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恢復《かいふく》のディストピア  作者: すが ともひろ
 第2話 思い込みの階層社会
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【4】叶えるためのその出会い

 そこは街中の高級ホテルだった。人工の滝のそばに壁と天井の半分をガラスのアーチが掛けるビルだ。三階分の吹き抜けがアトリウムになっていて、中には錦鯉の泳ぐ池や日本庭園が広がっていた。


 屋外と隔絶された屋外。日本庭園に囲まれる茅葺の平屋が指定されたレストランだった。


 庭園の入口には仲居さんが常在して、とても入る勇気がない。周囲のエントランスをうろうろしていると声を掛けられた。


「きみが那賀恢復くん?」


 振り返るとそれは高身長のイケメンがいた。


「どうして僕のことが解ったんですか」

「場違いな顔していたからね」


 爽やかにその男の人は言った。

 怖そうな人ではなかった。恢復は安心した。


 板野いたの 雄武おむ

 それが彼の名だった。



 庭園のせせらぎが眺められる和室に仲居さんが案内してくれた。


 部屋は壁も天井も漆塗りだった。黒色の中に螺鈿の装飾が無数に施されていた。驚く絢爛さの中で、掘りごたつのテーブルからきょろきょろ見渡すだけの恢復だった。


 男の人は慣れた口調で仲居さんに注文していた。


「きみは何を飲む? 未成年じゃないよね」

「僕はお酒はほとんど飲まないから」

「それならこれががいい。冷酒は初心者でもお勧めだよ」


 言われるままの恢復。


 やがて料理とお酒が同時に運ばれてくる。


「懐石料理は出来たてだからおいしいんだよ」


 虫かごに入っていたのは小さく盛り付けられた前菜だ。

 男は一合酒を恢復に注ごうとする。


「あの。どうすれば」

「その猪口を取って」


 江戸切子の小さな容器に注がれる薄い霞の液体。


「さ、少しづつ飲んでみて」


 まだ昼間なのに。そう思うと罪悪感もある。

 とはいえ、ほんの僅かを言われるままに口に運ぶ。まるで薬のように。


 匂いで感じたアルコールの不快さが消えてゆく。

 本当に甘露だ。


 一度に飲むから不快さだけが際立つ。そう雄武は言った。


 現実も同じだ。嫌なことも辛いことも少しづつしか変えられない。積み重ねなく一度に変革することは全てを失う暴挙だ。


「あいつらは、それを実際に行おうとしている」


 箸を置いて、彼――雄武は真顔を向けた。


「なろう小説の隆盛はすごい。マンガ、アニメ、映画、ドラマ。あらゆるメディアに展開し、マスコミがこぞって取り上げている。人々がなろう小説を求めているからだ」

「まさかそんな」


「きみの通う大学にはそういう人はいなかったかい?」

「そういえば」


 あの女子。海部さんの周りにいる人はみんな同じだった。


 貧困から抜け出せないからと、あり得ない夢想で法を捻じ曲げようとしていた。彼らがハマっているもの。SNSやスマホゲームも苦しみから逃げるための手段だ。


「それだけこの社会に希望が持てないからなのではないのですか」


 恢復は雄武に思わせぶりに聞いてみた。


「政治が悪いから貧しい人が増えて、貧しさを解消するための政策は何もなくて。それで努力せずに成功することを求めるのではないですか」


 しかし雄武は深刻に答えた。


「きみは本気でそう思っているのかな」

「……いまでも努力で待遇は変わると信じています。ですが、余りにもそんな人が多すぎるんです」


 食べたのを見計らうかのように次の料理が運ばれてくる。


「政府がどれだけの貧困対策を行っているのか、那賀くんは知っているのかな」


 恢復が首を傾げると、雄武は持っていた革鞄から紙の資料を出してきた。

 数十枚の印刷物に恢復は驚いた。


 奨学金の拡充。貧困学生の教育補助。所得の少ない業種への補助金。失業者への教育訓練の拡充。緊急時の貸付金は条件次第では返還不要だ。


「それらの対策費は毎年倍増している」

「……全く、知りませんでした」


 恢復は膨大な政府の貧困対策に驚愕した。


「でもこれだけの政策があっても貧しい人が貧しいままなのは、どうしてなんですか」


 貸付金を踏み倒すことを当たり前に考えているのはどうしてなんですか。


 恢復は慈の言ったことを口に出した。

 政府は大企業べったりだから庶民のことを考えていない。


「その言葉は反政府の人にそっくりお返しするよ」

「板野さん」


「政府与党の貧困政策を潰そうとしているのは野党なんだよ」


 恢復にとって信じられない言葉だった。


「我々中央省庁は本来はどの政党にも公正でなければいけない。それがどんなに気に入らない連中でもだ。しかしそれでも今の野党は度を越している」


 雄武は猪口を片手に続けた。


「いいかい。野党の目的はこの国を良くすることではない。与党から政権を奪取することなんだ。与党が人のためになることは許せないんだ。どんないい政策だって反対して潰そうとする。多くのマスコミも野党の味方だ。政府のいいことは決して報道しない。良くないことだけを大々的に報道する。もし粗探しできなければ」


「どうするんですか」


「ニセの情報を流す。自己責任でしかない貧困や犯罪を、政策の失敗からの貧困ゆえの事態だとすり替えている」

「そんなことって」


「奴らは自分の理想とする政治がしたいだけだ。そのためには国民がどんなに困窮しても構わない。むしろ国民が貧困のままでいた方が制御しやすいと考えている」


 雄武も冷酒を啜った。


「それを実現するための手段がスマホゲームだったり、なろう小説というわけだ」



 次々と運ばれてきた料理も最後のアイスクリームになっていた。


「底辺が努力が嫌がるように仕向け、貧困化した底辺を救うという名目で野党を支持させる。彼らはマスコミと結託して流行を作り出している」


「このままじゃあ僕の小説は」

「きみの小説が弾圧され消滅することがあれば、それはこの国が終わるときだ。すぐに国威は失墜し、外国に制圧されてしまうだろう」


 恢復は心のどこかで、政府与党も悪いことをしているのではと疑っていたが、その先入観は完全に払拭された。


 雄武は聞いた。


「那賀くんは格差についてどう思う」


 恢復ははっきり答えた。


「格差はあって当然です。格差があるから競争があり、格差があるから発展があるんです。格差のない社会は滅亡します。だから」


 雄武は恢復の返答を待っていた。


「僕はこの社会を変えたいんです。僕の小説が認められる社会に変えたいんです」


 すると納得して雄武は笑った。



 雄武は仲居さんにクレジットカードを渡すと立ち上がった。少し赤い顔をしたままなのに、まるで急かすように。自分よりずっと大人の男の人。恢復は信頼しどこか安心した。


「那賀くんに見せたいものがあるんだ」


 玄関でクレジットカードを受け取ると雄武はもう靴を履いていた。

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