1. 娘の伴侶(2)
「……どうして私までここにいるんですかね?」
依頼を受けたのが数刻前、和服の佐賀さんと私はなぜか二人で大きなお屋敷を訪れていた。
「君の業務内容に反していないよ」
確かにあの紙には業務の補佐も含まれていた。
「就職した覚えはありません」
「でも君は否定しなかった」
新人だと紹介されたとき、その時にはあの紳士がいた。あなたと違って高そうなスーツを着こなしたジェントルマンが。
「肯定した覚えもありませんし、何より書面での契約はしていませんので証拠はありません」
「君が否定しなかったのを目撃している人が二人もいるのに?」
二人?ああそうか、あの紳士の他にお茶を用意していた存在の薄い人物があの部屋には居たんだった。
「……今日だけですからね」
こんな変態に婿探しを任せるのは良くないと思ったからついてきただけだ。
「僕の周りには気の強い女性が多いねぇ」
佐賀さんは楽しそうに笑いながら戸を叩いた。
「こっちですか?」
彼がノックしたのは大きな屋敷ではなく、その少し東にある小さな家だった。小さなとは言っても、普通の一軒家くらいの大きさはある気がする。あの建物の隣にあるというだけでサイズ感覚が狂ってしまう。
「あっちの本館は家族のもので、こっちは娘さん専用の家だからね」
娘のために家を建てるのか。
「はーい」
重そうな木製のドアが開かれて、中から一人の女性が姿を現した。歳は私と変わらないくらいだろうか。ストレートの長い黒髪が艶やかに揺れ動いていた。
「おや、佐賀さん。また来たの?」
「また来ちゃいました」
さあ入って、お嬢さんは何の抵抗もなく佐賀さんを家に招き入れた。どうやら二人は知り合いらしい。
「今度はお父様からどんな頼まれごとをしたんだい?」
お邪魔します。私も佐賀さんに続いて土足のまま中の入ると、吹き抜けになっているリビングに通された。部屋の至る所に植物が置いてある。そのためか窓は広く、部屋はとても明るかった。
「そちらの女性は新しい相棒かな?」
「初めまして笠桐あすみと申します。依頼の補佐を……」
「彼女はここを掃除しに来てくれたんだ」
佐賀さんは私の言葉を遮った。
「それは有難いね」
お嬢さんは嬉しそうに私を見た。お湯が沸騰した音を聞いて、彼女はキッチンに向かう。
「コーヒーでいいかな?」
「ありがとうございます」
袋がガサガサいう音の後で豆を挽く音がした。普段はインスタントしか飲まない私にとっては貴重なコーヒーだ。
「たとえ身内であれ守秘義務があるものだよ」
真面目な顔で彼は私を覗き込み、小声で告げた。彼の言うとおりだ。私が言っていいようなことではない。
「すみません……」
「ここの一階は定期的に使用人が掃除に来るけれど、二階の彼女の部屋は使用人たちも入ることはない」
彼の静かな低い声がミルを回す音とともに聞こえてくる。
「だけど彼女は掃除が苦手でね。君の仕事はその部屋を片付けること。いいね?」
この仕事に対するプライドを見た気がして私は黙って頷いた。
「よろしく頼むね」
彼がゆるい顔に戻ってニコリと微笑んだ。
「お待たせ」
湯気のたつコーヒーカップを三つお盆にのせてお嬢さんは戻ってきた。
「私は千石智里。主に植物を研究しています」
私は差し出された智里さんの手を握った。
「にしても掃除のために依頼するなんて、お父様は佐賀さんのこと体のいい何でも屋だと思ってるんじゃないの?」
智里さんは笑いながら言った。佐賀さんも笑って談笑する。
「すっかり常連ですね」
和やかな雰囲気のまましばらくコーヒーを飲んで、それからようやく掃除を始めることにした。
「物が多くて申し訳ない」
彼女が少し照れくさそうに頭を掻く。床が見えないくらいに紙や本が散らばっている。似たような光景を別の場所でも見たがこちらのほうが床は少ない気がする。
「この部屋は全部論文とかだからページを揃えてまとめておいて」
「わ、分かりました」
学生時代に熱心に勉強をしていたわけではないので、これ全てが勉強のものかと思うと気が遠くなりそうだ。
「私は奥の寝室を片付けてくるよ。佐賀さんはこっちには立ち入り禁止だからね」
「女性の寝所に勝手に入り込むほど下賤な人間ではありませんよ」
嘘つけ、そんな人間じゃないならわざわざ忠告されたりしないだろ。
「じゃあ佐賀さんは論文よろしくね。あすみさんはこっち手伝って」
佐賀さんとは別で仕事をするのか。少しの不安を抱きながらも私たちは変態を残して寝室へ向かった。こちらの部屋もなかなか床がない。それでもたくさんの植物があって、なんだかいい香りがした。
「佐賀さんは意外と優しい人だから困らせるようなことしたくないけど」
智里さんは床を埋め尽くす紙の上に落ちていた枕を拾った。
「お父様に婚約者探しでも頼まれたんでしょ?」
私はその言葉にぎくりとする。
「やっぱりね」
彼女の真っ黒な瞳が私を見て、全てを理解したかのように視線は枕に戻された。
「最近は顔を合わせてもその話ばかり。いい歳なんだからとか、一人娘だからとか。余計なお世話だって、言ってるんだけどね」
困ったように彼女は笑う。その姿に私は少し同情する。親として、子どもを心配する気持ちは分からなくもない。それでもたくさんの草花に囲まれて幸せに笑ってる彼女を守りたい。彼女の人生だ。彼女が望むようにさせてあげたい。そう思ってしまう。
「私が結婚しないと後継ぎはいないし、いつかは誰かと一緒にならないといけない覚悟はできてる。でも私まだ二十四だよ? あと二年、少なくともあとそれだけ猶予が欲しい」
「……二年後に何かあるんですか?」
彼女は少し間を空けて「秘密」と言った。
「十年前に母が亡くなってから、お父様は余計に私の心配をするようになったの。心配してもらえるのは嬉しいことなんだけど……」
枕を優しくベッドに置いて、今度はバラバラの論文を拾い始めた。
「私はお父様にとって母の残したモノなのかなって思う時がある。私は一人の人間よって言ってやろうかしら」
少しいたずらっぽく智里さんは笑う。彼女の言わんとしていることは何となくわかった。智里さんを通じて奥さんのことを見ているということだろう。奥さんの宝物を代わりにずっと大切にしているような。
「智里さんの人生ですよ……」
だから生きたいように生きるべきです。たとえ望まれていたとしても、お母さんの宝物として生きるんじゃなくて。そう言いたい。けれど、私はそれを言うためにここに来たんじゃない。智里さんの生き方に口出しをすることが依頼ではない。
「ありがとう、あすみさん」
私の言いたい気持ちと、言えない事情を彼女は察してくれた。彼女はその綺麗な笑顔を私に向けた。
「さっさと片付けちゃおうか」
そのまま私たちは掃除を続けて、数時間後には見違えるほど綺麗な寝室を完成させた。
「やあ、遅かったね」
一階のリビングに戻ると既に片づけを終えた佐賀さんがくつろいで待っていた。こんなに早く片付けられるなら自分の事務所ももっときれいに使ったらどうだろうか。
「じゃあ、千石さんによろしく」
「ああ、ありがとう佐賀さん、あすみさん」
智里さんに別れを告げて私たちは事務所までの道を歩いていた。
「……あの……智里さんの結婚相手探し、本当にしないとダメなんでしょうか」
「どうして?」
「……智里さんは結婚を覚悟しているとは言っていましたが、望んでいません。少なくともあと二年は待ってほしいって言ってました。今は研究に専念することが彼女の望みなのではないでしょうか」
前を歩く佐賀さんは黙っていた。
「結婚するのは智里さんです。そこに彼女の意思は関係ないのでしょうか」
すっかり冷たくなった秋風が私たちの間を通って行った。
「クライアントの話を聞いて、望みを叶える。それは僕たちの仕事の基本だ」
佐賀さんの声はどこか冷たく感じた。
「今回の依頼主は誰だい?」
分かってる、分かっているけれど。やるせない思いが込み上げてきて、私は強く唇を噛んだ。
「本当に君は優しいね」
佐賀さんは振り返ってハンカチを差し出してきた。
「あなたに私の何がわかるんですか」
「知ってるよ、君のことならなんでも」
「……プライバシーの侵害です」
そう言うと変態ははははと笑った。
まるで本当に知っているみたいだと思った。
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