なでなでなでなで
「セシリア? 疲れた?」
無意識に握りしめていた手をそっと握られ、沈みかけた意識が殿下に向きました。
いけないわね、ラスティエル殿下と過ごす時間にうわの空になるなんて。
「いいえ、大丈夫です。少しぼんやりしてしまっただけですのよ。
殿下はお疲れではございませんか? 午前からずっと政策会議でしたでしょう?」
「ん、平気だけど、これから慌ただしくなるかもしれなくてね。
それはセシリアもなんだけど……」
「わたくしもですか」
殿下は頷いて、これからの公務について説明してくださいました。
どうやら隣国から軍事関連の視察要請があり、
王女殿下が視察団を連れてルーンフェルド王国にいらっしゃるそうです。
「イゾルデ王国側からとは珍しいですね。同盟国とは言え、
あまり交流を重視していなかったように思えましたけど」
「うん。南の軍備強化が気になるらしくて
我が国とイゾルデの同盟の強固さを見せたいってね。
南のきな臭さは確かに気にはなるけど、何か別の思惑があるのかもしれない」
殿下はわたくしの肩にそっと寄りかかり、考えを巡らせるように目を閉じられました。
日々、大きなものから小さなものまでさまざまな問題が持ち込まれ、
そのひとつひとつに対処していくだけでも、相当なご負担なのでしょうね。
わたくしは殿下の額にかかった髪を横に流し、すこしだけ撫でておきます。
癒されますわね。
ラスティエル殿下はくすぐったそうに笑っています。
「視察の名目ではありますが、王女殿下が直々にいらっしゃるなんて……。
イゾルデ国内の軍事事情はそこまで切迫しているのでしょうか」
「報告を読む限り、確かに南の国境付近で部隊の再配置があったようだ。
ただの牽制なのか、別意図があるのかまだ不明だ。
セシリア、しばらくは俺の近くにいて。
何か動きがあったとき、すぐ対応できるようにしておきたい」
「はい。殿下のお望みのままに」
「はあ、重い話はつまらないな。君への愛の詩集を綴るほうがよっぽど重要事項だと思うよ。
なんならもう結婚式を挙げてしまおうか」
「もう、婚姻式まであと一年を切ってますもの、あと少しだけ辛抱なさってください」
そう答えると、殿下は微笑んでわたくしの指先を包み込むように握り込みました。
その温かさに安心しつつも、見えない不安が近づいている気がして
心からの笑みを返すことができなくなってしまいました。
マリーがお茶を運んで戻ってきたことで、わずかに張り詰めた空気が緩みました。
けれど、その不安だけはどこかに引っかかったまま消えてくれません。
イゾルデ王女の来訪。南方のきな臭い動き。
そして、殿下の「近くにいてほしい」という切実な声。
わたくしは殿下の手を握り返し、折れそうな心を叱咤します。
何が起こるのかは分かりませんけれど……、
きっと、王宮の空気はこれから変わってしまう。
そんな気がしてならないのです。
その日の夕刻。
殿下とのお茶を終えて執務室を辞した後、
わたくしは王宮の長い回廊を歩きながらふと足を止めました。
廊下の先で、文官たちが慌ただしく書簡を運んでいます。
その束の上から、鮮やかな紅紫色の封蝋が目に入りました。
……イゾルデ王家の正式印。
不安が、目の前で輪郭を持って現れたような感覚。
まるで、何かの幕が上がる合図のように。
わたくしは歩き出しながら未来へ想いを馳せました。
次に動くのは、きっと王宮ではなく――物語そのもの。
それは、わたくしが知らない『追加のシナリオ』の始まりなのかもしれません。
側に控えるマリーが血の気を失った顔をしていることに、
自分のことで精いっぱいだったわたくしは気づきませんでした。
◇
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