第4話 冷たい数字、赤い印
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朝靄はまだ地面に残り、石畳の目地に小さな水玉を並べていた。
夜の冷気を吸い込んだ石はしっとりと湿り、靴底が触れるたびにじわりと水気を返す。
倉庫の前に置かれた荷車は、夜露を吸った木材が重さを増したように沈み込み、まるで昨夜よりも一層ずっしりとした影を落としていた。
荷台の木製の板には、薄く積もった埃が朝の光を鈍く反射し、ところどころに乾いた血のような茶色の筋が走っている。
誰かが無造作に積み下ろした痕跡か、それとも長い年月の汚れか。
鉄輪は露に濡れて鈍い銀色を帯び、軋むたびに低い呻き声を上げる。
その音は、荷車全体が自らの重みに耐えかねて悲鳴を上げているように聞こえた。
隙間から覗く木箱の端には札がぶら下がり、風に揺れてカラカラと乾いた音を立てる。
その音は小さいのに、静まり返った朝の空気の中ではやけに耳に残る。
俺は革の折り帳を取り出し、台紙を開いた。
視線は自然と赤い印のある箇所に吸い寄せられる。
小さな紋章は、印面の凹凸まで判別できるほど鮮明で、紙の繊維に赤いインクが深く染み込んでいた。
隣の空欄が広く白く残っているせいで、その一つだけの印が逆に重く見える。
手のひらに載せれば、紙切れ一枚のはずなのに、ずっしりとした「進捗」の重みが掌を押し返してくる。
腰のポーチを揺らすと、銀貨がカチャリと鳴った。
冷たい金属の感触が指先に伝わり、数を数えるたびに縁の鋭さと、面に刻まれた王の横顔の凹凸が現実を突きつけてくる。
机の上に並べた銀貨の列は、あまりに短かった。
数を数えるたびに心許なさが募る。
これではその日暮らしの金額だった。
ましてや日々の運転資金として賄えない。食事など到底足りない。
「……これじゃ、運転資金どころか、飯代にもならないな……」
思わず漏らした声は、倉庫の壁に吸い込まれていった。
ライルは唇の端を上げ、外では能天気に笑ってみせる。
だが笑い目の奥には深い皺が刻まれ、瞳の焦点はしばしば遠くの道路に泳いでいる。
期待と焦りが混ざった微かな震えが指先に現れ、空気を読む習慣がその顔つきに刻み込まれていた。
「一個でも押されたなら上等だろ。ゼロよりはマシだ」
軽口を叩く声は、どこか乾いていた。
ミナは荷布にくるまった干し肉を抱き、毛皮の胸に押し付けるように眠っている。
だが耳はぴくりと動き、呼吸は浅い。
夢の中でも匂いを探しているのだろう。
短く尖った爪先が布を掻く音が、静かな朝の中で小さく響いた。
俺は革の営業カバンを膝に引き寄せ、名刺入れの金属の重みを確かめる。
名刺は端が擦れて少し光り、裏面には小さく手書きした連絡先が残っている。
保証書は数行分の文章が詰め込まれ、インクのにじみが書いたときの焦りと真剣さを物語っていた。
指で角を押さえると、紙の繊維が微かにざらつき、呼吸をするように温度が変わる。
掌の中で名刺と保証書と銀貨の感触が混ざり合い、それぞれが現実の重さを示していた。
目を上げると、倉庫の影が長く伸び、街路灯の下に朝露の光が散っている。
遠くからは商人の声と馬の嘶きが重なり、今日という一日がまた始まろうとしていた。
その瞬間、胸の奥で小さな不安が固まり、同時に淡い確信が芽生える。
――これらの紙と金属を、どうにかして数字に変えなければならない。
最初の一報は、井戸端の囁きのように軽かった。
午前の市場で誰かが「昨夜の夕飯の後で腹を壊したみたいだ」と呟き、それが端から端へと伝わっただけの話。
だが二件、三件と重なるにつれて、言葉の温度は変わっていった。
市場のざわめきは次第にざらつきを帯び、笑い声の裏に不安が混じる。
町役場の扉がきしみ、役人の足取りは早まり、伝達係の顔色は曇っていく。
小さな村の空気が「ただの風評」から「対処が必要な事案」へと切り替わる瞬間だった。
やがて届いた文書は、厚手の紙に役場の簡素な封で留められていた。
封は手で裂かれた痕が残り、開封口の縁には指の跡と薄い土埃が付着している。
上部には村役場の章印が押されており、その朱印はわずかに滲んでいた。
本文は冷たく簡潔だった。
「干し肉を摂取した者に発疹と微熱の報告あり。詳報を求む」
その一文に、村の危機が凝縮されていた。
さらに端に走り書きのように添えられた鉛筆の一行――
「速やかな回収と説明を求む」
鉛筆の線は荒く、筆圧は強い。
紙の裏にまで跡が残り、書いた者の手が震えていたことを示していた。
句点はなく、命令のように尾を引く。
「……これは、もう噂じゃないな」
俺は紙を握りしめ、低く呟いた。
ライルが顔をしかめる。
「腹を壊した? そんなの偶然だろ。……だが、こうして書かれちまえば、もうおいらたちのせいにされる」
ミナは不安げに干し肉を抱きしめ、耳をぴくりと動かした。
「……肉、悪いの?」
俺は答えられず、ただ紙面を見つめた。
文書は朝一番に小走りの使者によって届けられた。
彼の呼吸は荒く、顔には寝不足の赤みが残っている。
通知を受け取った窓口の者は一瞥で紙面を読み、眉を引き締め、すぐに誰かに報告を投げた。
「回収を急げ」
「説明を用意せよ」
命令形の声が廊下に連鎖し、役場全体に緊張が走る。
伝達が終わる頃には、村の中心に小さな群がりができ、家々の戸が固く閉ざされ始めていた。
噂はもはやただの声ではなく、実行を要求する書面となって、俺たちの胸に冷たい重みを落とした。
商人ギルドに提出した在庫一覧は、太い紐で束ねられた紙の山だった。
ページをめくると、欄外には手書きの注記や、指でこすったような汚れが残っている。
急場で作られた書類だと一目でわかる。
いくつかの箱に対応する欄には、細かい鉛筆線で「干し肉×15」「壺(欠け)×12」と書かれており、その横に小さく丸がつけられていた。
丸の一つを覗き込むと、そこには薄く緑の色が乗っている。
俺は指先でその欄をなぞり、紙の繊維のざらつきとインクのかすれを感じた。
視線を上げると、倉庫で見た箱の端が記憶の中で蘇る――木の節目、白っぽい粉、表面にうっすら広がる緑の斑。
「……ただの変色に見えるが」
俺は呟き、眉を寄せた。
ライルが肩をすくめる。
「だが、こうして丸をつけられちまえば、ただの変色も“証拠”になる」
都市からの噂は速い。
広場でささやかれた一言が、宿屋の口外で話題になり、やがて商人の連絡網を伝って市中へ飛んでいく。噂の伝播は数字のように単純で、件数が増えるほどに信頼度が高まって見える。
最初の一件は「たまたま」、二件目が「兆候」、三件目が「傾向」になる。
客はその「傾向」を見て取引を躊躇い、注文を縮小し、仕入れ先からの支払い期日に遅れが生じる。
商人ギルドにとって致命的なのは、売上や回転率が予測より落ちたとき、帳簿上の「数字」が即座に信用に直結する点だ。
その数字は、今の俺たちに残された唯一の生命線だった。
赤い印が増えること、回収率が少しでも上がること、銀貨が一枚でも手元に戻ること――それらが並んで初めて「次の一歩」が許される。
逆に、噂が静まらず注文が絞られれば、台紙の空欄は増え、差押えや仮登録の取り消しという書面が俺たちを追い詰める。
目の前の紙片に記された緑の斑点は、ただの変色以上の「数」に変わりつつあった。
郵便屋が震える手で封筒を差し出した。
赤い封印紙で固く閉じられ、太い紐で幾重にも結ばれている。
紐の結び目には埃が溜まり、何度も結び直された痕跡があった。
蝋の封印には銀色の細片が混じり、光を受けて硬質に輝いているが、縁には小さなひび割れが走っている。
掌に受け取った瞬間、冷たさが皮膚を刺した。
「……嫌な重みだな」
俺は低く呟き、紐を解いた。
結び目が解ける音は小さかったが、倉庫の静けさの中ではやけに響いた。
厚手の紙を裂くと、ざらついた繊維が指に引っかかる。
開封口には配達人の指紋と、泥の斑点が残っていた。
中から現れた文書は、印字のように均一な字で書かれていた。
「未払い金の即時清算及び、在庫の一時差押え通知」
その文言は、まるで帳簿の赤字が紙面にそのまま刻まれたかのようだった。
句点ごとに、胸の奥に重石が落ちる。
数字の冷徹さが、言葉の形を借りて俺たちを押し潰してくる。
続く一文は短く、容赦がなかった。
「仮登録は保留」
最後の一行『最終的判断は検査結果に依存する』は冷徹な合理性を装っていた。
だがその裏に透けて見えるのは――『帳簿の数字が黒に戻らぬ限り、味方はいない』という現実だった。
「……差押え、か」
俺は紙を握りしめ、声を絞り出した。
ライルの肩が小さく震え、顔が赤くなる。
「ふざけやがって! 未払いなんざ、ちょっとした巡り合わせだろ! だが帳簿はそうは見てくれねぇ……ここで潰されるわけにはいかねぇ!」
彼は布袋を探り、銀貨を数枚取り出して机に叩きつけた。
カラン、と乾いた音が倉庫に響く。
「出せる銀貨は全部持っていかれるぞ! 今日の稼ぎも泥に流れる!」
ミナは目を覚まし、干し肉を抱きしめたまま不安げに言った。
「……じゃあ、肉を配ればいいんじゃない? みんなに食べてもらえば安心するよ」
「駄目だ」
俺は即座に首を振った。
「もし本当に原因が肉なら、被害が広がるだけだ」
倉庫の空気は一瞬で冷え込み、木の匂いが濃くなった。
差押え、登録停止――どの言葉も、これからの行動を強制する命令のように胸に落ちていく。
ギルドの広間は、朝からざわめきに満ちていた。
窓口の女性職員は、いつも通り冷たい表情で座っている。
口元は直線で硬く結ばれ、瞳は灰色に淡く光り、客の訴えを量る秤のように無表情に上下を往復していた。
彼女の手元でペン先が紙を滑る音だけが、広間のざわめきの中で妙に鮮明に響く。
一方で、窓口の奥では別の空気が渦巻いていた。
上層の職員たちは背筋を伸ばし、革の書類入れを抱え、低い声で囁き合う。
視線は交差し、短い言葉が耳元で素早く飛び交う。
言葉は業務用語と数字でできており、感情は薄いが緊張は濃い。
その中心に、大商会の代表がいた。
濃紺の外套を羽織り、金の細工が施された指輪をはめ、静かに立っている。
声は低く、言葉は慎重だが、圧は強い。
取り巻きが紙片を渡し、囁きが上層へと伝播する。
その一つ一つが、ギルド全体の方針を押し固める波紋となって広がっていく。
「……おいらたちみたいな小商人は、切り捨てられるってわけか」
ライルが低く吐き捨てる。
俺は窓口の女性に書類を差し出した。
「検査の申請です。差押えの留保をお願いしたい」
彼女は無表情のまま受け取り、淡々とメモをとる。
「上層に回します」
長い沈黙の後、返ってきた答えは冷たかった。
「仮登録は保留継続。差押えは申請により一時留保。ただし、追加検査費用は申請により保留されるが、承認された金額は後日徴収。未払い分は先に清算せよ」
ライルが拳を握りしめる。
「結局、金かよ……!」
その時、窓口の女性が一枚の小さなメモを俺に差し出した。
そこには走り書きでこう記されていた。
『追加検査の費用、半分はこちらで立て替える。だが必ず結果を出せ』
彼女の表情は冷淡なままだったが、その奥に一瞬だけ柔らかさが宿っていた。
言葉はなかった。
だがそれだけで、俺は救われた気持ちになった。




