7. 愛情の向かう先(1)
真っ暗な部屋で目が覚めた。見慣れたデジタル時計には大きく「4:20」と書いてある。
「うーん……」
毛布にくるまれた体を丸くする。この季節は何をしても寒い。長時間眠るのは好きじゃないし、そろそろ起きても問題はないのだが、息を吸うだけで鼻を刺激する寒さの前に身を差し出すのは気が進まない。
そんな感情などお構いなしに腹の虫が鳴いた。
「おなかすいた……」
昨夜は食事をとらずに眠ってしまったからそのせいだろう。仕方なく毛布を背負ったまま、のそのそと動き出す。台所に行くまでに床に置いてあった埃をかぶった教科書の塔を倒してしまったが、気にすることはない。
やかんに水を入れてコンロに火をつける。ボッとついた炎は周囲を照らし、その熱に思わず両手を向けた。ほんのりと温かい空気が指先に届く。
「さむっ」
ぶるっと体が震えた。裸足で部屋を歩いてしまったせいだろう。靴下を取りに行きたいという思いと、ここから一歩も動きたくないという思いに葛藤する。
その間に目の前のカップ麺の準備をしよう。パッケージを破いて、半分だけその口を開ける。食事に関しては他力本願なこの生活にも慣れてきた。慣れてきた、というよりも戻ったというべきだろう。むしろ手作りの食事なんて日々が異質だったのだ。
「あつっ」
お湯が沸いたやかんから出る湯気が指に当たった。
火傷であれば冷やした方がいいけれど、この寒さの中流水に指をさらす覚悟などない。一瞬だったし、問題ない。無理矢理理由をつけてタイマーのスイッチを入れた。ビニール袋から割り箸を取り出して、パキッと割る。
「いなくなっちゃったなぁ」
なんてぽつんと呟いてみる。この家には彼女がいた痕跡だけが残っている。買い物用のエコバッグ、洗面所には二つの歯ブラシ。
「今頃何してるかな」
勝手にいなくなったことにしないで! と彼女が怒っている光景が目に浮かんで、仁穂は思わず微笑んだ。
カップラーメンを持って椅子に座る。蓋を開けると湯気と香りが辺りに広がった。今日は辛めのスープだ。きっと身体も温まるだろう。フーフーと息をかけてから一気に麺をすする。
「あふっ、あふっ」
ホクホクと口から白い息が出た。ヒリヒリとした刺激が口の中に広がる。体の芯に届くような感覚。
熱さと辛さに悶えながらも、すぐに完食してしまった。カップに両手を添えてグイっと一息に飲み干す。思わず息が漏れた。
そして、仁穂は壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。数字だけが並んでいる、シンプルなカレンダーには何も書かれてはいない。
「……お誕生日おめでとう」
毎年、この日はとある人のことを想う。ずっと一緒にいたはずなのに会った記憶など全くない大切な人。もしかしたら、そんな人はいないのかもしれない。本当は全部妄言だったのかもしれない。
「どこにいるのかな……」
それでも、その人が存在することを信じて思いを馳せる。遠く離れた地で、その人も同じようにしていると信じながら。
時は遡り、私が前の職場の上司と話をした日、その後で私たちは麻野さんの元に向かった。言うまでもなく、彼は激怒した。外出禁止命令が出ていたのに破ったからだ。そもそも仁穂ちゃんがしてしまったことの重大さにも怒っていたのもある。
それでも、仁穂ちゃんは麻野さんに面と向かって「ごめんなさい」と告げたのだった。
カンカンに怒っていた麻野さんの表情が少しだけ変わったのが分かった。
「それを言いに来ただけだから、もう家に帰ってちゃんと謹慎するよ」
そうやって佐賀さんは麻野さんをなだめる。麻野さんは首を垂れる仁穂ちゃんを前にして、はあー、と長い溜息をついた。
「いや、少し話がある」
仕方がなく、というように彼は口を開いた。いつか話そうとは思っていたが色々なことがあってタイミングを逃していたらしい。
「今日の夜事務所に行くから全員で待っていてくれ」
時間は少し遅くなるかもしれない。仁穂ちゃんのことでやらなきゃいけない仕事が増えてしまったらしい。皮肉っぽくそう言って麻野さんは仕事に戻ってしまった。
「戻ろうか」
私は俯いたままの仁穂ちゃんに言う。
「遅くなるかもしれないなら事務所で何か食べようか」
「寿司がいい」
間髪入れずに仁穂ちゃんの声がする。凹んでいるのかと思ったがそうではないらしい。元気がありそうでよかった。
「じゃあ買って帰ろうか」
佐賀さんは事務所にいる警備員に電話をする。わざわざ連絡しなくてもずっと事務所にいるではないか。そう思いながら見つめていると「ご飯食べないで待っていてね」と言った。
なるほど、そういうことか。
「あ、あすみさん」
車に乗り込もうとしている仁穂ちゃんが私を呼んだ。
「ありがとう」
恥ずかしいのか、彼女はこちらを向かなかった。思わず口元が緩んでふふっと笑ってしまう。
「こちらこそありがとう!」
仁穂ちゃんのおかげで私は覚悟ができたよ。私はサガシヤで働いていくんだって、堂々と言えるようになりたいと思えた。
そうだ、私はもう一つやらないといけないことがあったのだ。右ポケットからスマホを取り出し、連絡チャットを開く。最後に連絡をしたのは二か月ほど前。『たまには帰ってきなよ』というメッセージを既読無視している。
『転職しました』
ピロン、送信完了の音が鳴る。端折りすぎたかと思ったが、母ならきっと色々察してくれるだろう。
「あすみさん、置いていくよ?」
いつの間にか運転席に乗り込んでいる佐賀さんが言った。
「乗ります!」
まずはお寿司屋さんだね。近所の寿司屋を検索して、車は動き出した。
私たちは少し高めのお寿司屋さんに寄り道して、五人分のお寿司を握ってもらった。サガシヤだけの収入で成り立っているのが不思議だったが、警察の後ろ盾があるのなら納得がいく。
いつか潰れてしまいそうな個人事務所という顔はあくまでも表向きなもので、実際には警察に協力する事務所だ。警察が潰れない限り、サガシヤがなくなることはないだろう。
正確にはごく一部の警察が作った組織だが。そもそもその組織がどうして設立されたのか、組織に関しては私の知らないことがたくさんある。
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