秘密と王子の物語
クドナ・ベルヘスはアグリアス王国の国王ウーサー・ベルヘスの末子として生まれた。クドナの兄である長子カルロスは、元気が取り柄といえる単細胞だったが、優れた知見を持ち合わせ、正に王にふさわしい「確固とした理由」によってその地位を保障されていた。またクドナの姉である次子ユフーチェはその聖母を思わせる美貌と、誰もが教皇となるに相応しいと認めうる「資質」を備えており、15歳という早年にして既に猊下と呼ばれるようになった。他方、優れた兄姉とは裏原に、低俗に生きるようにと、運命によって定められたクドナは王位継承、教皇就任が自分には難しい事を悟ると、たちまちその考えを改め、隣国の王になろうと画策し始めた。彼は兄姉と同じく優れた容姿を持っていた。男らしさを感じる彫りの深い顔、異性を魅了する唇、加えて名誉あるベルヘス一門の王子という地位、クドナはこれらを盛んに利用し、多くの女を魅了してきた。この場合においてもそれは彼の中では決定事項だった。クドナはノア王国から使者としてやってきていたアンナ王女に狙いを定めるとその毒牙に彼女をかけた。彼は後にこの出来事を思い返す時、アンナは扱いやすいほど愚かで、実に肉付きのいい身体をしていたとほくそ笑んだという。すなわちアンナはクドナに惚れ込んでしまったのだ。彼の外見を愛してしまったのだ。その内に潜むスラム街のネズミに勝るとも劣らない汚水の如き精神に彼女は気付けなかったのだ。それこそ正に彼女が愚かであった理由であり、その子宮に天使を宿した最も直接的な理由だった。それは正にクドナが作りたがっていたベルヘス一門とノア一門を繋げる既成事実に他ならなかった。
アンナが妊娠したという知らせを聞いて、ノア王国のアンドロニウス王は激怒した。それは、親愛なる妹が嘆かわしい事に、この世で最も憎むべき性格をもったいかがわしい存在によっていいように利用されている事を即座に見抜いたからであった。アンドロニウス王はクドナにノアの末席を与えこそすれど、彼を宮廷に招く事はこの後、一度もなかった。クドナはこの策略も失敗したとみると、子供を出産したばかりのアンナにいわれのない姦通の不義を着せて、王都ペジテオンから追放してしまった。王になれぬ以上、彼にとって最早アンナも息子レイも必要なかったのだ。アンナはノア王国から迎えの使者がやってくるまで、一週間近く、我が子レイに食べ物を与えるためにペジテオンで物乞いをした。パンを恵む者もいる、金を恵む者もいる、ワインを恵む者もいる、不貞の輩だと唾棄する者もいる、ただ優越に浸りたくて嘲笑する者もいる。この世の縮図をアンナは見た。王女としてのプライドは高々一週間ほどでズタズタに引き裂かれた。なぜ、私が恵まれなければならないのか、なぜ私が唾を吐きかけるのか、なぜ私が罵られるのか、なぜ大衆は大衆なのか、何も悪いことをしていないのに、なぜ私にいわれのない罰が浴びせられるのか、アンナには何も分からなかった。物乞い最後の1日は酷い雨の日だった。雨宿りしようにも、客が来ないからと店の多くは閉められ、また休める場所を求めて彷徨い歩くうちに、身体はずぶ濡れになった。翌朝、ようやくやってきた使者によって、アンナとレイは保護された。レイはアンナがコートの下に抱いていたので、あまり濡れてはいなかったが、アンナは雨と朝特有のあの冷え切った冷気により、かわいそうに酷く震えていた。
ノア王国に戻った後も、物乞いをしていた雨の日に、アンナが高熱を出したことが原因で、酷い肺炎にかかってしまった。彼女は我が子にクドナの面影を見ると、なぜ私を捨てたのかと、まるでレイがクドナであるように問うた。当然レイはその問いに答えはしなかったが、その慈愛に満ちた、「精霊の宿るかのような瞳」を見ると、アンナは心の平静を保つ事ができたのだ。運命の日は突然やってきた。それは、アンナにとって嫌な記憶を呼び起こさせる雨の日の事。侍医も寝静まり、寝室にはアンナとレイが二人きりだった。肺炎が悪化し、酷くアンナは咳き込むと、喀血が彼女の掌を汚した。命の火が消える時が近づいてきていた。彼女は眠っているレイを腕に抱くと、その天使のような顔に何度も別れの口付けをすると、愚かな己の身を呪うかのように、倒れ死んでいった。
明くる日の朝、女給仕人が寝室を開けると、床にはレイを抱きながら、安らぎとも、苦痛とも違う、しかし決して見間違える事がないほどに、子供のような死顔をしたアンナが倒れていた。その子供は酷く苦かった初恋の味も、雨の日の寒さも、後ろ指を刺されて孤独に物乞いをするくるしみも忘れ、その全てから解き放たれたようだった。
死体を見て女給仕人が悲鳴声を上げると、部屋の近くをとおりかかった青年給仕が走ってやってきた。青年給仕はレイが抱かれて眠っているのを見て取ると、アンナの腕からレイを引き離した。その時、青年はレイの左目が微かに、我々とは違う「特異な力」を持っている事に気がつくと、アンドロニウス王の元へレイを急いで連れて行った。青年の話を聴くと、アンドロニウス王はレイの力を認めた。彼もまた、カルロスやユフーチェと同じく「アグリアスの資質」を有していることを確認する事によって。アンドロニウスはレイをクドナから偶然にも上手く引き剥がせた事、幸運にも正統なノアの血を引くものである事を痛く喜ぶと、彼をノア宮廷に招き入れた。アンナの忌日と同じ日に、レイは一緒に死んだ事を公表された後、レイは正式に他所からやってきた養子として、ノア王子となった。名前もレイからタナシウスと改名された。アンドロニウス王はこれまでの遅れを取り戻すべく、タナシウスに王に相応しい教育を施した。その甲斐もあって、幼年期には既に読み書き計算は人並み以上に、少年期には剣術、槍術、弓術、歴史、外交術、認識論を修得し、賢君たり得る存在となっていった。
彼はその出自と「得意な力」を隠されたまま、すくすくと育ち、この物語の主人公たり得る運命の18歳を迎えた。