第6話 青白き検査室と赤い署名
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北棟の廊下は、同じ石造りでも本館とは空気が違っていた。
壁に沿って並ぶ燭台は少なく、光は乏しい。
代わりに、天井から吊るされた水晶灯が青白い光を放ち、床に長い影を落としている。
その光は温もりを欠き、まるで冷たい刃で空間を切り裂いているかのようだった。
扉を押し開けた瞬間、鼻を刺す薬品の匂いが押し寄せる。
乾いた薬草、鉄の錆、そして魔力を帯びた液体特有の、舌の奥にざらつきを残す匂い。
思わず息を止めた俺の横で、ミナが鼻をひくひくさせて顔をしかめる。
「……肉の匂いじゃないな」
「当たり前だ。ここは研究室だぞ」
ライルが肩をすくめるが、その声もどこか硬い。
部屋の中央には黒光りする石の作業台が据えられ、その上には大小の器具が整然と並んでいた。
ガラス管、金属の鉗子、魔法陣を刻んだ円盤。
どれも用途は分からないが、触れれば冷たく、そして危ういものだと直感できる。
壁一面の棚には瓶や壺がぎっしりと詰め込まれている。
中には淡く光を放つ液体や、乾燥した獣の骨片、見たこともない色の粉末が収められていた。
瓶の中で揺れる光が、まるでこちらを監視しているかのように瞬く。
「……ここで、本当に真実が分かるのか」
俺の声は自分でも驚くほど小さかった。
そのとき、奥の扉が軋み、白衣に似た外套をまとった女性が姿を現した。
年の頃は三十代半ばか。
髪は無造作に後ろで束ねられているが、ところどころ薬品で色が抜け、白や赤茶の筋が混じっている。
瞳は琥珀色で、光を受けるたびにぎらりと反射し、まるで獲物を観察する猛禽のようだった。
「ふふ……干し肉、ね。いいわね、久しぶりに“食べ物”が来たわ」
彼女は俺たちを見もせず、机の上の器具を指先でカチカチと鳴らしながら笑った。
その笑いは楽しげというより、危うい好奇心に満ちている。
「ちょ、ちょっと待て。食べ物って……検査するんだろ?」
俺が思わず口を挟むと、彼女はようやくこちらを振り返った。
「もちろん検査するわよ。食べるかどうかは、その後の話」
にやりと口角を上げ、唇の端に赤いインクの染みのような跡が見えた。
どうやらペンを噛む癖があるらしい。
ライルが小声で俺に囁く。
「……言ったろ、腕は確かだが性格は保証しないって。商人仲間の間じゃ有名なんだよ」
ミナは干し肉の包みをぎゅっと抱きしめ、 垂れた耳をぴくりと震わせながら一歩後ずさる。
「この人……肉を狙ってる……」
女性検査官はそんな反応を楽しむように、わざとらしく鼻をひくつかせた。
「魔力の匂いは、肉の脂に似てるのよ。だから私は好き。……さて、あなたたちの“証拠”とやら、どこまで耐えられるかしらね」
その声は甘やかでありながら、刃のように鋭かった。
中央の石台に二枚の皿がそっと滑り込む。
女性検査官は琥珀色の瞳を細め、唇の端を吊り上げる。
「こちらが“魔力反応あり”。そして、こちらは“ただの腐敗”。――さて、あなたたちに見分けられるかしら?」
挑発めいた声音。
冷徹さと愉快さが同居するその響きに、背筋がぞくりとした。
研究者としての好奇心が剥き出しで、味方か敵か判別できない不気味さが漂う。
その時、扉が乱暴に開かれ、冷たい風と共に数人の男たちが踏み込んできた。
厚手の黒い外套。
その胸元には銀糸で縫い込まれた十字の紋章が光っている。
俺が息を呑むより早く、ライルが低く吐き捨てた。
「……グランツ商会か」
その声音には、嫌悪と警戒が入り混じっていた。
「間違いねぇ。あの外套と紋章、どこにいても目立つからな。奴らは“力”で押し通すのが常套手段だ」
先頭の男は顎をしゃくり上げ、こちらを睨みつける。
「検査は我々の依頼が優先だ。小商人の持ち込みなど無効にしろ!」
石壁に反響する怒声。
俺は一瞬たじろいだが、ライルは目を細め、吐き捨てるように笑った。
「ほらな。見た目通り、やり口も変わっちゃいねぇ」
彼――グランツ商会の使者は、商人ギルド上層との繋がりをちらつかせた。
その名を出された瞬間、女性検査官の視線がわずかに揺らぐ。
研究者としての興味と、組織の圧力。
その狭間で一瞬だけ迷いが走ったのだ。
「……ほら見ろ、上層の名前を出されたら誰だって怯む。お前ら小商人なんざ一瞬で潰されるんだよ」
使者が勝ち誇ったように笑う。
だが俺は一歩前に出て、懐から束ねた受領書を机に叩きつけた。
「これが俺たちの“数字”だ! 交換実績も署名も揃ってる。無視すれば、商人ギルドの信用に傷がつくぞ!」
紙束が机に響き、空気が震える。
ライルがにやりと笑い、肩をすくめた。
「へっ、数字に勝てる権力なんざねぇんだよ。なぁ、健二?」
ミナも尻尾をぶんぶん振りながら前に出る。
「そうだ! 肉の匂いだってごまかせない! 私の鼻が証拠だ!」
「ふっ……小娘の鼻なんて……」
使者は呆れた態度をとるが、女性検査官の瞳が怪しく光った。
「……面白い。数字と証拠、そして嗅覚。どれが真実を示すか、見せてもらおうじゃない」
使者は言葉を詰まらせ、女性検査官の瞳が再び細められた。
その隙に、ミナが前に出る。
ミナは干し肉の包みをぎゅっと抱きしめ、 垂れた耳をぴょこんと揺らしながら、鼻をひくひくとせわしなく動かした。
しっぽが落ち着きなく左右にぱたぱた揺れ、 二つの皿を交互にくんくん嗅ぎ分ける。
「……ちがうの」
小さな声と同時に、しっぽの動きがぴたりと止まり、 検査室の空気が一瞬で張りつめた。
「こっちはただ腐ってるだけ。こっちは……魔力の匂いがする」
女性検査官の判定とは逆。
場の空気が一変した。
グランツ商会の使者が机を叩き、怒鳴る。
「小娘の鼻など信用できるか!」
だが、その瞬間。
女性検査官の頬がじわりと紅に染まり、琥珀の瞳がぎらついた。
「……面白い」
その声は甘やかに響くのに、底には研究者特有の狂気が潜んでいる。
彼女はゆっくりと歩み寄り、ミナの目の前で立ち止まった。
至近距離で覗き込むその仕草は、獲物を観察する猛禽のようであり、同時に新しい玩具を見つけた子どものようでもあった。
「あなたの鼻……実験に使えるわね」
口元に浮かんだ笑みは愉快そうで、しかし刃のように鋭い。
好奇心と狂気と不気味さがないまぜになったその表情に、背筋がぞくりと震えた。
ミナのしっぽが勢いよく振られた、俺とライルは即座に庇う。
だが女性検査官の興味は消えず、むしろ愉快そうに笑みを深めた。
「数字も証拠も大事。でも――この子の鼻は、それ以上に価値があるかもしれない」
張り詰めた空気の中、検査は続行される。
グランツ商会の使者は、吐き捨てるように「次は潰す」と言い残し、外套を翻して退いた。
だがそれは敗北ではない。
――女性検査官の前で強引に動けば逆効果、だからこそ一歩引いたのだ。
次に仕掛ける時は、もっと大きく、もっと確実に。
その背中から漂うのは、ただの脅し屋ではなく、狡猾に計算を巡らせる獣の気配だった。
俺は思わず喉を鳴らす。
……奴らはまだ本気を出していない。
女性検査官は何事もなかったかのように器具を並べ直し、さらりと口にした。
「勇者パーティーの供給品からも、同じ反応が出たのよ」
――小さな商談トラブルが、国家規模の陰謀へと繋がる。
その予感が、冷たい検査室の空気をさらに重くした。
検査室の青白い光が、夜の赤に変わる頃。
夜は深く、森の端に張った野営地は焚き火の赤にだけ照らされていた。
薪が弾けるたびに火の粉が舞い上がり、暗闇の中で一瞬だけ星のように瞬いては消える。
火の明かりは仲間たちの顔を照らし、影を長く伸ばして揺らしていた。
俺は膝の上に革の折り帳を置き、台紙を開いた。
赤い印は一つだけ。
隣の空欄は広く、白く、まるで俺を責めるように沈黙している。
指先で印をなぞると、紙の繊維がざらりと返り、朱肉の乾いた粉がわずかに指に移った。
それはただの記録にすぎないはずなのに、掌にずしりとした重みを残す。
「……まだ一つか」
思わず漏らした声は、焚き火の音にかき消されそうに小さかった。
ライルは火の向こうで腕を組み、黙って俺を見ていた。
彼の顔は炎に照らされ、笑い皺の奥に深い影を落としている。
能天気に見せかける癖はここでは消え、代わりに焦燥と疲労が刻まれていた。
ミナは干し肉の包みを抱え、火のそばで丸くなっている。
眠っているようで、耳は時折ぴくりと動き、浅い呼吸が胸を上下させていた。
夢の中でも不安を嗅ぎ取っているのだろう。
俺は視線を台紙から銀貨の袋へ移した。
ポーチを揺らすと、カチャリと冷たい音が鳴る。
数を数えるたびに、縁の鋭さと王の横顔の凹凸が指先に現実を突きつける。
簡易テーブルの上に並べた列は短く、火の光に照らされてなお心許ない。
「数字は無表情だ。けど、並べれば橋になる。渡るための、一本目の板だ。……だから、まだ止まれない」
焚き火の炎が揺れ、台紙の赤印がちらついた。
それは小さな灯火のようであり、同時に重荷の象徴でもあった。
俺は深く息を吸い、仲間たちに向き直った。
「明日はさらに村を回る。回収率を上げて、精密検査のための銀貨を稼ぐ。数字を作るんだ。それが俺たちの唯一の武器だ」
ライルはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑い、肩を叩いた。
「お前らしいな、健二。数字だけじゃねぇ、顔で売るんだろ」
ミナは眠たげに目を開け、か細い声で呟いた。
「……肉の匂い、変だった。でも……あれでよかったのかな」
俺は答えをすぐには出せなかった。
ただ、台紙に視線を戻し、赤い印が一つでも増えるようにと祈るように、選んだ道を噛み締めた。
焚き火の音が夜に溶け、冷たい風が頬を撫でる。
外圧は消えていない。
差押えの通知も、未払いの圧力も、まだそこにある。
だが俺には確かな手応えがあった。
数字は冷たくもあるが、積み上げる者には道を開く。
――明日は必ず、もう一歩進める。
夜明け前、空はまだ群青色に沈み、東の端だけがわずかに白んでいた。
焚き火の残り火は灰の中で赤く脈打ち、煙が細く立ちのぼっては冷たい風に散っていく。
俺たちは荷車の車輪に油を差し、板の埃を払い、積み荷を縛り直した。
木材の軋む音が、まだ眠る森に小さく響く。
「よし……出るぞ」
俺が声をかけると、ライルは大きく伸びをして肩を鳴らし、ミナはまだ眠そうな目をこすりながら干し肉の包みを抱え直した。
石畳の道は夜露で濡れ、車輪が通るたびに水滴が弾ける。
遠くで鶏の鳴き声が響き、村の一日が始まろうとしていた。
俺たちの影は長く伸び、朝靄の中で揺れていた。
やがて新しい村の入り口に辿り着く。
木の柵は古びて苔むし、門柱には昨夜の雨がまだ滴っていた。
中からは人々のざわめきが聞こえ、既に市場の準備が始まっている。
「……顔つきが違うな」
ライルが低く呟いた。
確かに、村人たちの視線は鋭く、こちらを値踏みするように突き刺さる。
噂は既に届いているのだ。
俺は深呼吸し、革の鞄から受領書と交換用の食料を取り出した。
「まずは回収だ。誠実に、証拠を残す」
最初に声をかけたのは、井戸端で水を汲んでいた若い母親だった。
彼女は桶を抱えたまま、俺たちの荷車を見て眉をひそめる。
「……その干し肉、うちにもある。子どもが食べたけど、まだ何も出てない。でも……怖い」
「回収させてください。代わりに野菜と薪をお渡しします。受領書に印をいただければ、必ず補償につなげます」
俺は頭を下げ、紙と朱肉を差し出した。
母親はしばらく黙って俺を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……信じていいんだね」
「信じてもらうために、こうして回っています」
俺は静かに答え、受領書に彼女の印が押されるのを見届けた。
その瞬間、ミナが小さく息を吐いた。
「……よかった」
だが、周囲の視線はまだ厳しい。
市場の方からは囁き声が広がり、俺たちの動きを注視している。
ライルは肩をすくめ、低く笑った。
「さぁ、ここからが本番だな。数字を積み上げる仕事だ」
俺は台紙を開き、赤印の隣に新しい署名を重ねた。
冷たい朝の空気の中で、その小さな一歩が確かに未来へと繋がっていくのを感じた。
昼近く、村の市場は既に人で溢れていた。
石畳の広場には木の台が並び、野菜や果物、布地や道具が所狭しと積まれている。
だが、いつもの活気とは違っていた。
人々の視線は商品ではなく、俺たちの荷車に注がれていた。
囁き声が波のように広がり、空気はざわつき、湿った布のように重くまとわりつく。
ざわめきは波のように重なった。
「子どもが熱を出したって」「魔力が混じってるらしい」――短い言葉が重く、輪を狭めていく。
声は小さいが、確実に俺たちを取り囲んでいた。
俺は深呼吸し、荷車の前に立った。
「皆さん、まず聞いてください。私たちは在庫を回収し、検査を進めています。原因を明らかにし、補償を行うためです。どうか、干し肉を返していただけませんか」
群衆の中から一人の男が前に出た。
腕は太く、日焼けした顔には皺が刻まれている。農夫だろう。
彼は干し肉の束を掲げ、怒りを込めて言った。
「補償だと? 子どもが苦しんでるのに、紙切れ一枚で済むと思ってるのか!」
ライルが一歩前に出て、声を荒げた。
「落ち着け! おいらたちだって好きでこんなことになったわけじゃねぇ! まずは回収して、原因を突き止めるのが先だろ!」
「口先だけだ!」
農夫の怒声に、周囲の人々がざわめきを強める。
ミナは干し肉の包みを抱きしめ、不安げに俺を見上げた。
俺は両手を広げ、声を張った。
「紙切れではありません。これは受領書です。誰が、どの家から、どれだけ回収したかを記録します。これが証拠となり、後で必ず補償につながります。数字と記録がなければ、商人ギルドも動きません。だからこそ、今はこの紙が命綱なんです!」
沈黙が落ちた。
農夫は俺を睨みつけ、しばらく動かなかった。
やがて、彼は干し肉を乱暴に差し出した。
「……信じるぞ。だが、裏切ったらただじゃおかねぇ」
「必ず結果を出します」
俺は深く頭を下げ、受領書に印を押してもらった。
その時、群衆の奥から一人の青年が飛び出した。
背は高く、肩幅は広い。
鍬を肩に担ぐ姿は、まるで火薬樽に火花が落ちる寸前のような危うさを孕んでいた。
若さと血気がそのまま怒りに変わり、全身から熱が噴き出している。
「弟が倒れてるんだ!」
半歩踏み出しただけで、群衆の輪がきゅっと狭まり、空気が爆ぜそうに張り詰める。
俺は慌てて両手を広げ、声を張った。
「殴っても熱は下がらない! 今は証拠を積むしかない!」
青年は歯を食いしばり、鍬を握る手を震わせる。
その姿は、誰かが少しでも煽れば爆発する火薬庫そのものだった。
やがて、彼はゆっくりと力を緩め、低く唸るように言った。
「……信じるぞ。だが、裏切ったら……燃え尽きるまで暴れるからな」
その緊張を切り裂くように、群衆の中から老婆が進み出た。
背は曲がり、杖をつきながらも声は澄んでいた。
「この者たちの言葉を聞こう。わしは昨日、肉を食べたが、まだ何ともない。だが、もし危ういのなら、回収してもらった方がいい。証文もあるのだろう?」
老婆の言葉に、群衆のざわめきが静まった。
人々は互いに顔を見合わせ、やがて数人が干し肉を差し出し始める。
「……頼む。これも持っていってくれ」
「補償があるなら、渡した方がいい」
白い欄が細い線で満たされていく。
赤印はまだ一つだけだが、その隣に積み上がる署名の列は、確かに「信頼の芽」を示していた。
その瞬間、群衆の空気がわずかに変わった。
完全な信頼ではない。
だが、怒りの熱が少しだけ冷め、疑念の中に「様子を見よう」という気配が混じった。
ライルが小声で笑った。
「……お前の口上、まるで役人だな」
「数字でしか動かない相手には、数字で返すしかない」
俺は台紙に新しい署名を記し、赤印の隣に並べた。
だが、群衆の奥にはまだ鋭い視線が残っていた。
「……あいつら、本当に信用できるのか」
「魔力が混じってるって噂もあるぞ」
不信感は消えていない。
むしろ、次の一歩を誤れば一気に炎上する危うさが漂っていた。
俺は台紙を閉じ、深く息を吐いた。
――ここからが本当の交渉だ。
群衆の緊張が少しだけ緩む。
だが、空気はまだ重い。
小さな暴発は防いだが、火種は消えていない。
俺は受領書に印を押し、深く頭を下げた。
「必ず結果を出す。それが俺たちの責任だ」
ライルは小声で吐き捨てる。
「……危なかったな」
ミナはまだ俺の袖を握ったまま、小さく頷いた。
市場のざわめきは再び動き出したが、その奥底には、いつ爆ぜてもおかしくない火薬の匂いが残っていた。
市場の空気はまだ重く、群衆の視線は鋭かった。
怒声を上げた農夫たちが拳を下ろしたことで暴発は避けられたが、火種は消えていない。
ざわめきは波のように広がり、誰かが再び声を荒げれば、すぐに炎となって燃え上がるだろう。
「……結局、おいらたちは疑われたままか」
ライルが低く吐き捨てる。
額には汗が滲み、拳はまだ震えていた。
ミナは干し肉の包みを抱きしめ、不安げに俺を見上げる。
「健二……もう無理なんじゃない?」
俺は深呼吸し、台紙を開いた。
赤い印は一つだけ。
だが、その隣に並び始めた受領書の署名が、確かに増えている。
数字は冷たい。
だが、積み上げれば形になる。
その時、群衆の後ろから小さな声が響いた。
「……お願いします」
振り返ると、先ほど署名した若い母親が子どもを抱いて立っていた。
子どもの顔はまだ青白く、細い指で母親の服をぎゅっと掴んでいる。
母親の頬には涙の跡が残り、それでも彼女は震える声を必死に張り上げた。
「この人たちは本当に回ってる! 証文もくれた! 信じなきゃ、何も変わらない!」
その叫びは、怒号やざわめきよりもずっと強く、広場の空気を貫いた。
一瞬、全員の息が止まったかのように静まり返る。
誰もが母親の抱く子どもの顔を見て、言葉を失った。
その沈黙を破ったのは、群衆の中の男の低い声だった。
「……じゃあ、うちの分も頼む」
干し肉の束が差し出される。
その手は迷いながらも、確かに前へと伸びていた。
それを皮切りに、別の声が続く。
「俺もだ」
「うちの分も持っていけ!」
次々と手が伸び、干し肉が差し出されていく。
受領書に名前が重なり、白い欄が黒い線で埋まっていく。
震える筆跡もあれば、力強く押し込むような署名もある。
それぞれの線が、家族を守りたいという切実な思いを刻んでいた。
冷たいはずの数字が、今は熱を帯びて脈打っている。
ざわめきは怒りの波ではなく、信頼の連鎖となって広がっていった。
風向きが変わったのだ。
それは、確かに芽吹いた“信頼”が形を成し始めた瞬間だった。
新しい署名が重なるたび、白い欄が細い線で満たされていく。
赤い印はひとつのままでも、列を成した名前が「信頼」を形に変え始めていた。
ライルが驚いたように笑う。
「……おい、健二。流れが変わってきたぞ」
ミナも目を輝かせ、しっぽを揺らした。
「ほんとだ……! みんな、少しずつ信じてくれてる!」
俺は深く頷き、胸の奥に小さな確信を抱いた。
「これが……数字の力だ。冷たいようでいて、積み上げれば人を動かす。俺たちはまだ終わっていない」
焚き火の赤印のように、台紙の署名が淡く光って見えた。最初の明るい灯火だった。
数日後、俺たちは再び商人ギルドの石造りの建物に立っていた。
分厚い壁は昼下がりの陽光を拒み、内部はひんやりとした空気に包まれている。
高い天井から吊るされた燭台の炎が、わずかに揺れては石床に長い影を落としていた。
受付の机に座る女性職員が、封蝋で閉じられた厚手の封筒を慎重に取り上げる。
彼女は一呼吸置いてから銀の小刀を滑らせ、封を切った。
紙の擦れる音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。
その仕草は儀式のように厳かで、俺の喉は自然と鳴った。
取り出されたのは精密検査の報告書。
厚手の羊皮紙に整った筆致で記された文字は、冷たくも揺るぎない事実を突きつけてくる。
「主因は保存環境による腐敗。魔力反応は外部からの付着であり、製造過程に起因せず」
報告書の末尾には、あの検査官――カリナ・アーベルの署名。
琥珀色のインクが、小さく鋭く、確かに刻まれていた。
その筆跡を目にした瞬間、耳の奥で脈打つ鼓動がようやく静まり、胸の奥に張り詰めていた糸が切れたように息が漏れる。
――俺たちの潔白は証明された。
窓口の女性職員は報告書を読み上げ、灰色の瞳をこちらに向けた。
「検査結果を確認しました。差押えは解除、仮登録は有効とします。ただし、再発防止策の提出を条件とします。さらに、精密検査に要した追加費用は後日徴収されます。未払い分については即時清算が必要です」
二度目の返答が「条件付きの猶予」だったのに対し、今回は「潔白の証明を認めるが、費用と再発防止策を課す」という形で、冷徹な数字の論理が突きつけられた。
商人ギルドの広間にざわめきが走る。
ライルは拳を握りしめ、声を上げた。
「やった……! これで潰されずに済む!」
ミナは干し肉の包みを抱きしめ、涙ぐみながら笑った。
「よかった……! みんな、信じてくれるよね」
俺は深くうなずき、台紙を開いた。
赤い印はまだ一つだけ。
だが、その隣には受領書の署名が幾つも並んでいる。
それは数字であり、同時に人々の信頼の証でもあった。
「俺たちはまだ始まったばかりだ」
俺は仲間に向かって言った。
「数字を積み上げ、信頼を築く。それが営業の道だ。今日の結果は、その第一歩にすぎない」
ライルは大きく笑い、肩を叩いてきた。
「お前の言う“顔で売る”ってやつ、少しはわかってきた気がするぜ」
ミナはしっぽを揺らしながら、真剣な目で俺を見た。
「次は、もっとたくさんの赤印を増やそうね」
俺は台紙を閉じ、革の鞄にしまった。
重みは変わらない。
だが、その重みはもう恐怖ではなく、未来へ進むための確かな手応えだった。
石畳の外には、朝の光が差し込んでいた。
差押えの影は消え、俺たちの前には新しい道が広がっている。
営業は続く。
数字と信頼を積み上げる限り、俺たちは歩みを止めない。




