2. 愛猫(4)
「おはようございます」
そうたくんの姉、ゆいちゃんを連れて私は朝早くから事務所に向かった。期待していたわけではないが、いつも通り事務所は散らかっている。事務所の応接間でそうたくんと警備員が眠っている。机の上にはたくさんの空き缶があった。オレンジ、リンゴなどのジュースに紛れてチューハイがある。
「よく寝てる」
ゆいちゃんはそうたくんの寝顔を愛おしそうに見ていた。弟のことをなんとも思っていないなんて絶対にありえない。
「最近は夜、目が覚めることも多かったから……」
彼女なりに心配していたのだろう。やっぱり彼女たちは家族なのだ。
「おや、音がすると思えば」
隣の部屋から佐賀さんが現れる。大きな欠伸をして社長の椅子に座った。
「君の依頼だけど」
佐賀さんはそう言って机の上の紙をひらひらさせた。
「いなくなった猫はどこにいるのかわかったよ」
「どこに!」
そっと唇に当てられた長い人差し指。思わず大声を出した少女に、佐賀さんは静かにするようジェスチャーした。
「君のSNSを漁らせてもらったよ。投稿していた文章、写真、動画。ご丁寧に位置情報が残っているものも多かった。今どきはこんな風に色々分かってしまうなんて怖いねぇ」
パラリパラリと一枚ずつ紙を捲っていく。
「ある日、君の投稿から猫の姿が消えた」
つまりそれが、この依頼の始まりということ。
「けれど変化したのはそれだけじゃない。君の自宅が変わっている。テーブルの色も、陽の射し方も変わった。『家を出た』という意味では、いなくなったのは猫じゃなくて君たちだろう?」
ゆいちゃんがそれに反応して佐賀さんから顔を逸らした。
「あともう一つ、君には嘘がある」
追い詰めるような言い方。当事者でない私でさえもこの人に恐れを抱いてしまうような、そんな空気。
「本当の依頼は違うね」
佐賀さんは紙をびりびりに破いた。
「待って! それは……」
「君たちがいなくなった理由は何かなぁ」
佐賀さんの目は少しも優しくなかった。きっとこの人は全部知っている。それでいて、彼女にこんな態度をとっている。
「大人をあまり舐めるな」
ただの破片と化してしまった紙がばらまかれる。彼女は悔しそうに唇を噛んだ。最初の佐賀さんへの態度の仕返しでもしているみたい。
「義母を……居場所を……」
彼女は言葉に詰まりながら膝をついた。
「教えてください……お願いします……」
声を絞り出しながら、そのまま頭を深く下げた。
「ゆいちゃん!」
こんなことをさせるなんていくら何でもやりすぎだ。彼女の肩をつかんで頭を上げさせる。佐賀さんに向かって声を上げようと彼を見て、表情がいつもみたいに緊張感のない顔になっていることに気が付いた。
「……大人は理不尽だし、狡い。力がある分厄介だね」
佐賀さんは立ち上がってゆいちゃんの前にしゃがみこんだ。
「失う覚悟はあるかい?」
彼女は佐賀さんを潤んだ瞳でまっすぐ見ながら頷いた。
そして彼女はぽつりぽつりと黒猫のイルを探している経緯を語り始めた。
ゆいちゃんとそうたくんは血の繋がりがないこと。若くして未婚の母となった女性と結婚したのが義父だった。その後、母は姿をくらませ、義父に育てられることとなった。数年後に義父の企業が成功したことと再婚によって生活が一変してしまった。
「ちゃんと二人の子供としてそうたが生まれて、私はただの邪魔者でしかなくなったの」
義父は海外に単身赴任してしまい、居心地の悪さは言うまでもなく。
「でも、そうたは義母よりも私になついた」
義母は次第に二人に暴力を振るうようになった。自分を監視する人間はいなくなり、思い通りにならない子供と莫大な財産が手元に残った。そして、ゆいちゃんはそうたくんを連れて、クレジットカードを持って逃走することにした。そこが火事現場になった、以前に義父と二人で暮らしていた家だった。
ところが、平和な時間はそう長くは続かなかった。すぐにカードが止められてしまった。お金がなければ何も手に入れることはできない。意を決して家に戻ると、そこには義母がいた痕跡は何も残っていなかった。義父の財産を全て持ち去ってしまったのだ。もうどうすることもできないと思っていた、彼女はそう言った。
「そんな時にネットでサガシヤを見つけたんです」
義母のことを話すと義父にまで連絡されてしまうかもしれない。ようやく成功した仕事を邪魔したくなかった。探す対象を猫だと言った理由を彼女はそう語った。
「本当に優しくしてくれたんです……」
だからって彼女たちだってこのままじゃ死んでしまう。保護者である以上、連絡しないわけにはいかないだろう。
「さて、行こうか」
全てを聞いて佐賀さんは立ち上がった。
「今からですか?」
私は聞く。まだ二人は眠っているのに。けれど、佐賀さんはお構いなしに出かける支度を始めた。
「失う覚悟があるのだろう?」
佐賀さんは再度確認する。
「そうたを……私はどうなってもいいから、そうたが幸せになれるように」
実の息子だけなら不自由なく育ててくれると信じて。佐賀さんはそっと彼女の頭を撫でた。
「必ず正義が勝つ世界ならいいのだけれど、この世は不条理だね」
力のない者の願いは何の犠牲もなしに達成されることはない。そうだとしても、私は二人が一緒に笑っている未来がいいし、正義が勝つ世界がいいと思う。たぶん、それを願う。
「お願いします」
ゆいちゃんははっきりと言った。
義弟の幸せを求めて、彼女は戦う決心をしたのだ。
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