1. 娘の伴侶(3)
「笠桐さん」
私の上司はとてもやさしい人だった。私の仕事に対する姿勢をひたむきだと評価してくれて、同期の中では一番最初に大きなプロジェクトに携わらせてくれた。けれどそれは同時によくないものも呼び寄せた。私の上司は人気者だった。結婚して、美人な奥さんと一緒に生活していると知っていながらも恋心を抱く人は多かった。私は上司を尊敬していたし、憧れてもいた。でもそれは仕事に関してだ。
「ねえ、聞いた?」
「知ってる、マジきもいよね」
人気者の旦那をとられたくない奥さん、アイドル的存在の人を追いかけるファンたち。どうなるかは容易に想像できただろう。
一か月間の上司の出張に合わせて彼女たちの逆襲は始まった。利害が一致した両者はただただ徹底的に私を追い詰めた。伝達事項をわざと告げず、デスクの書類にはコーヒーをこぼされた。終わらせたはずの仕事が何度も何度も戻ってくる。残業をいくらしても終わるはずなどなく、上司の推薦だからと私を信用してくれたクライアントには契約を破棄されてしまった。上司がいなければ仕事に手を抜く人間。何も知らない人にはそう見えても仕方ないだろう。会社での私の立場はなくなった。上司が戻ってくる三日前にはとうとう私のデスクが処分されていた。この仕事が大好きだった、狡い人間に負けたくなかった。そう思えば思うほど、音を上げたのは私の体だった。鳴りやまない頭痛に眠れない夜が続く。何を食べても胃が受け付けなかった。
あの日、限界を迎えた私は気を失って倒れた。その時のことはよく覚えていないが、目を開けたらそこは社内の休憩スペースだった。会社の従業員が突然気を失って休憩室に運ばれるのか。硬い床にそのまま置いておくだけで。
「なんだよそれ……」
それでも誰かが私をここまで運んでくれたのだろう。強く握った拳にポタポタと水滴が零れ落ちた。
「なによ……」
もうだめだ。食い込んだ爪が痛い。
「笠桐さん!」
勢いよく休憩室のドアが開けられて、あの人が帰ってきた。
「戻ってきたら君が倒れたって聞いて、大丈夫かい?」
優しい人。あなたが繋げてくれたクライアントとの関係を壊して、あなたがいない間に何一つ成果も出さなかったのにそれを責めたりはしない。
「……めます」
「え?」
あなたは優しい人だから、きっと真実を知っても何もしないでしょう?大好きな奥さんを傷つける人になってしまうから。知ってる、これは始まった時点で私の負け戦だって。
「辞めます」
仕事のできる、優しいあなたが好きでした。憧れでした。あなたのようになりたかった。
でも、それと同じくらい優しいあなたが大嫌いです。
「調査の結果をお伝えしに来ました」
明日、千石さんのところに報告に行くから一緒に行くようにと言われて、私も一緒にお屋敷に向かった。
「今回も相変わらず仕事が早いね」
「時間をかけても同じ結論に辿り着くかと思いますので」
「構わんよ、君のことは信用している」
確かに仕事に対しての姿勢は真剣そのものだった。でも、智里さんの伴侶探しは本当に大丈夫なのだろうか。昨日は部屋の掃除をしただけだと思っていたけれど、本当は卒業アルバムでも探して誰かに会いに行ってみたりしてたのだろうか。
「では、報告させていただきますと」
紳士はこちらに背を向けて窓の外を見るようにして立っていた。
「智里さんの未来の旦那は探すべきではないという結論に至りました」
「はっ?」
私は思わず声を出してしまった。
「今必要なのは智里さんを理解することではないでしょうか」
「……私は君を助言者として雇ったわけではないよ」
落ち着いて聞こえるその声にどこか怒りを感じた。
「仰る通りです。ですので、全ての話を聞いて頂いた上で探すかどうかを判断して頂きたいのです」
紳士は振り返って大きくため息をついた。
「聞こうじゃないか」
きっとたくさんの人から同じことを言われてきたんだろう。大事なのはお嬢さんの気持ちですよ、とか、ありふれた言葉を。
「これを見てください」
「これは……」
これは何だろう?短い文章が書かれた少し古そうな紙。手紙だろうか。
「これは旦那様と奥様との文通ですね?」
この前何があったとか、他愛もないことが書かれた紙が何枚も出てきた。こんなにたくさんの文通をしてきたのか。
「失礼ですがこれらの手紙を読ませていただきました」
日付を見ればその文通がどれだけ続けられてきたのかが分かった。この紳士は長い遠距離恋愛を乗り越えて結ばれたのだろう。
「あなたの書く手紙にはよく花言葉が使われている」
花言葉、そう言われて手紙を見てみる。花の名前なんて書いていないじゃないか。一瞬そう思ってから気が付く。かいてあるのは便箋だ。便箋のデザインとして描かれているもの、切手に描かれているもの。言われてみれば確かに花が描かれていることが多い。
「滅多に会えることもない中で、お二人はそうして愛を育んできたのでしょう」
よく見ると、奥さんの手紙にもいつからか花がよく使われるようになっている。花言葉に気づいたのだろう。
「あなたの最後の手紙、これには何の花も描かれていません。でも」
「世界で一番きれいな花を迎えに行く」
紳士は少し恥ずかしそうに口を開いた。
「そう、書いてあります」
それは結婚の前に送られた手紙。奥さんのことをそう言うなんてなかなか素敵じゃないか。
「智里さんはこの答えを探しているんですよ」
「……どういうことだ、妻はもう生きてはいないぞ」
私たちには言っていることの意味が分からなかった。
「奥様は亡くなる少し前に智里さんにこれらの手紙を全て渡しています。彼女が植物学者になった理由は花言葉に惹かれたとかかもしれませんが、今の彼女を動かしているのは大好きなお母さんの最期の願いを叶えるためなんです」
「願い?」
「スイステラをご存じですか?」
佐賀さんは分厚い植物図鑑を広げた。
「北の寒い地域にしか咲かない希少な花で、その特徴は十二年に一度しか花を咲かせないことです」
十二年。その数字は。
「亡くなった年から十二年……」
佐賀さんは私を見て頷いた。待ってほしいと願った二年、それは、きっと。
「お母さんが亡くなった時に花を咲かせていたスイステラを、もう一度咲かせるために」
「……その花にはどんな意味が」
「意味はないよ」
少しだけ開かれていたドアから声がした。
「智里さん!」
ここに来るとは思ってもいなかったので私は驚いていた。彼女は腕組みをしたまま自分の父を見つめていた。
「佐賀さんは相変わらず博識だね。こんなことまで知っているとは思わなかったよ」
智里さんは堂々と歩いてきて佐賀さんの隣に立った。
「それともこれも視た知識で、付け焼刃なのかな」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「さあ? どうでしょう」
「智里……どういうことだ」
説明しなさい、まるで命令のような口調だと思った。
「そのままですよ、お父様」
彼女はそのまま図鑑に載っている花の絵を撫でた。わが子を慈しむかのような、美しく優しい動きだった。
「スイステラは意味を持たない。その希少さに、美しさに、見たものは言葉を失う。それがスイステラ。あなたの『世界で一番美しい花』はこの花のようになりたいと言った」
智里さんのお母さんが彼女にそう言い遺した。
「私は母をスイステラにしたいのです」
智里さんはまっすぐに父を見た。
「もう一度、あなたたちを逢わせたいのです」
千石さんはもう何も言わなかった。ただ俯いて肩を小さく震わせていた。
「智里さんはご両親が大好きだったんですね」
自分の人生をかけて、二人を再会させたい、願いを叶えたいと思うほどに。
あの大きな屋敷を出て、見送りに来てくれた智里さんと私たちは門へ向かっていた。
「そんなこともないさ」
感動していたところに思わぬ言葉が飛び込んできた。
「母は植物に詳しくはなかったからね。母が言いたかったのは何年かかってももう一度会いたいとか、再び離れることになろうとも自分たちにはもう花言葉は要らないとか、たぶんそういうこと」
智里さんは私の顔を見ていたずらっぽく笑った。
「スイステラを見たいのはただの私の我儘!」
「いやあ、さすが。ちゃっかりしてるよ」
その横でパチパチと佐賀さんは手を叩いた。
「何を言うんだ。それを言うなら佐賀さんじゃないか。本来の依頼の旦那探しから論点をすり替えたくせに」
確かに。この人は依頼内容をこなしてはいない。
「それに他人の手紙の記録を見るなんて趣味が悪すぎるね」
「必要があれば旦那は探しますよ?」
言い訳がましく佐賀さんは言う。
「まあ、結末が分かっている未来なんて楽しくないね」
「そう言うのが分かっていたからあなたがいたあの場で追及しなかったんですよ」
まったく、困ったお嬢さんだよ。佐賀さんはそう文句を言いながら千石亭を出た。
「まるで未来が分かるみたいな言い方して…」
なんて適当な人なんだ。
「知らないのかい?」
彼の不思議な能力の話を。
「別れの挨拶の邪魔は無粋だと思ったのだけれど」
とっくに事務所に向けて歩き出していた佐賀さんに追いつくために、私は息を切らしていた。
「あなたは……っ」
一度言葉を呑んで私は大きく息を吸った。
「あなたは、私を知っていたのですか」
その人はこちらを振り返ることはないままに歩みを止めた。
「私たちが、出会うことを」
「君はうちの従業員」
佐賀さんはこちらを向いて微笑んだ。
「帰ろう、私たちの事務所に」
そしてまた、その人は歩き出す。
「待って、意味が分かりません! なんでそんなことがわかるんですか!」
「一緒にいるうちにわかるようになるさ」
適当なことを、少し腹立たしく思いながらも、よくわからないこの人に私は少なからず興味を持ったのだった。
『彼は“出会い”が視える』
お読みいただきありがとうございます!一話はこれにて完結です。