七千歩変状歌
*殺人表現、カニバリなどセンシティブな内容が含まれます。苦手な方はご注意を。
ーー内裏の薄汚れた外壁に下人が一人座っている。
いや、下人と呼ぶにも烏滸がましく、着物はボロボロ目は窪み、このまま座して死を待つばかりの存在だ。
膝を抱えて行き交う牛車を薄目で追い、物見から覗く蔑んだ視線と前簾から投げ捨てられる僅かな施しが彼の全てだった。
牛がボトボトと糞を漏らす。
『アレが食えれば、いつでも腹一杯なんだが』そんなことを考えながら、微かに口元を歪めた。
時は平安、蝉時雨。
壁に止まった蝉を食おうと手を伸ばしてみても、スルリと指の間を逃げ出し、小便が爪先を汚す。
その液体を名残惜しく舐めてみれば、舌の痺れがまだ自分は辛うじて生きていると実感させる。
隣からはツンとした臭いが鼻につく。
二言三言交わした同業はどうやら蛆の餌になったらしい。
腐り溶け落ちていく隣人にいつかの自分を重ね、ほんの少しだけ座る場所を移動した。
『自分と貴人の何が違うのだ』
同じ人なのに、豪奢を貪る貴人と今にも死にそうな自分との対比が嫉妬の炎を燃え上がらす。
羨望に目を細め無謀にも従者の一人でも襲ってやろうかと考えた時、また一つ施しが投げ捨てられた。
それを自分の物だとばかりに拾い上げ、いつもの場所に座り込む。
「もっと良い物をよこせ……」
思えば今日初めて言葉を口にしたかもしれない。
去り行く牛車を横目に食べていると、従者の声が聞こえた。
「最早人に非ず」
一気に暗い感情が押し寄せる。
下人は自分を人だと思っているが、彼らにとっては犬畜生と同じ。
人ではないのだ。
なら、自分は何なのだ? 足も腕もある。文字は書けぬが、喋ることはできる。
ならば何故? 何故こうなった? 何が悪い? 生まれか、時代か、はたまた如来様か?
そこに自分と言う選択肢は含まれず、ただただ傲慢な自問自答は日が陰るまで続いた。
朱雀門から羅城門まで3.8km、帰り道。
寝床代わりの羅城門の楼を目指し、茜色に染まった砂利道を歩く。
西日は容赦なく照りつけ、喉の渇きとぶり返した空腹が下人の足取りをフラフラとさせる。
歩く。幽鬼の如く歩く。
何日も水浴びをしていない痩せ細った体に死んだ同業達の臭いが染みつき、『人に非ず』と言う言葉がより深く溶け込んでいく。
一千、二千、三千歩、歩いた頃だろうか、少し離れた所に立ち往生した牛車が見えた。
深みに嵌まったのか片輪は外れ、従者は途方にくれている。押しても引いても、牛の力を持ってしても、片輪の車はびくともしない。
夕刻は迫り、伸びた影法師が彼らを包み込む。
辛うじて夕暮れの光に佇む下人は、そんな彼の悪戦苦闘を手伝いもせず怠惰な瞳で見続けていた。
足元までじわりじわりと影が近づく。
境界線は直ぐそこまで来ていた。下人は近場にあった手頃の石を持ち上げる。腹が減って力が出ないはずが、恐ろしく簡単に持ち上がったことは彼の決心の表れだ。
影を踏み越え、座り込んだ従者の後ろから思い切り叩きつけた。
短い悲鳴と共に彼は倒れ込み、動かなくなるまで何度も叩きつけた。
これは怒りなのだ。
持たざる者から持つべく者への怒り。傲慢で勘違い甚だしく、自分勝手で愚かな怒り。
脳漿の飛び散った石を打ち捨て、上等な着物を追い剥ぐ。
草履も奪う。全てを奪う。宵闇の中で興奮冷めやらぬ身体が大きく震える。
「ーーどうかなさいましたか?」
次の瞬間、前簾の奥から鈴のように響くうら若き乙女の声が聞こえた。
「……どうもありませぬ」
少女の声を聞いた下人は血の気が引く錯覚に陥るが、どうにか声を絞り出した。
「……そうですか……」
躊躇いがちな声。
少女は気づいているのだろう、いつもの従者の声でないことを。いや、最早人の声にさえ聞こえなかったかもしれない。
合掌し不動様に願う。
『きっと私は物の怪に襲われている。
お助けください、お助けください』
必死に祈って、暫く。
チラリと開けた片目は、簾の隙間から覗く澱んだ瞳をしっかり捉えた。
「ひぃーーッ!!」
声にならない叫び声を涙いっぱいに発し、恐怖のあまり後退りをする。
退路などないことは分かりきっているが、本能が彼女をそうさせたのだ。
「お前もそんな目をするのだな……」
もし、この時少女が罪人に向ける目をしていたなら助かっていたかもしれない。
蔑み、軽蔑し、二度と会うこともない人間として、最低限の尊厳は残したとして。
血塗れの手が簾を丁寧に押し上げ、ずいっと下人は侵入する。
無言のまま近づき、か細い首に腕を伸ばす。
足をバタつかせた必死の抵抗を物ともせず、組み伏せ、事切れるまで力を入れ続けた。
夜陰を切り裂く月光だけが、一連の凶行を見続けていた。
下人は絶望していた。
言葉では言い表せぬ全てに、言葉では語り尽くせぬ全てに。車の中でぐったりと座り込み、虚空に瞳を泳がせる。
しかし、腹はくぅと鳴る。
側の少女の傷ついた体から瑞々しい血が流れ、裂けた桃色の肉は柘榴のように妖しく光っている。それを見て、また腹が鳴った。
ならば、後は鬼へと孵るだけーー
逢魔時を遥かに超えて、初めて腹一杯になった下人一人。
奪った着物で衣が足り、喰べた柘榴で食が足り、羅城門の楼で住が足りた。
満たされた欲は、更なる欲を生み出す。
みなぎる力が全身に巡り、男の象徴が熱り立つ。むせ返るほどの色欲が行き場を失っている。鬼の横には、まだ温かい何かが転がっていた。
……
…………
………………
車はガタガタと不規則に揺れていた。
朱雀門から羅城門まで七千歩、孵り道。
いつもより大股で、肩で風切り丑の刻。
楼のはしごを上機嫌に登り、糞尿混じりの腐臭が芳しく感じる。
彼の指定席に寝転んでいた老婆を蹴り飛ばし、乱暴に座り込む。
物見から差し込んだ月の薄灯が楼内を照らす。当時の死体置き場代わりでもあった楼は、彼にとって最高の住処になっていた。
「ここなら当分食料にも困らないな」
鬼はニヤリと笑った。
下人の行方に誰も興味はないーー
ーー七千歩変状歌、完ーー
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