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『伝説の剣も魔法もなし! 営業カバン片手に異世界営業、仲間は胡散臭い商人と肉食獣人少女!』  作者: じろう


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第20話 商人の休息

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『帳簿記録:朝食代(三人分)、チップ込み。支出:銀貨1枚。……平和な朝の価格としては、悪くない』


ノワルマルシュの朝は早い。

だが、今日の目覚めは、この世界に来てから一番心地よいものだった。

追っ手の足音に怯えることも、憲兵のサイレンに飛び起きることもない。

俺たちが泊まっているのは、商人ギルドから少し離れた路地裏にある安宿〈麦束亭むぎたばてい〉。

煤けた壁と軋む扉が目印の古びた二階建てだが、中は意外に清潔だ。

女将の几帳面さが、黒ずんだ床の隅々にまで行き届いている。

一階の食堂に降りると、煮込み豆と焼きパン、香ばしいベーコンの匂いが満ちていた。

――この甘い脂の香りに、昨日の議事堂で嗅いだ「鉄の匂い」を思い出す。

その鉄の匂いを思い出すだけで、昨夜の議会の熱が胸の奥でまだ燻っている。

セルドの証言、ジョゼアの剣、ミナの嗅覚――あの逆転劇は、確かに制度の壁を穿ったのだ。

「あ、健二! ここだよ!」

奥のテーブルで、ミナが大きく手を振る。

尻尾は、ちぎれんばかりに左右に揺れていた。

「おはよう、健二。昨日はよく眠れたか?」

向かいにはライル。いつもの胡散臭い笑顔ではなく、憑き物が落ちたようにスッキリしている。

「ああ、泥のように眠ったよ。……こんなに静かな朝は久しぶりだ」

俺は二人の席に座り、運ばれてきたエール(俺はコーヒーだが)で乾杯をした。

「いやぁ、あの古狸の顔! 傑作だったな!」

ライルが厚切りベーコンを頬張りながら快哉を叫ぶ。

「議長の木槌が鳴った瞬間、寿命が十年縮んで、そのあと二十年延びた気分だったぜ」

「うんうん! あのおじいさんがヘナヘナ〜って座り込んだ時、ちょっと可哀想だったけど……でも、ザマミロ!って思った!」

ミナが鼻にクリームをつけながら笑う。

皿には山のようなパンと串焼き肉が積み上がっている。

「おいおい、ミナ。朝からそんなに食うのか?」

「だって、お腹空いたんだもん! 昨日はずっと走ってたし!」

俺は苦笑して財布を取り出す。

中にはこの世界の通貨――銅貨=小銭、銀貨=宿数日、金貨=庶民の半年分の大金。

「おばちゃん! お代、ここに置いとくよ!」

俺は銀貨1枚をテーブルに置いた。

昨夜の三人分の宿代と、この豪華な朝食代を合わせても、お釣りが来る額だ。

「釣りはいらないよ。世話になったよ」(……銀貨1枚で、命の洗濯ができるなら安いもんだ)

以前の俺なら「経費で落ちるかな」と気に病んでいただろう。

今は違う。

稼ぐ意味、使う意味が、少しだけ分かってきた気がする。

「まいどあり! 英雄さんたちにはサービスしとくよ!」

女将がウインクと共に、果物を差し入れてくれた。

「へへっ、英雄か。悪くねぇ響きだ」

ライルが満更でもなさそうに鼻の下をこする。

「ごちそうさん」

俺は早々にカトラリーを置いた。

悲しいかな、日本の営業マン時代に染み付いた「早飯」の癖が抜けない。

昼休憩十分で牛丼をかきこんでいた習性は、異世界に来ても健在だった。

対して、ライルは意外にも優雅にナイフを使い、ミナはリスのように頬を膨らませて幸せそうに咀嚼している。

「……悪い、コーヒーおかわり」

俺は手持ち無沙汰を紛らわせるように、カップを傾けた。

そのとき、ミナがふと顔を近づけてきた。

「ねえねえ、今スタンプいくつになったの?」

子供みたいに目を輝かせる。

俺はどや顔で肩掛けの営業カバンを肩から滑らせ、留め具を外して台紙を取り出した。

表面は旅の汚れで少し擦れているが、スタンプの列は誇らしげに並んでいる。

「みんな、見てくれ!」

俺は声を張って台紙を差し出した。

台紙の半分が金色と赤色の印で埋まっている。

昨日の案件の成功で、イレーネ・グレイア――商人ギルドきっての切れ者――が金色の印を押してくれたのだ。

「すごーい!」

ミナは素直に目を丸くした。

ライルは台紙をちらりと見て、少し小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「へえ、半分か。まだまだひよっこだな」

ライルの声にはからかいが混じっているが、どこか楽しげでもある。

会話は軽やかで、日常の温度が戻ってきた。

――この瞬間が、俺には何よりの報酬だった。

そんな俺たちの様子を見ていた女将さんが、空いた皿を下げながら声をかけてきた。

「ところで、今朝はスープが少し薄かっただろ? ごめんよ。市場から『岩塩』が消えちまってね。手持ちの塩を節約して使ってるんだ」

女将さんはエプロンで手を拭いながら溜息をつく。

「樽も手に入らないから、隣町からワインを仕入れることもできなくなった。……戦争が起きたわけでもないのに、どうしてこうなっちまったんだろうねぇ」

ミナがスープ皿を見つめ、呟いた。

「……美味しいけど、寂しい味がする」

俺はスプーンを握りしめた。

これが、グランツ商会のやり方か。

「……浮かれるのはそこまでにしとけ。これを見ろ」

ドスン、とテーブルに重い空気が落ちた。

現れたのは職人商人のドルゴ。

その表情は硬い。

懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに広げる。

「今朝、俺の工房のポストに入ってたもんだ」

そこには、タイプライターで打たれたような無機質な文字で、短くこう書かれていた。

『沈黙せよ。さもなくば、歯車は砕かれる』

「……脅迫状か」

俺の声が低くなる。

ライルの笑顔が一瞬で消えた。

「差出人は?」

「無しだ。だが、この紙のエッジの均一さ(断裁機の精度)、インクの乾き方(油分が多い工房用配合の匂い)……軍支給品由来の可能性が高い」

ドルゴが忌々しそうに吐き捨てる。

「議会じゃ負けたが、盤外戦術なら幾らでもやるってことらしい」

ミナが鼻をひくつかせ、垂れ耳がわずかに揺れて止まった。

「……鉄の匂いがする。昨日の議事堂よりも、もっと鋭くて、冷たい匂い」

「ああ。奴らは本気だ」

暴力による直接的な報復か? いや、それならもっと派手にやるはずだ。

これは警告だ。もっと陰湿な何かが始まる予兆――。

俺は脅迫状を睨みつけながら、ライルに問いかけた。

「なあ、ライル。昨日の議会での勝因、お前はどう分析する?」

ライルはエールを一口飲み、真面目な顔で首を横に振った。

「セルドの勇気やジョゼアの剣は『駒』だ。勝因は、お前がセルドと交わした『契約』にある」

「契約?」

「ああ。相手の人生ごと背負い込む、お前の『欲張り』な商売スタイルだ。金じゃなく『妹の未来』という、金じゃ買えない価値を提示した。だからこそ、セルドは裏切れなかった」

ライルは真顔で続ける。

「その『欲張り』な営業スタイル、忘れるなよ。次の相手には、それしか通じねぇからな」

ライルの分析は確実で本質を見抜いていた。

「それと、もう一つ妙なことがある」

ドルゴが腕を組む。

「市場の様子がおかしい。今朝から急に、『たる』と『保存塩』が手に入らなくなった」

「は? 樽と塩?」

ライルが首をかしげる。

「そんなもん、どこにでもあるだろ。安物の代表格じゃねぇか」

「それが無いんだよ。どこの問屋に行っても『在庫切れ』。入荷の目処も立たねぇと言う」

ドルゴの声色が深刻さを帯びる。

「職人仲間からの情報じゃ、どうやらグランツ商会の息がかかった業者が、片っ端から買い占めてるらしい」

俺の背筋に、冷たいものが走った。

樽が無ければ液体や穀物の輸送ができない。

塩が無ければ保存が利かず、長距離交易は崩れる。

「……兵糧攻めだ」

俺は呟いた。

「奴らは、商人ギルドの『物流』そのものを殺す気だ。暴力を使わず、真綿で首を絞めるように……」

昨夜の議会で見たグランツ商会の幹部たち。

古狸の横にいた“策士”の笑みが脳裏をよぎる。

言葉はなかったが、その目つきがすべてを物語っていた。

「ふざけやがって……! 商売道具を奪うなんざ、商人として一番やっちゃいけねぇことだ!」

ライルが拳でテーブルを叩く。

「健二、どうする? また議会に訴えるか?」

「いや、それは相手の思う壺だ」

俺は首を横に振った。

「『市場の在庫不足』なんて、違法性の立証が難しい。

議会で議論している間に、こっちが干上がっちまう」

冷めきったコーヒーを飲み干し、肩掛けの営業カバンを肩にかけ直す。

「土俵を変える。――奴らの庭で戦うのは今日で終わりだ」

「土俵を変える?」

「ああ。王都やノワルマルシュはグランツ商会の庭だ。ここで樽や塩が無いなら、ある場所から持ってくればいい。それに、奴らが相手にしない『小さな客』を相手に資金を稼ぐ」

俺は二人を見据えた。

「旅に出よう。地方の街道、宿場町、ミナの故郷……。支配が及ばない場所で、新しい商流を作るんだ」

「へっ、逃げるんじゃなくて、攻めるための旅ってわけか」

ライルがニヤリと笑い、細めた目に商売人特有の計算高い光が戻った。

「面白え。ここんとこ政治の話ばっかで肩が凝ってたところだ。久々に、泥臭い商売と行こうぜ!」

「ミナも行く! 健二と一緒なら、どこでも楽しい!」

ミナが立ち上がり、最後のパンを口に詰め込む。

ドルゴが呆れたように、しかし頼もしげに笑う。

「まったく、お前らって奴は……。分かった、こっち(ノワルマルシュ)の防衛は俺たち職人組合に任せとけ。樽がなけりゃ壺でも何でも作って耐え忍んでやる」

「頼みます、ドルゴさん」

俺たちは席を立ち、女将に手を振って店を出た。

麦束亭むぎたばてい〉の出口から差し込む朝日は、昨日までとは違う、新しい冒険の色をしていた。

路地裏の湿った空気を吸い込みながら歩き出すと、すぐ目と鼻の先にある商人ギルドの裏口が目に入った。

そこに、見覚えのある灰色の髪が揺れる。

イレーネだ。 彼女が馬車に乗り込もうとしている。

「イレーネさん!」

俺が声をかけると、彼女は動きを止め、振り返った。

そして、俺の腰にあるスタンプ台紙――金色のスタンプが輝くそれ――を指先で弾いた。

「いいこと、健二・サトウ。そのスタンプは『議会での勝利』への報酬ではありません。これからあなたが挑む『物流の回復』への前払い(デポジット)です」

イレーネは眼鏡の位置を直しながら、いつもの冷徹な声で告げる。

「セルドと妹の手続きは、私が責任を持って処理しました。ギルドの保護枠に入れたので、書類上、軍も手出しはできません」

そこで、彼女の表情が、一瞬だけ柔らかく崩れた。

「……現場の『泥臭い商売』だけが、凍りついた物流に血を通わせることができる。期待していますよ、異世界営業マン」

「任せてください。『必ず、完遂コミット』してみせます」

俺が営業用語で返すと、彼女は小さく頷き、馬車へと乗り込んでいった。

走り去る馬車の車輪の音が、背中を押してくれているように聞こえた。

「……あの眼鏡の人、インクの匂いがするけど、ちょっとだけ甘い匂いもした」

ミナが鼻をひくつかせ、ぽつりと呟く。

「……きっと、健二のこと応援してるんだね」

「へっ、ギルドの『鉄の女』に期待されるなんざ、お前も隅に置けねぇな」

その横でライルがニヤニヤしながら、俺の肩を軽く小突いた。

「ま、プレッシャーデポジットってやつか?」

「手厳しいな……」

俺は苦笑しながら、腰の台紙に目を落とした。

そこに押された金色のスタンプが、朝日に反射してキラリと光った。

それは、俺たちの進む道を照らす、小さな灯台のようだった。

「健二ー! 置いてくぞー!」

「お肉の匂いはあっちだよ!」

先を歩いていたライルとミナが、街道の入り口で手を振っている。

俺はカバンのベルトを握り締め、二人の元へと駆け出した。

営業カバンの中には、伝説の剣も魔法もない。

だが俺たちには「知恵」と「仲間」、そして銀貨一枚分の余裕がある。

これだけあれば、異世界営業ビジネスを始めるには十分だ。

「よし、行こう! 次の営業先は、街道の向こうだ!」

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