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2. 愛猫(1)

 カラン、人の出入りを知らせるドアのベルが鳴った。


「イラッシャイマ……」

「おはようございます」


 なんだ、サガシヤの人間か。そう言いたいのが丸分かりな態度で、従業員の女性は事務作業に戻ってしまった。


 仕事を辞めた私はサガシヤという小さな事務所で働くこととなった。運命的ではあるが、断言し難い出会いによって、私は清掃員兼補佐要員として洋服屋の二階に通っている。薄暗い廊下の奥のドアをノックして私は中に入った。


「おはようございます」


 部屋の中は相変わらず小汚い。清掃員として、必要最低限の掃除はしているつもりだ。それなのに毎朝ここに来ると同じような光景が広がっている。


「……また、ため息」


 来客用のソファーに座っていた従業員が呟いた。こんなにすぐに散らかされてしまうのではため息も出て当然だろう。


「おはようございます」


 わざとらしく私は少し声を張った。それにびくつきながら青年は蚊の鳴くような声でおはようございますと言った。

 部屋が毎晩散らかされる原因の一つは彼だろう。ぼさぼさの髪に、だらしのない服装。彼がこの事務所から出ている姿は目にしたことがない。つまり彼はここに住んでいるのだ。佐賀さんに言わせれば彼は事務所警備員(ニート)だそう。


「少しくらい散らかさない努力をしてください」

「散らかしてるのは社長です……」


 原因のもう一つは社長、佐賀さんもここに住んでいるということだ。彼は使ったものを元に戻そうとしない。使ったら片付けましょうと子供の頃に習わなかったのだろうか。


「その社長は今、何してるのですか」


 仮にも先輩にあたるので、私は多少の敬意を示す。


「奥の部屋で寝ています……」


 彼はそう言って社長用の立派な椅子に腰かけてパソコンを起動させた。


「起こしてきてもらえませんか」


 彼に呼び掛けても返事はない。パソコンに夢中になって聞こえていないんだろう。部屋にはタイピングの音だけがリズムを乱さず響いていた。


「はぁ……」


 やっぱり再就職は考え直すべきだろうか。奥の部屋のドアを強めにノックする。


「佐賀さん、起きてください」


 返事はない。仕方なく私はドアを開けた。目の前には変態が転がっていた。


「僕の寝込みを見に来るなんて、やっぱり痴女だよね」

「誰が好きであんたを起こすんですか……!」


 私はこの変態に会わなければならない朝が憂鬱で仕方ない。お返しに私は変態の腹を殴る。


「社長」


 いつの間にか背後に警備員が立っていた。


「依頼です」

「最近はネットからの依頼も増えてきたねえ」


 変態は欠伸をしながら私の横を通って社長の机のパソコンを覗いた。


「いなくなった猫探しか……」

 

 私も一緒にパソコンを覗く。アイコンが鳥のSNSの個人チャットにそれは送られてきていた。


『大切な家族が一昨日からいなくなってしまいました。見つけてはいただけないでしょうか』


 メッセージとともに黒猫の写真が送られてきていた。黄色く丸い瞳がこちらを見つめている。かわいらしいがあまり特徴らしいものはなさそうだ。


「この人にここに来るようにメッセージを送って」

「この猫を探すのは難しくないですか?」


 警備員はもうメッセージを送り終えていた。


「大事なお客様だよ」


 佐賀さんはそれ以上何も言わなかった。見つからないのなら、出来ないのならいっそ何の期待もさせないほうがいいのでは。私はパソコンの画面をもう一度見た。


「サガシヤのアカウントですか……」


 固定された呟きはここの地図だった。


「依頼の方法もデジタル化していかないといけないので……」


 彼はそう言って様々な情報のチェックを始めた。動体視力のテストでも受けている気分になる。私には彼が何をしているのかはよくわからなかった。まあいい、気を取り直して私は自分の仕事をしよう。変態を奥の部屋から追い出して、私は私の武器を握る。モップに箒とちりとり。水の入ったバケツと雑巾。


「様になってるねえ」


 茶化すように変態が声をかけてくる。どうやらいつの間にか着替えたようで、カーキ色の和服を身にまとっていた。


「どうしていつも出しっぱなしにするんですかね! 使ったものは元の場所に戻すのは幼稚園児でも知っていますよ!」


 そう言うと佐賀さんは珍しく申し訳なさそうにごめんねと言った。


「少し出かけてくるよ、留守をよろしくね」


 佐賀さんが出て行ったのと同時に鳴り響いていたタイピングの音は止まった。


「あの」


 声をかけてみる。びくっと彼は動いた。その後にパソコンのモニターから顔をのぞかせて不安そうな表情を見せる。


「そんなにおびえなくても何もしないですよ……」


 まるで自分が極悪人にでもなったみたいだ。


「……何ですか」


 ぼそりとした彼の重たい声は二人の間に落っこちた。とても会話のキャッチボールができる気がしない。


「あなたの名前を聞いてなかったと思って」


 佐賀さんが彼を名前で呼んでいるところは見たことない。いや、そもそも二人は会話することが多くない。


「必要ですか」


 いつもよりもワンテンポ反応が速い。


「名前は、業務に必要ですか」


 パソコンに隠れた警備員の表情は分からない。少しだけ見える頭頂部が俯いていることを示していた。


「必要ではないかもしれない……です」


 私は汚れた雑巾をバケツの水で洗い始める。確かに、掃除をするのに彼の名前を知る必要はない。


「ですが、私はあなたのことを知って、親しくなりたいと思いますよ」


 今のところはまだ転職するつもりはないので、私はそう付け加える。転職したほうがいいと本能は言っている気がするが、私は少しだけサガシヤというものに興味を持ってしまったのだ。なんてことを考えてみても警備員は特に何も言わなかった。よほど言いたくないらしい。雑巾をきゅっと絞って窓のほうに向かった。


「じゃああなたはいつ佐賀さんと出会ったのですか?」


 いつ、どうやって。あなたも出会いを視られたのか。あの人のその話は本当なのか。そんなことがあり得るのか。


「出会ったのは三年位前です」


 今度は普通に返事を返してくれた。垂れた長い前髪の隙間から彼の綺麗な瞳が見えた。


「ずっと閉じ籠っていた僕を社長は見つけてくれました」


 懐かしそうに話す声色はとても優しかった。私は窓を拭く。ガラスの向こうには広々とした公園が広がっている。私はその公園をなぞった。


「生きていたくないのに、死ぬ勇気もなくて。社長はそんな僕に生きる理由をくれたんです」


 それが、事務所警備員。ネットから依頼を得るための人員として、彼はここに来たということか。


「あなたは……どうして外に出たくないんですか?」


 聞いてもいいものなのだろうかと思いながら、おそるおそる口に出した。死にたくないけれど死にたい、それは少しわかる気がする。選んだものが違ったらこうなっていたかもしれないのだ。今度は乾いた雑巾を手に持って窓の水気をとった。


「あなたに……言いたくないです」

「そう……ごめんなさい」


 出会ったばかりの他人にこんなにずけずけ聞かれたいことじゃないだろう。配慮が足りていなかった。配慮が足りていなかったからあんなことになったのに、学習能力が欠如しているらしい。


「ただいまー」


 気まずい空気が漂い始めた頃に佐賀さんは事務所に戻ってきた。


「はいこれ、肉まん」

「ありがとう……ございます」


 彼は笑顔でコンビニの袋から中華まんを取り出した。なんで急にこんなものを買ってきたのか、そう思いながらも私は受けとった。アツアツかと思ったらそうでもない。すぐに食べれるように火傷しない良心的な温度で管理されているのか。ふと、中華まんを包む紙に書かれた文字を見た。コンビニの名前が控えめに書いてある。それはこの隣の建物の一階にあるコンビニだ。そこで買ったのだとしたら戻ってくるまで時間がかかりすぎている。はっとして佐賀さんを見ると目が合った。そして気づいたことに気づいたのか、彼は私にウインクして見せた。


「あの……」


 声とともに事務所のドアが開かれた。背の低い幼そうな少年が顔を覗かせた。


「いらっしゃい、お待ちしていました」


 警備員はパソコンと彼を交互に見た。


「……イルさん、ですか?」


 イル、先ほど猫探しの依頼をしてきたアカウントのユーザー名だ。


「うん……イルは猫の名前なの」


 少年は目が腫れているように見えた。いなくなってしまった猫のことを思ってずっと泣いていたのだろうか。


「どうぞお座りください」


 佐賀さんは少年をソファーに座らせる。この少年が依頼をしてきた人なのだろうか。依頼の文面からしてももう少し大人だと思ったのに。それに、今時はこんなに幼い子供もSNSをする時代なのだろうか。


「お名前は?」

「そうた」


 パソコンから離れた警備員はこの少年、そうたくんに熱いお茶以外に出せるものがないかを探してる。


「イルのアカウントは君の?」

「違う、それはお姉ちゃんの。お姉ちゃんは忙しいから、おれが来た」


 こんな怪しい事務所に一人で行かせたのだろうか。


「わかった、じゃあ今からお姉さんに会いに行こうか」

「今からですか?」


 思わず聞き返してしまった。


「イルを探すためにはまずイルを知らないとね。出かけるよ、あすみさん」


 佐賀さんは上着を羽織った。


「留守をよろしくね」


 水の入ったグラスを持っていた警備員はこくりと頷いた。そうたくんの背中に手を添えて二人は事務所を出ていく。


「ちょっと待っ……これ、片しといてください!」


 私は握っていた雑巾をバケツに戻し、中華まんは近くのテーブルに置いた。物が多すぎて戻ってきたらゴミと間違えてしまいそうだ。


「待って下さいよ!」


 コートを手に取って事務所を飛び出した。行ってらっしゃい、そんな小さな声が聞こえた気がした。


お読みいただきありがとうございます!

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