【5】独断『潜航』
それはショッピングモール……というより古びた雑居ビルだった。一階と二階はテナントの入ったスーパーだが、まだ18時なのにテナントの大半は開かずのシャッターだ。入口は昭和レトロな蛍光灯が照らしている。
スーパー本体も同様に閑散として、三階までの吹き抜けがみすぼらしさを強調している。店外には手すりのカーブした階段があり、三階まで上がると吹き抜けのすぐ脇はアパートの郵便受けになっていた。格子のある窓の下には牛乳瓶や植木鉢が並べられ、アパート側の通路は昭和そのものだった。
恢復はおそるおそる部屋に入る。雄武が照明をつけると傷んだ畳張りの部屋だった。空っぽの部屋に生活感はなかった。
「ここは私が研究用に借りている部屋だよ」
公にできない研究だからこそ、目立たない場所で行っていると雄武は言った。
「一人で研究しているんですか」
「まさか。何十人も関わっている大プロジェクトだよ。この国を守るためのね」
機材一つない部屋は、どう見てもその言葉に反していたが雄武は続けた。
「那賀くん。きみなら敵をどうやって排除する?」
「そうですね。迷わずぶっ殺します」
「それじゃあ犯罪だよ」
あっさりした恢復に雄武は驚いた。
「命の価値の軽い国もあるけど、わが国ではそれは許されない。それに大事なのは人物そのものではなく、思想だと考えればどうなる?」
「洗脳とかで思想を変えれば敵でなくなるかも」
そう言うと雄武はニヤリとした。
台所から続く部屋は遮光カーテンが二か所に掛かっている。大きいカーテンの向こうは日の落ちた街があった。小さい遮光カーテンはなぜか壁に掛けられていて、恢復はちょっとめくってみる。壁のはずの場所は小さな窓で、向こうにスーパーの吹き抜けが見渡せたのだ。閉店間際のスーパーが窓一枚隔てて、まるで別世界だった。
窓の反対側は壁ではなく襖だ。他にも部屋があるのかと手を掛けるが、カギがあるのかこちらからは襖は開かなかった。
蛍光灯一つの部屋の中央には畳の上に枕とマットレスが置いてあった。
「……これが政府の研究なんですか」
「そうだよ」
想像以上の意外さに、唖然とするばかりの恢復に雄武は繕った。
「こう見えても本当にすごい研究なんだ。この場所はね、人々の思念を増幅させるんだ。嘘じゃないよ。私が住んでいたときから……いや住んだことはないけど」
「ここで板野さんは住んでいたんですね」
「まさかまさか。これは研究施設として特別に借りた」
懐疑の目を向ける恢復に雄武は笑ってごまかすしかなかった。
「とにかく実験してみようか。さあ」
訝るまま言われるまま恢復はマットレスの上に横になろうとした。
「ねえこれ、ちゃんと洗ってるんですか」
何も答えない雄武に恢復はそれらを追いやった。
「この部屋はね、いろんな人の思念が積もっているらしいんだ。ここで眠ると事前に見たテレビやマンガ、小説の世界や作者、作品を応援するファンをごく隣に感じることが出来るんだ」
「へえ」
「だからその力を増幅してフィクションの向こうにある、作者やファンの深層心理に潜入することが研究の目的なんだ」
「どうやって? どんな技術で」
しかし雄武はその質問も無視した。
「私は……いや、私たちは何回もテストした」
「だからどんな技術で」
「しかし何回試してもその世界を外から眺めるだけで、見えない壁に阻まれているみたいに世界の中には進めなかった」
「だからぁ」
「公募した一般の人も何人も試したけど結果は同じだった。私は考えた。私……いや私たちには、中に入るための覚悟がないのかも知れないと思ったんだ」
「それで?」
「だからこの社会をより強く変えたいと願う人――どんな困難に逢っても目的を諦めない人を探していたんだ」
それが那賀くんだった。
理論も理屈も解らないまま、恢復はとことん毛嫌いするなろう小説を、スマホの画面で我慢しながら斜め読みし目を閉じてみる。
すると何か……何もないはずなのに頭が重い。
寝るだけで何かが変わるわけがない。そう思っていたときだった。
頭の中に突然浮かび上がった。
マットレスも古びた部屋も視界から消え、周囲の空間が文字の羅列でびっしり覆われている。その文字が本来意味する物体や事象に次々と変化し、世界として構築されてゆくことに恢復は目を見張った。
まるで死んでいるかのように彼の体は力なく横たわっていた。
「那賀くん? 那賀 恢復くん」
――――――――
ここは中世のヨーロッパ。そんな感じのニセモノの世界だ。さっき読んだなろう小説が、まるで実在として感じられる。
現実世界ではバカで貧困で、誰からも蔑まれる主人公が事故で死亡する。
魂はこの安っぽい中世に転生して新たな体を得る。
そこで現代の知識や経験を使い何の苦労もなく成り上がってゆく。
主人公にとって都合のいい物語がこの下劣な世界を広げてゆく。
物語に書かれていない部分は、映画のセットのように後ろから棒で支えるハリボテだった。物語の次の舞台。伏線になる未登場の人物が、ハリボテの向こうで完全に静止して出番を待っている。
この世界に入り込んでいるは恢復だけではなかった。
辛い現実から逃げ続け、それは自業自得なのに誰かのせいにする無数の読者。読者はひたすら無双する主人公の活躍に歓喜していた。
恢復はたまらなく腹が立った。
「こんな世界があるからこの国は衰退する。こんな小説があるから僕の小説が認められない」
壊したい。消し去りたい。
だからハリボテの建物を引き倒し、地面に大穴を開け空を破り捨てた。
人形のような登場人物を投げ飛ばすとバラバラに砕け、作者の日常である底辺職場の仕事道具や、作者の娯楽である成人コンテンツに変わったことに恢復は驚いた。
「これがこの世界の本当の姿なんだ」
そうやってハリボテの向こうの『現実』を見せつけることで読者は発狂した。
主人公になり切って剣を構え襲い掛かってくる読者。
「こんなクズどもが」
恢復の怒りがその手にも剣を握らせた。
折れそうな細身の剣だが読者をあっけなく両断した。
世界から叩き出され読者の夢は消えてゆく。
「よくも俺の小説を」
読者を失い発狂するのは主人公の姿をした作者だった。吐き気を催すキモオタでさえ主人公として無条件で尊敬される。
主人公と恢復。互いに駆け出しぶつかる。
細い細い剣を恢復は下から斜め上に振り上げた。
すると主人公が両断された。
小説の世界がバラバラに破壊される。
現実を捨てたのに売上という現実なしでは生きられない。泡沫の作家など文字通り泡と消えるしかない現実を突きつけ、このなろう世界は嫌悪と憎悪の廃墟と化した。投稿サイトから小説は消去されアクセス不能になった。
――――――――
恢復は目を覚ました。
そこには心配する雄武の姿があった。
恢復は畳から体を起こし、文庫本を手にした。
「間違いない。これだよ。この小説だ」
「何度やっても成功しなかった潜入が、たった一回で」
恢復が全てを語ると雄武は本当に驚いていた。
「これで、これで世界を変えることが出来る」
「あのう。板野さん」
恢復が尋ねても雄武は心酔したままだった。
「底辺が這い上がろうとする社会が復活すれば、我が国は一丸となって諸外国と渡り合える。真の国力が発揮できる日がやっと」
「あのう」
「私が夢見た最強国家が誕生するんだ」
「板野さん」
耳元の大音量で雄武はひっくり返った。
「あのう……」
「まあそういうことだよ。那賀くん。国家のために戦ってくれるかい」
雄武は畳に座ったままの恢復の手をがっしり握った。
そして潤んだ瞳で見つめてきた。
「那賀くん」
「僕、そういう趣味ないんですけど」