷い、そしてすぐに後を追った。
並んで歩く廊下は静かで、
さきほどまでの張り詰めた空気が嘘のようだった。
「……ガレス」
名前を呼ぶと、彼は一度だけ横目でこちらを見る。
「何だ」
「ありがとう、ございます」
「礼を言われるようなことはしていない」
きっぱりとした返答。
二年生の頃と、少しも変わらない。
「見回り当番中に君を見つけて、寮まで送るだけだ」
それだけ言って、ガレスは前を向いた。
エリィは、その横顔を見つめながら思う。
あの人は、世界の歪みを引き受けると言った。
この人は、何も聞かずに迎えに来てくれた。
どちらも、間違いなく“騎士”なのだと。
卒業を目前にした夕暮れの中、二人の足音が心地よく耳に響いた。
◇
◇
強制力瀕死の最後の悪あがきイベント(失敗)
強制力「まだだ、まだ終わらんよ……」
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