7. 愛情の向かう先(2)
「遅いですね」
先に食べ始めたお寿司はもう私たちの胃袋を満たし、それぞれが気の向くままにリラックスした時間を過ごしていた。残された一人分のお寿司は蓋をして冷蔵庫に入れてある。
時刻は九時を通り過ぎて、間もなく長い針は折り返し地点に到達する。
すると、廊下から足音が聞こえてきた。
「来たかもー」
ドアの一番近くに座って新聞を読んでいた佐賀さんがそう言うと仁穂ちゃんと警備員は姿勢を正した。あまりにも素早い動き。
「遅くなった」
ドアが開いて麻野さんが姿を見せる。数時間前に会った時には薄暗くて気が付かなかったが、目の下には隈ができていて、どことなく顔は青白い。いつもより覇気は無いかもしれないが、やはり怖いオーラを感じる。
「話って?」
警備員は隣室の冷蔵庫からお寿司を運んできて、ソファーに座った麻野さんの前に置く。ありがとう、そう言って蓋を開けた。おいしそうなお寿司に手を合わせる。
「あの時の火事だけど」
麻野さんはイカを醤油につけてぱくんと一口で食べた。
あの時の火事。それは秋真っただ中、猫探しの依頼から始まったとある親子の話だ。子ども二人が暮らしていた家が火事になった。二人は何とか無事だったものの、少しでも何かがずれていれば命が失われていたかもしれない。
「相良が俺に引き継がせたのもあってずっと調べていたんだけど」
そういえばあの現場で、佐賀さんは「特殊警察の麻野」に連絡するように言っていた。火事に反応した佐賀さんと調べていた麻野さん。私は麻野さんから聞いた佐賀さんの昔話を思い出した。佐賀さんが見つかったのはとある火事現場だった、と。
「聞き込みしても怪しい人影も出てこないし、母親はシロだったし、難航していたわけですが」
「もったいぶるなよ」
しびれを切らして佐賀さんは急かした。
子ども二人を放り捨てた母親。今は窃盗の容疑も含めて捕まっていることだろう。
「コンビニの防犯カメラに怪しげな人物を見つけた」
佐賀さんが身を乗り出す。
「ただ、時間がぴったりっていうだけでおかしな行動をしているわけじゃない。これだけで疑うのはどうか、という意見が強い」
見た方が分かりやすいだろう、と麻野さんはUSBメモリーを取り出した。それを警備員に渡すと私は揃ってパソコンの画面が見えるように移動した。麻野さんは黙々と食事を続ける。
「再生します」
三角を押すと動画が再生される。映像はカクカクと動いている。そこにはフードを深くかぶった男の子がいる。画面の端っこを歩いて、画面の外に出るギリギリでこちらを見た。彼は完全にカメラを見ていた。
「服装的に男。年齢は仁穂ちゃんより少し若いくらいか?」
粗い映像から読み取れる情報には限りがある。佐賀さんは顎に手を当てて画面を見ていた。
「もう少し解析します」
そう言って警備員はよくわからない画面を起動させた。
「怪しい根拠は?」
「フードと最後の視線」
フードを被っているのは確かに不審者っぽいかもしれない。防犯カメラをまっすぐに見るのも不自然ではある。
「それだけ?」
疑うには少し弱い、佐賀さんも同じ意見のようだった。
「他に映っていないんだ」
お寿司を食べ切った麻野さんが手を合わせる。
「火災現場やコンビニ近隣の他の防犯カメラにも映っていない。そもそも、その映像では現場に背を向けて歩いているが、逆が無いんだ」
「帰りの映像しかない、と」
この防犯カメラは道路も広く映るようになっている。同じ道を通っているのであれば、行きにも映っているはずだ。
「それと、その防犯カメラの時間」
そう言われてもう一度パソコンを覗き込む。しかし、警備員の作業中でどこを見たらいいのか分からなかった。
「火事が起きてから少し経っている。現場付近は気づいた野次馬が集まってくる頃だ」
「なるほど」
「でもフードを被った少年の歩く姿を誰一人目撃していない」
それはまるで、そんな子どもは元よりいなかったような。
「だからこそより一層不自然というわけか」
佐賀さんの言葉に麻野さんは頷く。人の目に映らないように工夫をしたのだとしたら、まるで気づかせるようなこの動きの意味が分からない。少年はどうして防犯カメラを見たのだろう。
「解析終わりました」
その声に引き寄せられるように私たちは画面を覗き込む。今度は麻野さんも加わった。
動画はさっきと同じようにカクカクとしているけれど、鮮明であった。少し離れたコンビニの看板がはっきりと映っている。
その動画に少年の姿が映る。ポケットに手を入れて歩いている。上は黒、下は青い。ジーパンだろうか。その少年が振り返ってカメラを見る。先ほどよりもはっきりとこちらを見ているのが分かる。
「止めて」
佐賀さんの声に合わせて、映像が止まる。こちらを向く少年を佐賀さんが凝視する。
「もう少し明るくなる?」
「はい」
警備員はパソコンの設定を変えて、画面を最大限明るくする。
ふと、私は少年を見たことがあると思った。一体、いつ見たのだろうか。
「この子、少し笑ってないか?」
私は少年の口元を見る。
「あ」
思わず出た声に視線が集まった。
「どうしたの?」
「え、いえ、確信が持てないので……」
「いいよ、何でもいい」
佐賀さんの視線に負けて、私はゆっくり口を開く。
「ま、間違いかもしれないんですけど」
右手の人差し指を少年の口元に当てる。
「見覚えがあるような気がして……。母親の元にゆいちゃんと三人で行ったとき、あの部屋から出てきた少年がいたじゃないですか……」
佐賀さんにぶつかって、それを詫びたときに見た口と似ている気がする。あの時の白髪の少年に。
「彼、髪の色が目立っていたから、それならフードを被っていた方が目立たないですし……」
佐賀さんは画面を見たままフリーズしている。髪色が見えるならまだしも、口の形だけで判断してしまったのはよくなかっただろうか。
「……ぶつかった子が、確かにいたね」
「ぶつかられたとき、佐賀さん不思議そうな顔していましたよね」
「うん……」
はっとして佐賀さんは私を見た。
「そうだ、その子がいた。どう考えたってあのタイミングで人がいるのは不自然だ!」
「それは誰だ?」
「いただろう! 千宜が現れたタイミングを考えたらあの子とすれ違っているはずだ!」
白髪の子ども。見かければ誰だって記憶に残るような目立つ子どもだった。
「俺が到着したときそんな子どもはいなかったが」
そう言って千宜さんは首をかしげる。
「相良だってそのことを報告書に書いていなかっただろう?」
「それは」
報告書、それはいつの日か佐賀さんが書くことを面倒くさがっていたあれだろうか。
「それは、忘れていたから……」
目立つ少年を? 佐賀さんも?
「あの少年、ぶつかったときに変な感じがしたんだ。そうだ、思い出した」
「なんで忘れちゃったんですか? あんなに特徴的な子だったのに」
それでも彼があの部屋から出てきたおかげでドアを開けることができて、追い返されることもなく話すことに成功したわけだが。そう考えるとあの少年は私たちのためにあのタイミングでドアを開けたみたいだ。
「仮に、その二人が実在して、同一人物だとすると……」
麻野さんはそう言ってパソコンに映る、こちらを向いてうっすらと微笑んでいる少年を見る。
「動き出した……」
ぽつりと佐賀さんは呟く。待っていた、そんな表情で彼は笑う。その姿はいつもと違って少し怖かった。
「記憶を消せるんだ、こいつは」
「待て、それは短絡的すぎる。お前の記憶がなくなったのは事故の可能性もあるし、その頃こいつはまだ幼稚園児くらいだろう」
「事故じゃない。事故で都合よく名前だけが残るものか」
遥か昔に火事の現場で佐賀さんが見つかったとき、彼は自分の名前だけを憶えていた。
「これは絶対に奴らが動き出した」
嬉しそうにしているのは佐賀さんだけだった。
「奴らって誰なんですか?」
「それは……相良の過去を知る者たちだ」
諦めたように麻野さんが語りだす。それは麻野さんのお父さんが現役だった頃まで遡る。
組織の発足に至った一つの事件。頭の無いバラバラにされた一人分の遺体が見つかった。ところが鑑定を進めている間に、バラバラのパーツそれぞれが違う人間のものであることが分かったのだ。一つの遺体から十一人分の細胞が検出された。それと合わせて、国内では扱っていない薬品、世界に存在しないはずの化学物質が検出された。その未知で奇妙な事件の捜査は困難を極め、迷宮入りすることとなる。
それでも、その遺体にはいくつかの共通点があった。十一人は完全な他人ではなく血の繋がった家族、親族である可能性が高いこと。いくつかのパーツには円状の何かを押し付けたような火傷の痕があったこと。
「ところが何かの手違いで遺体は火葬、埋葬されてしまった」
警察のミスになってしまったこの事件は必然的に隠されるようになる。こうして謎を多く残したまま幕が下ろされることになった事件。
「警察内部に共犯者がいることを疑ったことから、特殊警察に引き入れられる人間は今も一部の人間に限られている」
麻野さんのいる組織はそういった経緯があったのか。
「敵はこの一族に関わるものだと思っている」
「それがどうして佐賀さんの過去に繋がってくるんですか?」
そう聞くと、佐賀さんが突然服を脱ぎ始めた。そして、私にその背中を見せる。一面に、時には折り重なるようにして、丸い火傷の痕が残っている。その光景に私は言葉を失う。
「同じ、火傷の痕だよ」
「だから相良も『一族』に関わっている可能性が高い」
佐賀さんは寒いと言いながら急いで服を着なおす。
麻野さんたちが追っているものと、佐賀さんが追っているものは同じなんだ。
「奴らはずっと尻尾を見せなかった。それが今回はこんなに堂々と」
佐賀さんは目を伏せて言う。
「お手柄だね、あすみさん」
「いえ、そんな……」
この話は既に仁穂ちゃんや警備員は知っているようで、二人はずっと黙っていた。
「他に何か思い出すことはないか、不自然なことでも……」
言いかけて、麻野さんは止めた。何かを思い出したらしい。
「そういえば、誘拐された少年を捕らえていた体格のいい男は君が殺したのか?」
「殺してないです! むしろ殺されるところでした。ナイフも奪われてしまって、そのタイミングで、女の子が……」
私と麻野さんの目が合う。あの後で、気絶してしまったり、佐賀さんの昔話を聞いたり、それで都合よくあの怖かった記憶を思い返さないようにしていたんだ。
なんでもっと早く言わないんだ、と言いたげな表情をしながらも、麻野さんは言うのをこらえてくれた。
「まだ小学生くらいの女の子だったんですけど、『お兄ちゃんの頼み』で私を助けに来てくれたって言っていました」
女の子の顔を思い出そうとすると、襲い掛かってくる男と、死んでいく男の姿が見える。思わず、ぎゅっと自分の腕を抱きしめた。
「もし、他に思い出せそうなことがあったらいつでもいいから教えてくれ」
さすがにそれ以上聞くのは可哀そうだと思われたのか、麻野さんはあっさりと引いた。
「その少女も関わっているのであれば、これからも『一族』はあすみさんに接触してくることが増えるかもしれない」
佐賀さんは怯える私を見る。
「奴らが動き出した可能性があるから、これからはなるべく一人にならないようにしよう」
そして、これからも私は仁穂ちゃんの家で暮らすことが決まった。心配してくれた仁穂ちゃんはそれを快諾してくれて、正式に引っ越すことになった。
日中はサガシヤに、夜は仁穂ちゃんの家に。
家まで車で送ってくれるという麻野さんの好意に甘えることになった私たちは帰る支度をする。
「少し遠いところに車を置いてきたから少し待っていてくれ」
麻野さんはそう言って事務所から出ていく。その後ろを佐賀さんが追いかけていくのが見えた。
「千宜」
階段を降りようとした麻野さんが振り返る。
「取り柄もない彼女をサガシヤに引き入れたことはずっと疑問だった。でも、その訳がようやく分かった」
「分からなかったんだ」
皐月くんは機械に強い。仁穂ちゃんには鍵師としての力がある。サガシヤの中で平凡な私だけが異質だった。佐賀さんは、私との出会いが自分の過去を知ることに繋がるかもしれないことも視えたのかもしれない。そんな麻野さんの推察を彼はきっぱりと否定した。
「出会いだけがなぜか視えた」
こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。
「それでも、この機会を逃すつもりはない」
ようやく『一族』に繋がりそうなものが見えてきたのだ。真剣な眼差しで互いを見ていた。
「たとえどんな犠牲を払うことになったとしても」
「……お前ならそう言うと思っていたさ」
背中を向けて麻野さんは階段を下りて行く。
事務所に戻ってきた佐賀さんは少し暗い顔をしていたが誰も気にしなかった。そんな二人のやり取りは私の耳にも届いてはいなかった。
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