第19話 決戦!王都議会
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まだ夜の帳が下りている刻――。
首都ノワルマルシュの裏手、冒険者ギルドの厩舎に、慌ただしい蹄の音が響いた。
「――行くのか、ロシュ」
戦士ザルドが、秣桶の横で腕を組み、低い声で問うた。
勇者ロシュは、馬の腹帯を力強く締め上げながらうなずく。
「ああ。健二たちの『物流飽和攻撃』は確かに意表を突く策だ。だが……王都の正門、最後の関門だけは『数』では突破できない可能性がある」
ロシュは手綱を握り、夜明け前の暗い空を見上げた。
「憲兵隊が本気で封鎖すれば、商人の荷車ごときでは止められる。それを強引にこじ開けるには――絶対的な『権威』と『武力』が必要だ」
「それが、あの『雷光の猫』ってわけか」
ザルドがニヤリと笑う。
Aジョゼア・フェン・セルジーヌ。
彼女は現在、王都近郊の駐屯地で待機しているはずだ。
「説得できるか? あの猫は気難しいぞ」
その時、闇の中から巨躯の影――熊僧侶グラウが静かに歩み寄り、ロシュの馬の首を優しく撫でた。
「……心配は無用だろう。あの御仁の剣は、制度のためだけにあるのではない」
グラウは腰に下げた、修復されたばかりの祈祷鈴に触れながら、深く落ち着いた声で続ける。
「あの戦場で、彼女もまた『命の震え』を聞いた一人だ。今の彼女ならば、道理を通すための刃となることを厭わぬはず。……ロシュよ、お前の言葉なら必ず届く」
ロシュはグラウの言葉に力強く頷き、身軽に馬へと飛び乗った。
「ああ、グラウの言う通りだ。俺は先行してジョゼア殿と合流し、王都の正門を内側から確保する。……ザルド、グラウ。健二たちを頼む」
「おうよ。泥臭い護衛は俺たちの仕事だ」
ザルドが拳を鳴らすと、グラウも静かに祈りの印を結んだ。
「風の加護があらんことを。……行ってこい、リーダー」
「頼んだ!」
ヒヒィィンと一際大きくいななき、石畳を蹴った。
夜明け前の冷たい風を切り裂き、勇者は単騎、王都への道を全速力で駆け抜けていく。
その背中は、迷いなく真っ直ぐだった。
◇
地下水路を抜け、朝日が昇る頃には、俺たちは首都ノワルマルシュの北門前広場にいた。
職人組合の手引きでミナやレティアとも合流し、全員無事だ。
だが、安堵する暇などない。
王都への街道は軍部によって臨時検問が敷かれ、事実上の封鎖状態にあるという情報が入っていた。
「少人数でコソコソ行けば、裏をかいたつもりが網にかかるだけだ」
ライルが朝日を睨みながら言う。
「軍のマニュアルじゃ、裏道こそ徹底的に潰すのがセオリーだからな」
「じゃあ、どうやって王都へ入るの? 空を飛ぶ?」
ミナが首をかしげると、背後から豪快な声が響いた。
「飛ばねぇよ。堂々と正面から押し通るんだ」
現れたのは、職人商人のドルゴだ。
彼は荷台に積まれた麻袋を親指で指した。
広場を見渡せば、地平を埋め尽くさんばかりの荷車の海だ。
早朝の定期便である大型馬車に加え、個人商人の荷車、急遽仕立てた空荷の馬車、さらには道を塞ぐための家畜の群れまで――。
ざっと見ても数百台。
普段の市場の三倍はあろうかという「物流の軍勢」が、今か今かと出陣を待ってひしめき合っていた。
商人ギルドの議長とギルドマスターが仕掛けた策――『物流飽和攻撃』だ。
「木を隠すなら森の中、商人を隠すなら商売の列だ!」
ライルがニヤリと笑う。
「軍がいくら検問を強化しても、物流を完全に止めることはできねぇ。止まれば国が死ぬからな」
俺たちが乗り込んだのは、ドルゴが御者を務める「肥料運搬用の荷車」。
悪臭を放つ麻袋の下に、二重底のスペースが作られている。
ドルゴは笑いながら得意げに語った。
「臭いがキツイが我慢しな。軍のワンちゃんも鼻が曲がって寄ってこねぇ特等席だ」
「えっここに? あたしも? えぇぇぇっ! 無理だよ……鼻が腐る……」
ミナはあからさまに嫌がっていた。
その時、ドルゴが懐から一枚の金属プレートを取り出し、ライルに放り投げた。
「あと、これを持っときな。ギルドマスターからの餞別だ」
ライルが慌てて受け取り、その表面に刻まれた紋章を見て目を丸くした。
「げっ……マジかよ。『特級通行証』!? これ一枚ありゃ、王城の門だって顔パスで通れる代物だぞ……!」
「街道の検問は俺たちの数と悪臭で突破する。だが、王都に入った後――最後の最後、議会の扉をこじ開けるには権威が必要になるはずだ」
ドルゴはニカッと笑い、親指を立てた。
「マスターからの伝言だ。『使い所を間違えるなよ』とな」
「へっ、あのケチなマスターが随分と奮発したもんだ。……ありがたく使わせてもらうぜ」
ライルはこれさえあればとばかりに満面の笑みで、通行証を懐深くにしまい込んだ。
「『悪さに使うな!そして返せ!』とも言ってたぜぇ」
ドルゴはライルより悪そうな顔で見つめてニヤリと笑った。
「えっレンタルかよぉ……あのケチ親父」
ライルは一瞬で肩を落とした。
「よし、乗ったな!」
ドルゴが手綱を振り上げる。
「行くぞ! ノワルマルシュの物流の力、見せてやろうぜ!」
数百台の荷車が一斉に動き出す。
地響きのような車輪の音が、軍部の包囲網をこじ開けるファンファーレのように響いた。
◇
街道の検問所は、予想通りの混沌だった。
苛立つ兵士たちが一台ずつ荷を改め、怒号が飛び交っている。
「不審な三人組とカバンを探せ!」
「魔導反応を見逃すな!」
「おい、そこの荷車! 止まれ!」
ドルゴの荷車が止められる。
「荷改めだ! 積み荷を下ろせ!」
俺は二重底の中で息を潜め、カバンを強く抱きしめた。 (頼む、上手くいってくれ……!)
「へいへい、旦那。下ろすのは構わねぇが、こいつは発酵が進んでる高級肥料でしてね。刺激を与えると――」
ドルゴがわざとらしく留め具を外した瞬間。
ドサササッ!!
麻袋が崩れ、刺激された肥料が強烈なアンモニア臭を放つ。
同時に、乾燥スパイスの粉塵が一帯に散った。
臭いは層になって渦を巻く――発酵の甘さ、アンモニアの刃、乾いた香辛の粉が喉の奥でざらつく。
「うぐっ!? 目がっ……!」
「な、なんだこの臭いは――!?」
兵士たちが顔を覆い、咳き込みながら一斉に後退する。
「あーあ! 言わんこっちゃねぇ!」
ドルゴがわざとらしく叫ぶ。
同時に、後続の商人たちが一斉に警笛を鳴らし、待ってましたとばかりに騒ぎ始めた。
「おい! 何やってんだ!」
「臭いが商品に移ったらどうすんだ!」
「納期に遅れたら軍が賠償するのか!? 規約第4条を読め!」
「列を止めるな! こっちは時間の勝負なんだよ!」
現場は怒号と混乱の渦となった。
「ええい、もういい! さっさと通せ! 臭いものをここに置いておくな!」
指揮官が半泣きで指示を出し、ドルゴの荷車は検査なしで通過した。
俺たち三人は闇の中で息を合わせ、静かにガッツポーズをした。
「へっ、軍の現場なんてマニュアル通りにしか動けねぇ。想定外のトラブルには脆いもんだ」
ライルが得意げに囁く。
「フガフガッ」
ミナは厚手の布で鼻と口をグルグル巻きにしていて意味不明だった。
◇
夕暮れ前。
タイムリミットが迫る中、俺たちはついに王都クレールヴァルの正門前までたどり着いた。
だが――そこには最大の障壁が待っていた。
正門前には、重装備の憲兵隊がバリケードを築いていたのだ。
明らかに「特定の荷車」を狙い撃ちにする配置だ。
ドルゴの荷車が囲まれる。
「その荷車を没収する。重要参考人が乗っている疑いがある」
憲兵隊長が冷たく告げ、抜剣する。
その腰には、軍の支給品ではない、商会製の豪奢な剣が下がっていた。
ドルゴがハンマーに手を伸ばすが、多勢に無勢だ。
(ここまでか……!) 俺が覚悟を決めて飛び出そうとした、その時。
「そこを通しなさい!」
凛とした声が、王都の空気を切り裂いた。
門の内側から現れたのは、翻る赤の紋章旗。
魔導馬に跨り現れたのは、Aランク勇者ジョゼア。
その隣には、Bランク勇者ロシュ。
「じょ、ジョゼア様!? なぜここに……」
憲兵隊長が狼狽する。
ジョゼアは冷静に告げた。
「この荷車は『勇者議会』への重要証拠品を運んでいる。私の剣にかけて、通過を保証する」
ジョゼアが魔導馬から見下ろし、静かに、しかし圧倒的な威圧感で告げた。
ロシュも剣の柄に手をかけ、一歩前に出る。
「俺も同意見だ。……これ以上、命を守るための記録を邪魔するなら、ここを『戦場』と見なして強行突破する。勇者としてな」
「なっ……勇者が、軍に刃を向けると言うのか!?」
「刃を向けているのはそっちだ。記録を消すということは、未来の命を殺すということだからな」
勇者たちの気迫に、憲兵隊が怯んで道を開ける。
ロシュが先にジョゼアに会って説得をつけたことを、俺は後で知ることになる。
その隙を逃さず、俺たちは荷車を飛び降りた。
「行け、健二!ここは俺たちが食い止める! お前の武器で、決めてこい!」
ロシュが背中を叩く。
「はい!!」
俺は営業カバンのストラップを肩にかけ直し、ライル、ミナと共に王都の大通りを駆け出した。
指先に革の感触が戻るたび、日本での朝の通勤路が一瞬だけ胸に蘇る。
ここでは剣の代わりに、このカバンが俺の武器だ。
「匂いがする!」
ミナが走りながら叫ぶ。
「あっちの大きな建物から、嫌な匂いと、困ってる匂いがする! 急いで!」
目指すは中央議事堂、まるで古代の要塞だ。
灰色がかった巨大な花崗岩の柱廊が、夕暮れの空を背負って立っている。
その前を走るにつれ、街の賑わいが遠ざかり、巨大な石の塊が放つ「制度の重圧」が、俺たちを押し潰そうとしているようだった。
中央議事堂入り口付近に、二つの人影が立っていた。
王都魔導学院のローブを纏った少女と、瞳は琥珀色、白衣に似た外套をまとったカリナ検査官だ。
二人は何も言わず、ただ健二の営業カバンを見て、深くうなずいた。
健二はその無言の合図に、力強く頷き返す。
俺はカバンの革を強く握りしめた。 (間に合う。いや、間に合わせる。これが俺の、『納品』だ!)
議事堂の衛兵が槍を交差させて止めようとするが、ライルが懐から商人ギルドの『特級通行証』を取り出し、叩きつけるように見せつけた。
「緊急の証拠品搬入だ! 通らねぇと国家損失になるぞ!」
衛兵は規則上の「緊急搬入」例外に従って一瞬ためらい道を開けた。
長い廊下を抜け、第七審問室を通り抜けた先、重厚な扉の前。
そこはリュミエール王国で唯一、勇者と王族を縛る“最終決定の座”だった。
『至上大審堂』、国そのものの『意思』がここで決まる。
ここで下された判は覆らない。
神託すら例外ではないと言われる、王都最奥の審堂。
この場では、記録庁が正式に提出した『焦げたSOS魔導符の魔力波形記録』の真偽を巡って、すでに水掛け論が起きているはずだ。
現物は激しく損傷し鑑定に回すこともできなかったため、その「記録の信頼性」こそがグランツ商会側の最大の攻撃目標となっている。
中からは、勝ち誇ったような演説が聞こえてくる。
俺は呼吸を整え、ライルとミナと目配せをした。
「……行くぞ!」
俺は扉に手をかけ、力任せに押し開けた。
◇
扉が開き、地響きと共に議場の厳粛な空気が一瞬で破られた。
健二たちめがけて、至上大審堂の警備兵数名が、音もなく槍を構えて走り出す。
「な、何事だ! 静粛に!」
議長の声が響く中、ライルが立ち止まり、使い終わった『特級通行証』を衛兵の目の前に投げつけた。
「緊急の証拠品搬入だ! 証人、到着!」
警備兵が通行証を見て一瞬ひるんだ、その刹那。
演説をしていた古狸(グランツ商会代表)が、健二の持つカバンに鋭い視線を注ぎ、静かに笑みを浮かべた。
「無礼千万。だが、その証拠品とやら、見せてもらいましょう。――そちらを止めなくてよろしい、議長。彼こそが、今議論している『偽装された記録』の提出者です。ここで退けるのは議会の怠慢。徹底的に彼の記録を検証し、その『偽物』を白日の下に晒すべきでしょう!」
古狸が衛兵の動きを遮ったことで、彼らはやむを得ず足を止めた。
議長は眉根を寄せながらも、木槌を叩く。
「よろしい。証人は審問台横へ。議論再開!」
健二は、カバンの中の帳簿を抱きしめた。
この審問の主題は、記録庁が提出した『SOS魔導符の波形記録』だ。
健二が持っているのは、その記録が偽造ではないと証明する、現場の第三者帳簿である。
健二たちは、議場全体からの冷たい視線を受けながらも、指定された場所まで急いだ。
王都クレールヴァル、中央議事堂。
その至上大審堂は、冷たい石の匂いと、古びた羊皮紙の乾燥した匂いで満ちていた。
円形の議場を見下ろす列は、国の制度を司る議員たちに加え、王族の一族、軍の最高司令、魔導の最高責任者、時に勇者代表までを含む。
健二たちが審問台の横に立つと、議場に集う五つの権威の座から、冷たい意見が次々と浴びせられた。
軍の最高司令は、重い鎧を鳴らして腕を組んだ。
「魔王軍残党の保護は、軍の規律と国民の安全に反する前例となる。害獣は駆除する、それが唯一の正解だ」
魔導の最高責任者は、手元の魔導灯を静かに揺らしながら、技術的な懐疑を呈した。
「魔導符の波形解釈は極めて主観的だ。その不安定な記録を、国家の制度の根幹とすることは、魔導の規範に照らして容認しがたい」
きらびやかな装飾を纏った勇者代表――かつて魔物戦争で戦ったとされる老齢の英雄が、侮蔑の視線を向けた。
「魔物と心を通わせるなど、勇者の品位を汚す行為だ。現場の若造どもは、誇りというものを忘れたのか」
分厚い法典を手にした最高法務官が、初めて沈黙を破り、重々しく口を開いた。
「待たれよ。現行法に『人型魔物』の規定は無い、故に保護の対象外であるとの指摘は正しい。しかし、法とは人々の良識を映す鏡であるべきではないか。もしこの記録が真実ならば、議会はこの状況を前に、新たな『法の精神』を模索すべきだ」
その瞬間、議場にわずかな動揺が走るが、次の発言がそれを即座に打ち消した。
王族の席に置かれた紋章は光を受けて鈍く煌めき、一族の代表が決定的な拒絶を口にした。
「最高法務官。議会の場で、このような出所の不明確な記録に基づいて秩序を乱す議論をすること自体が、リュミエール王国の秩序を乱している」
議論の中で、審問の声が王族の冷笑や軍の無言の合図にかき消されかける場面がある――その瞬間、この場が単なる威厳の舞台ではなく、権力の不確定性と綱引きの場であることがはっきりと示される。
健二はその威圧に胸が詰まり、ミナは鼻をひくつかせる。
「ここは冷たい匂いがする」
小さく呟いた。
この意見の波を、古狸は待っていたかのように利用した。
席に着いていた彼が、再び立ち上がる。
「――異議あり」
静寂を切り裂いたのは、グランツ商会の代表――通称“古狸”と呼ばれる老人だった。
彼は上質な絹のハンカチで口元を拭いながら、嘲るように健二を見下ろした。
「魔王軍残党の保護? 敵が発した魔導符を『救難信号』と認める? ……馬鹿げている」
古狸は議場全体に響く声で演説を始めた。
「諸君、記録とは『事実』だ。だが魔力波形など、優秀な魔導士がいれば幾らでも偽装できる。我々グランツ商会は、確固たる制度と信頼の上に成り立っている。どこの馬の骨とも知れぬ小商人が持ち込んだ“敵の符”など、信用に値しない!」
議場がざわめく。
「確かに、敵を保護など前例がない」
「偽装工作の可能性も否定できんぞ」
空気は一気にグランツ商会側へと傾く。
制度という名の壁が、俺たちの前に立ちはだかる。
ライルが小声で舌打ちした。
「……チッ、やっぱり古狸め。記録そのものを『偽物』扱いしてきやがった」
ミナは不安げに顔を伏せ、俺の袖を握りしめる。
「健二……おじいさんの匂い、黒い。嘘つきの匂いがする」
俺は営業カバンを抱きしめ、深く息を吸った。 (……想定内だ。相手が『権威』で来るなら、こっちは『現場』で返す) 俺は一歩前に出た。
「偽装ではありません。それを証明する『第三者記録』があります」
セルドと直接会う時間はなかった。
だが、北棟検査室のカリナ検査官を通じて彼の事情は全て把握している。
妹は兄の苦境を察して王都魔導学院で臨時講師であるカリナ・アーベルに相談した。
セルド自身もかつてカリナの教えを受けた元生徒であること。
カリナは妹の願いを背負って動いてくれた。
セルドは借金と妹の安全を古狸に握られている。
その彼を動かすには、「妹の未来を守るための確実な道」が必要だった。
俺はカリナに「真実の証言と引き換えに、妹の安全と公正な雇用を保証する」という契約の意思を託した。
信頼できる恩師の言葉であれば、告発は、彼にとって最も損失の少ない、そして妹の未来を救う確実な生存戦略だと信じられたはずだ。
俺が合図を送ると、議場の隅に控えていた一人の青年、王都の関所記録係セルドが立ち上がる。
彼は青ざめた顔をしていたが、瞳には決意の光が宿りその声はよく通った。
「……関所記録係、セルドです。証言します」
古狸の眉がピクリと動く。
「……ふん、ただの記録係か。彼が何を証言できる?」
セルドは震える手で一枚の羊皮紙を掲げた。
「これは……グランツ商会が『記録を遅らせろ』と指示した日の、魔導灯の未登録ログです」
議場が水を打ったように静まり返る。
「私は……生活苦で不正に加担しかけました。ですが! この補給部隊は、私が記録を消した時間にも、正確に荷を運び、命を繋いでいた。魔導灯のログと、彼らの帳簿の時間は……一秒の狂いもなく一致しています!」
「なっ……!」
古狸の顔に初めて焦りが走る。
絹のハンカチが掌で皺を刻み、声は喉の奥で乾いた。
権威は重いが、記録はそれを穿つ。
俺はその隙を見逃さず、自分の帳簿を広げた。
「この帳簿には、物資の数だけでなく『いつ、どこで、誰が』が記録されています。魔導符の発動時刻。その瞬間の大気中のマナ濃度。そして――」
俺はミナを見ながらそうっと背中に手をかけた。
ミナがうなずき、前に出る。
「匂いが、したの」
ミナの声は小さかったが、議場によく通った。
「匂いは嘘をつかない。熱い時は辛く、恐い時は金属の味がする――あの時は、塩水みたいに涙の匂いだった。攻撃の前に出る“憎悪の匂い”じゃなくて……こわくて、泣きながら、子どもが助けを呼ぶ匂い。……だから、あたしは信じる。あの子たちは、敵じゃない。魔導符から光が上がり雷嘴を呼び寄せ、雷が落ちた後も、残ってた」
俺はミナの背中から手を離し、カバンを開いた。
中から取り出したのは、手のひらサイズの、激しく焦げた羊皮紙の破片だ。
それが『SOS魔導符』の現物だった。
鑑定不能なほど黒く煤け、端は硬く丸まっている。
俺はその破片を静かに審問台の上に置いた。
「これが、その『命の震えの記録』の現物です。鑑定はできません。ですが、この焦げ付きこそが、彼らが絶望的な状況下で助けを求めた、動かしがたい証拠です!」
議員の一人が、冷ややかな声で疑問を投げる。
「……美しい話だが、既に鑑定不能な物理的なゴミ、そして所詮は獣人の嗅覚だ。客観的な記録として認めるには、あまりに不確かすぎる。前例がない」
古狸が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「その通り! ただの焼け焦げた紙と、獣の勘になど、国家の制度を委ねられるはずもない!」
議場の空気が、再び健二たちにとって不利な方向へ傾きかけた、その時だった。
ギィィィィィ……ドンッ!
至上大審堂の重厚な扉が、再び大きく開かれた。
先ほどの健二たちの時とは違う、通るべくして通る者の威厳ある足音が響く。
「――ならば、この剣の証言も『不確か』と断ずるか!」
凛とした声が議場を貫いた。
現れたのは、Aランク勇者ジョゼア・フェン・セルジーヌ。
その背後には、補給監督である母マリナと、弟たちが控えている。
彼女は議場の中央を堂々と歩き、古狸の目の前で足を止めた。
「ジョ、ジョゼア殿……!?」
古狸が狼狽する中、ジョゼアは腰の魔導剣に手をかけた。
「認めさせる。私の剣にかけて」
彼女が踏み出すと同時に、魔導剣は鞘に収まったまま低く唸り、刻まれた紋様から青白い閃光が迸った。 それは抜刀せずとも放たれる、純粋な魔力の威圧だった。
「この魔導剣は『審判の武具』です。雷神裁は、ただ敵を滅ぼす力ではない。その真髄は、周囲のマナに宿る『悪意の波形』を検知し、使用者へと向けられた嘘や憎悪を剣そのものが跳ね返す――真実の裁定にあります」
ジョゼアは剣に刻まれた雷紋に触れた。
「私の剣が、あの魔導符の発した波形を『SOS』だと認識した。それは、偽装された記録や悪意に満ちた嘘には決して反応しない、命の震えの記録です」
彼女は議場を見渡す。
剣から放たれる清浄な光が、古狸の顔色をさらに青白くさせた。
「Aランク勇者の証言と、この剣の裁定でも、まだ不足か?」
勇者の権威と、現場の帳簿、そして記録係の告発。
三つの矢が揃い、議場の空気は逆流を始めた。
議長は、張り詰めた沈黙の中、木槌を手に取り、その硬い表情を崩さぬまま、議場全体を見渡した。
誰もが息を飲む中、議長は重々しく口を開く。
「我々が議論すべきは、制度の利便性ではない。制度の本質だ」
議長は古狸、そして王族の席を一瞥し、そして健二たち、特にジョゼアの剣が放つ清浄な光を見つめた。
「……制度は、記録から始まる。そして記録とは、現場の真実を写す鏡である」
議長は古狸を一瞥し、そして俺たちを見た。
「この魔導符は、敵の命を記録した。ならば、我々の制度もまた――その命に応えるべきである」
カーン、と木槌の音が鳴り響く。
「審議継続! 魔王軍残党の保護申請を『保留』から『検討』へ移行! 並びに、グランツ商会の記録改ざん疑惑について、特別調査委員会を設置する!」
古狸が崩れ落ちるように椅子に座り込む。
議場に響くのは、もはや罵声ではなく、新しい時代へのざわめきだった。
議会を出た俺たちは、王都の夕暮れの下に立っていた。
冷たかった風が、今は少しだけぬるく感じる。
「やったな、健二!」
ライルが俺の背中をバシバシと叩く。
「セルドの奴、最後にいい仕事しやがって。あいつも『自由のエール』奢ってやらなきゃな」
ミナは鼻をひくつかせ、空を見上げた。
「……匂いが、変わった」
「変わった?」
「うん。制度の匂い……固くて冷たかったけど、今はちょっとだけ、焼きたてのパンみたいに優しくなった」
健二は笑って帳簿を開き、余白の部分にペンを走らせる。
――『王都議会にて、制度揺らぐ。命の記録、承認への第一歩。……あと、セルドへの祝杯代(経費で落ちるか?)』
……だが、軍の匂いはまだ消えていない。
焼きたてのパンの湯気の向こうで、鉄が微かに鳴っている。
「よし、行こう。まだ仕事は残ってる」
俺が営業カバンを肩から抱えて歩き出すと、二人が笑顔で続いた。
だが、その背中でミナだけが、ふと足を止めて振り返った。
焼きたてのパンの湯気の向こうで、まだ微かに――鉄の匂いが燻っていたからだ。
営業カバンの中には、伝説の剣も魔法もない。
けれど、世界を少しだけ変えるための「記録」が、確かに詰まっていた。




