第9話 黄金杯と自由
審問室の重い扉が閉じられた瞬間、張り詰めていた空気がふっとほどけた。
石造りの廊下に出た健二たちは、ようやく深く息を吐き出す。
「ふぅーっ! いやぁ、おいら、途中で胃がひっくり返るかと思ったぞ!」
ライルが大げさに胸を叩き、わざとらしく肩を回す。
「……でも、勝ったんだよね?」
ミナは尻尾をぱたぱた揺らしながら、まだ信じられないといった顔で健二を見上げる。
「勝った、というより……一歩進んだ、かな」
健二は台紙を胸に抱きしめ、赤い印を見つめながら静かに答えた。
そこへ、廊下で待っていた受付嬢が声をかけてきた。
「お疲れさまでした。でも、これはあくまで仮登録です。条件付きの承認ですから、気を抜かないでください」
「うっ……お姉さん、正論すぎて耳が痛ぇ……」
ライルが肩を落とすと、ミナが
「でもお肉は増えるんだよね?」
と目を輝かせる。
健二は苦笑しつつも、心の奥では冷静に自分を律していた。
(赤印は増えた。けど、まだ道半ばだ。次に失敗すれば、すべてが水の泡になる)
そのとき、廊下の隅で待っていた数人の商人が近づいてきた。 「……よくやったな」「数字でここまで空気を変えるとは」 彼らは小声で称賛を口にし、健二に軽く頭を下げる。
だが同時に、遠巻きに冷ややかな視線を投げる者もいた。 その目は「次は潰してやる」と言わんばかりに鋭く光っている。
健二はその視線を正面から受け止め、静かに息を整えた。 (……ここからが本当の勝負だ)
勇者案件への補給参入――その準備には数日を要することになった。
健二たちは束の間の休息を得る。
――その後、三人は宿屋へ戻った。
ノワルマルシュの商人ギルド近くにある安宿〈麦束亭〉は、煤けた壁と軋む扉が目印の二階建てだ。
外観こそ古びているが、中は意外に清潔で、女将の几帳面な性格が隅々に表れている。
一階の食堂に足を踏み入れると、煮込み豆と焼きパンの香りが鼻をくすぐった。
長机には行商人や冒険者が肩を寄せ合い、安いエールを片手に声を張り上げている。
帳簿を広げて取引を続ける者、酔って歌い出す者、荷車の愚痴をこぼす者――雑多な喧騒が渦巻き、まるで市場の縮図のようだった。
「おかえり! 上の部屋はちゃんと掃除してあるよ!」
女将が大声で迎え、空いたジョッキを片手で回収していく。
床は油で黒ずんでいるが、拭き掃除が行き届いており、不快な臭いはしない。
二階へ上がると、廊下は狭く、床板がぎしりと鳴った。
三人用の客室には藁を詰めたマットレスが三つ並び、窓辺には薄いカーテンが揺れている。
「はいはい、女の子もいるんだから、これでも掛けときな」
女将は病院の仕切りのような布カーテンをがらがらと引いて見せた。
「え? 別に気にしないけどなぁ」
ミナは首をかしげ、尻尾をぱたぱた揺らす。
「子供でも女の子は女の子だよ。世間体ってもんがあるのさ」
女将は笑いながら布を整え、軽く手を打って部屋を後にした。
ライルは腹を抱えて笑いだした。
「気にしないタイプで助かるな」
健二は肩をすくめ、苦笑する。
「いや、むしろ俺の方が気を遣うわ……」
窓の外からは、まだ荷馬車の車輪が石畳をきしませる音が響いていた。
「ふぅ〜っ! やっと終わったな!」
ライルはベッドに倒れ込み、両手両足を投げ出した。
スプリングがぎしりと鳴り、埃がふわりと舞い上がる。
「お肉! お肉は!? 今日こそ増えるんだよね!」
ミナは机にかじりつき、尻尾をぶんぶん振っている。
瞳は期待で輝き、まるで子犬のように健二を見上げた。
健二は窓辺に腰を下ろし、外の夕焼けを眺めながら深く息を吐いた。
(赤印は増えた。けど、まだ道半ばだ。次に失敗すれば、すべてが水の泡になる……)
──と、シリアスに考えた次の瞬間。
「……くぅ〜……ビール飲みてぇ……」
思わず漏れたのは、緊張から解放された三十路手前の本音だった。
(異世界に来て何日か。水と薄いエールばっかりで、喉が本物のビールを求めている。でもビールは高い……商人ギルドの売店で見たビール……銀貨一枚:〈黄金杯〉特醸ビール……銀貨一枚の一杯、多分一万円くらいするよな……)
ブツブツと頭の中で考えがよぎった。
その時、 廊下を通りかかった見習い商人たちの声が、大声なので当然のように耳に聞こえてきた。
「兄さん、ツケで飲めばいいじゃん」
「いやいや、ツケが効くのは“加護持ち”だけだろ。俺は祝福持ちだから信用が違うんだよ。薄いエールで我慢だ」
兄の見習い商人は加護があればなぁと嘆いていた。
「……は? 祝福と加護って違うの!? しかも加護持ちはツケでビール飲めんの!?」
ビール欲しさに、健二はガバッと立ち上がった。
椅子が後ろに倒れ、ミナがびくっと耳を立てる。
ライルは枕を抱えたままニヤリと笑う。
「そうさ。祝福は“神様からのおまけ”みたいなもんだが、加護は“神に保証された証”だ。信用の重みがまるで違う」
「え、じゃあ祝福持ちと加護持ちって別物なのか?」
健二は眉をひそめ、思わず身を乗り出す。
「祝福は誰でも受けられる小さな恩恵だが、加護は選ばれた者だけ。だから加護持ちはツケも通るし、高級ビールだって飲める。庶民が飲むのは水みたいなエールだけだ。取引も優遇される。商人にとっては最高の看板だな」
ライルの声は妙に誇らしげで、まるで講義でもしているかのようだった。
「なにそれチートじゃん!格差社会!? 俺も加護欲しい!」
健二は頭を抱え、ベッドの上でごろごろ転がった。
「加護! 加護! 加護プリーズ! 神様ワンチャンお願いしますぅぅ!」
両手を天に突き上げ、まるで通販番組の客みたいに叫ぶ。
ライルは枕を抱えたまま、にやりと笑って肩をすくめる。
「……三十路前の男が神頼みで駄々こねる姿、なかなか見ものだな」
「あははっ!健二、なんか犬みたいだよ」
ミナは尻尾をぶんぶん振りながら、机をばんばん叩いて笑っている。
「うるせぇ! 俺はビールのためなら犬にもなる! ワン!」
健二は自分で吠えた。
「……まぁ、誰でも授かれるわけじゃないがな」
ライルは意味深に言い残し、枕をぽんと叩いて目を閉じた。
「加護よりお肉!」
ミナが垂れた耳を上下に振りながら叫ぶ。
「いやビールだろ!」
健二が即座に返すと、ミナは「お肉!」、健二は「ビール!」と応酬を繰り返す。
──宿屋の一室は、審問の緊張感が嘘のように、笑い声と騒がしさで満ちていた。
窓の外では、王都の街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
──翌日、市場に出た健二たちは、さらに同じ話を耳にする。
リュミエール王国首都ノワルマルシュの市場は朝から活気に満ちていた。
石畳の通りには色とりどりの天幕が張られ、香辛料の匂いと焼きたてのパンの香ばしさが入り混じって漂ってくる。
荷車を引く商人が声を張り上げ、野菜を山のように積んだ籠を抱えた農夫が値切り交渉に汗をかいていた。
通りの片隅では吟遊詩人が笛を吹き、子どもたちがその周りで踊り回る。
「この仕入れ、加護持ちだから特別に安くしてもらえたんだ」
「え、加護って……商売の信用スコアみたいなもん?」
「そうそう。「神に誓って裏切らない」って証明だからな」
耳に飛び込んでくる会話はどれも「加護」の話題ばかり。
加護を持つ商人の屋台には人だかりができ、値段も明らかに優遇されている。
一方で、加護を持たない商人の店は客足が鈍く、必死に声を張り上げても空回りしていた。
「よし、決めた! 神殿行って加護もらってくる! これで俺も“加護持ち商人”デビューだ!」
健二は拳を握りしめた。
そのとき、背後から声がかかった。
「お前ら、よくやったな」
振り返ると、ライルの顔なじみの顧客である職人商人が立っていた。
革の前掛けには煤がつき、腕には鍛冶仕事でついた傷跡が残っている。
「審問室での空気、変わったって噂になってるぜ。グランツの連中が顔真っ赤にしてたってな。……あんたら、よくやった」
健二が戸惑い気味に頭を下げると、職人商人はにやりと笑った。
「忙しくなる前に、祝いだ。本物のビールを飲ませてやろう」
「……マジっすか!? あの“銀貨一枚の一杯”を!?」
健二は思わず声を裏返らせる。
ここは市場の外れにある小さな酒場〈鉄環亭〉。
木の梁がむき出しの天井には、古びたランタンがぶら下がり、壁には鍛冶道具や古い契約書が飾られている。
職人たちが集うこの店は、エールよりも“本物の酒”を出すことで知られていた。
カウンターの奥では、無口な女主人が黙々とグラスを磨いている。
店内は静かだが、空気には重みがある。
ここで飲む一杯は、ただの酒じゃない。信用と実績の証だ。
職人商人は、健二たちが椅子に腰をかけるのを見ると、まずは腰にぶら下げた革袋から銀貨を一枚取り出した。
「祝いだ。本物のビールだ」
職人商人は笑いながら、酒場〈鉄環亭〉の奥に向かって手を挙げた。
「女将、〈黄金杯〉三つ。俺の名前で頼む。あと、獣人用の果実ジュースを一つ。冷えてるやつな」
ミナはぱたぱたと耳を揺らしながら、目を輝かせる。
「えっ、ジュース!? お肉じゃなくてジュース!? でも冷えてるならいいかも!」
ライルが肩をすくめて笑う。
「お前、肉以外にも反応するんだな」
「ライル、冷たくて甘いのは正義だよ!しかも高いのはもっと正義!」
健二は思わず吹き出しながら、職人商人に礼を言った。
「ありがとうございます……って、三人分も?しかもあのビールを?ミナの分まで?」
「ツケが通るのも、加護持ちの特権ってやつだ。銀貨一枚は“気持ち”だよ」
そう言って、銀貨を一枚だけカウンターに置いた。
職人商人はグラスが届くのを待ちながら、健二の方を見て、静かに言葉を継いだ。
「あんたら三人で空気を変えたんだ。一人でも欠けてたら、あの審問は通らなかった。祝杯は三人分だ」
グラスが届くまでの間、職人商人は、健二の隣に腰を下ろし、ぽつりと漏らした。
「……グランツ商会の連中、審問室で随分吠えてたな。」
ライルが鼻で笑う。
「いつも通りだな。あいつら、勇者案件を独占する気満々だったからな」
「でもな、赤印が出た瞬間、顔が引きつってた。あれは見ものだったぜ。あんたらの数字が、あの場の空気を変えた。俺はそれを見てた」
健二は思わず息を呑む。
「……見てたんですか?」
「見てたさ。俺は職人だが、商人でもある。空気を変える力を持つ奴には、投資する価値がある。あんたら三人で、あの場の流れを変えた。だからこの一杯は、俺からの先行出資だ」
その言葉に、健二の胸がじんわりと熱くなる。 そして、ちょうどそのタイミングで黄金色の泡が立ち上るグラスが職人商人に届いた。
ライルは腕を組み、健二の顔を見てにやりと笑った。
「庶民は一生に何度も飲めるかどうかの代物だぞ」
果実ジュースが目の前に来た、ミナは尻尾をぶんぶん振りながら、目を丸くする。
「お肉より高い……!しかも冷えてる……!これ、王族のおやつじゃないの!?」
黄金色の泡が立ち上るグラスが、健二の前に置かれた。
健二はグラスを両手で包み込み、ごくりと喉を鳴らす。
ひと口――。
「……うっまっ!! なにこれ、喉が幸せで死ぬ!」
健二は感動で目を潤ませ、グラスを抱きしめるように飲み干す。
だが次の瞬間、現実的な思考が顔を出す。
「……でも一杯一万円って、冷静に考えたら高すぎて落ち着かねぇ! 俺の胃袋が震えてる!」
「ははっ、そこが庶民の限界だな」
「じゃあ残りはミナが!」
「ダメだ! 一滴たりとも渡さん!」
場は笑いに包まれた。 だが健二の胸には、確かな決意が芽生えていた。
(加護を得て、信用を掴んで……いつか自分の金で、この味を堂々と飲んでやる!)
──翌朝。
勇者案件の補給準備が進む一方で、健二たちは王都クレールヴァルへと向かうことになった。
商人の街ノワルマルシュから馬車で半日。石畳の道を抜けるたびに、街並みは質素な商人の倉庫群から、整然とした兵舎や訓練場へと姿を変えていく。
「ここから先は、商人より兵士の世界だな」
ライルが窓の外を眺めながら呟く。
健二は胸の奥に、妙な緊張を覚えていた。
(……ここで“加護”を授かれば、俺も本物の商人として認められる。昨日のビールだって、堂々と自分の金で飲める日が来るはずだ)
馬車が王都の外郭に差しかかると、石造りの門の前でゆっくりと止まった。
検問所では兵士が通行証を確認し、荷車の荷をざっと検査している。
ライルが幌の小窓から外を覗き込みながら、健二に説明した。
「あれが王都の検問所。商人はここで通行証を見せるんだ。あっちが宿泊宿の並ぶ通り。馬の入れ替え場はその奥。……大神殿はこの先の参道を登った先にある」
健二は窓の外を見つめながら、街の空気の違いを肌で感じていた。
やがて馬車が門をくぐり、王都の石畳を進み始める。
停車場に着くと、三人は荷物をまとめて馬車を降りた。
そして――。
初めて王都「クレールヴァル」の 石畳で出来た大通りに足を踏み入れた瞬間、健二は思わず息を呑んだ。 目の前に広がるのは、白亜の城壁と整然と並ぶ兵舎、そして天を突くようにそびえる王城。
「ここが……クレールヴァルか」
思わず漏れた言葉に、隣を歩くライルが胸を張る。
「そうだぜ! “光の谷”って呼ばれる王都だ。王族や将軍たちの本拠地であり、精鋭騎士団の巣窟でもある。商人の街ノワルマルシュとは違って、ここじゃ金より剣の方が物を言うんだ」
ミナはきょろきょろと辺りを見回し、尻尾を揺らした。
「わぁ……兵士さんばっかり。市場の匂いもしないし、なんだか空気がぴしっとしてるね」
健二はうなずきながら、背筋に自然と力が入るのを感じた。
――ここは王の都にして、軍の心臓部。 数字や契約ではなく、剣と規律が支配する場所。
そして、大神殿へと続く参道に足を踏み入れた瞬間、健二の鼻をくすぐったのは香ばしい匂いだった。
「いらっしゃい! 加護まんじゅう二つで銅貨一枚だよ!」
「護符くじ〜! 大加護が出たら一年安泰!」
ずらりと並ぶ屋台から、威勢のいい声が飛び交う。
焼き印の入った白と黒のまんじゅうが湯気を立て、飴細工の職人が月や剣の形を器用に作り上げていく。
ミナはすでに尻尾をぶんぶん振りながら、肉串の屋台に突撃していた。
「健二!見て見て!お肉が神殿サイズだよ!おっちゃん肉串いっぱいちょうだい!」
「……神殿サイズってなんだよ」
健二は苦笑しつつも、思わず財布に手を伸ばす。
ライルはといえば、屋台の片隅で売られている「自由のエール」を手に取り、にやりと笑った。
「ほら見ろ、弟神派の屋台は気前がいい。昼間っから飲めって顔してやがる」
「お前、絶対あとで潰れるだろ……」
参道はまるで祭りの縁日のような賑わいで、神殿の荘厳さと庶民の活気が奇妙に同居していた。
だが、大階段を登りきった瞬間――空気が変わる。
白大理石の尖塔が頭上にそびえ、巨大な扉の向こうからは聖歌が響いてくる。
屋台の喧騒が背後に遠ざかり、代わりに胸を圧するような静けさが訪れた。
「……ここが、クレールヴァル大神殿……」
健二は思わず息を呑む。
天井には姉弟神が肩を並べるフレスコ画。
床には白と黒の石畳が交互に敷かれ、光と影が交錯する。
東には聖火が燃え盛る姉神の祭壇、西には月光を映す水盤の弟神の祭壇。
「でも……なんか、すごいね」
ミナは肉串を握ったまま、きらきらした瞳で見上げていた。
健二は深く息を吸い込み、胸の奥で小さく呟いた。
(……ここで“加護”を授かれば、俺もあのビールが飲める……!)
荘厳な大広間に足を踏み入れた瞬間、屋台の喧騒は完全に遠ざかり、空気が一変した。
聖歌の余韻が石壁に反響し、参拝者たちは静かに列を作っている。
「……すげぇ、観光地みたいに賑やかだったのに、中は別世界だな」
健二は思わず声を潜めた。
ライルは肩をすくめ、低く囁く。
「表向きは“二神の調和”ってやつだ。だが本番はここからだぜ」
ミナは肉串をまだ握ったまま、きょろきょろと祭壇を見回している。
「わぁ……火が燃えてる方が姉神さま? お水の方が弟神さま?」
「そうだ。で、加護を授かる儀式は――」
ライルが言いかけたところで、白衣をまとった神官が近づいてきた。
案内されたのは、神殿奥の「二神の間」。
姉神と弟神の像が並び立ち、中央には祭壇と古びた魔導書が置かれている。
神官が厳かに告げた
「では、異邦の来訪者よ。手を祭壇の神授魔導書に置き、神託を受けなさい」
(……ついに来た!異世界テンプレイベント!これで俺も“加護持ち商人”だ!) 胸が高鳴る。三十路手前のオッサンが、子供のようにワクワクしていた。
──静寂。 光も、音も、奇跡も……何も起きない。
「……あれ? Wi-Fi切れてます?」 「……いえ、もう一度」
二度目も、三度目も、やっぱり何も起きない。
「……残念ですが、あなたは“無加護者”のようです」 「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
場が凍りつく。参拝者たちが気まずそうに目を逸らし、健二は肩を落とす。
神官は慌てて言葉を継いだ。
「い、いや!無加護者も貴重なんですよ!神に縛られない自由な存在ですから!」
「フォローが逆に刺さるんですけど!」
そのとき、反対側の祭壇から、弟神派の神官が一歩前に出た。
「落ち込むことはありません。加護は選ばれし者にしか与えられませんが――祝福なら、誰でも受けられるのです」
「……え?」
健二が顔を上げる。
神官は柔らかく微笑み、銀の水盤から一滴の水をすくい、健二の額にそっと触れた。
「これは“影と自由”の祝福。あなたがどんな道を選んでも、その歩みを見守りましょう」
水滴が額を伝った瞬間、ほんのりと温かい光が広がった。
奇跡のような大きな輝きではない。だが、確かに胸の奥に小さな灯がともる。
「……お、おぉ……! なんか、ほんのりポカポカする!」
健二は思わず声を上げ、ミナがぱちぱちと拍手した。
「健二、やったじゃん! 無加護者だけど、祝福もらえたよ!」
ライルは口元を歪め、肩をすくめる。
「ははっ、……まぁ、最低限の保証はもらえたな」
神殿を出ると、クレールヴァルの空はすでに夕暮れに染まり始めていた。
白亜の城壁が赤く照らされ、兵士たちの鎧がきらりと光る。
健二は石畳を見つめたまま、肩を落として歩いていた。
──そのとき、参道の屋台街から威勢のいい声が飛んできた。
「護符くじ〜! 大加護が出たら一年安泰!」
健二は余計に虚しくなって、頭を抱えた。
「健二! 護符くじだって!」
ミナが尻尾をぶんぶん振りながら、木札が入った箱を指差した。
「一枚引くだけで運勢がわかるんだって!」
健二は腕を組み、にやりと笑った。
「よし、さっきは“無加護者”とか言われたけど……ここでリベンジだ!」
銅貨を払って木札を引き抜く。
そこに刻まれていた文字は――
【無加護】
「……おいぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
健二は頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
周囲の観光客がくすくす笑い、屋台の親父が苦笑いを浮かべる。
「健二、やっぱり犬だよ!」
ミナは腹を抱えて笑い転げ、尻尾をばたばたと床に打ちつけている。
ライルは腕を組み、肩をすくめた。
「……お前、ほんと期待を裏切らねぇな」
健二は涙目で二人を睨みつけた。
「なぁ……お前らはどうなんだよ! 祝福とか加護とか、持ってんのか!?」
ライルはにやりと笑い、胸を張る。
「もちろん“加護持ち”だ。だからツケも通るし、酒も飲み放題だぜ」
「ずるっ!!」健二が叫ぶ。
ミナは首をかしげて、にこっと笑った。
「私は“祝福”だよ! お肉いっぱい食べられる祝福!」
「そんな具体的な祝福あるかぁぁぁぁ!!」
健二の絶叫が参道に響き渡り、屋台の客たちがどっと笑い声を上げた。
そのとき、隣の屋台の親父が健二に声をかけた。
「なんだろうな……あんた見てると、つい財布の紐がゆるむ。さっき沢山買ってくれたから、肉串三本おまけしてやるよ」
「えっ!? マジで!?」
健二は思わず声を裏返らせた。
ライルが目を細め、口元を歪める。
「……なるほどな。お前の祝福は“交渉”か。相手の懐をゆるませる力だ」
「交渉……!?」
健二は串を握りしめ、目を輝かせた。
「つまり、ビールも安くなるってことか!?」
「……発想が庶民すぎる」
ライルが呆れたように肩をすくめる。
ミナは尻尾をぶんぶん振りながら、貰った肉串をかじって笑った。
「でも健二らしい祝福だよ! お肉も安くなるなら最高じゃん!」
健二は胸を張り、拳を握った。
(……そうか。俺の祝福は“交渉”。加護はなくても、これなら商人として戦える!)
だが、ふと現実が頭をよぎる。
(……とはいえ、やっぱり“加護”はもらえなかったんだよな)
「……無加護者、ね。俺、異世界に来ても“選ばれない側”かよ……」
ライルは横で大きく伸びをして、わざと軽い調子で言った。
「ははっ、神様に選ばれないってのも逆に面白ぇじゃねぇか。
“保証なし”ってことは、裏を返せば“自由”ってことだろ? 商人としてはむしろ武器になるかもな」
ミナは健二の腕にしがみつき、尻尾をぶんぶん振った。
「お肉分けてくれるし、ビール欲しがるし、加護がなくても健二は健二!」
「……ライル、ミナ……」
健二は思わず顔を上げた。
二人の笑顔に、胸の奥の重苦しさが少しだけ和らぐ。
だが同時に、心の奥底で小さな炎がくすぶっていた。
(……そうだ。加護がなくても、俺にしかできないことがあるはずだ。
“無加護者”だからこそ掴める道を、俺が証明してやる)
──この瞬間、健二は「無加護者=自由人」という特異な立場を背負うことになる。
後にそれが、勇者たちすら縛る“神の加護”を超える切り札になるとも知らずに。
石畳を踏みしめる足取りは、先ほどよりも少しだけ力強かった。




