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6. 待ちぼうけの胸の内(5)

「私は父と二人きりの家族だった」


 古びた畳と卓袱台がある質素な家。ご飯を食べる部屋と寝る部屋しかなかったから、おそらくどこかのアパートだったのだろう。


 贅沢な暮らしではなかったが父は仁穂をかわいがってくれた。朝も昼も夜も、おいしいご飯を作ってくれて。寝る前には絵本を読んでくれた。最初から母はいなかったし、祖父や祖母の存在も知らなかったが、父がいれば少しも寂しくはなかった。


 しかし、その父は週に二、三日連続で家を空けた。私が飢えて死なないように何日分もの食事を用意して。幼稚園や保育園には通っていなかったから、父がいない間、仁穂は一人で過ごす。冷蔵庫から取り出した冷たいご飯を食べて、真っ暗な部屋で絵本を読む声を聴かずに目を閉じる。

 あと何回日が昇ったら帰ってくるのか、仁穂にはわからない。ただひたすらにドアが開くのを待った。風の音がしたから、帰ってくるかもしれない。トイレの方で音がしたから帰ってきているかもしれない。今日は雨だから帰ってくるかもしれない。


 目を覚ました時、醤油の焦げたいい香りがして飛び起きる。台所には父がいて、久しぶりに会えた父に飛びついて抱きしめてもらう。そんな毎日を送っていた。


「私は父を待つのが嫌だった」


 自分を置いてどこかに行ってしまうのが嫌だった。だけどそれを伝えたことは一度もなかった。

 なぜなら父は仁穂の双子の姉の元に通っていたからだ。


「『今は一緒に暮らせないけれど、いつか必ず、もう一度三人で暮らそう』それが父の口癖だった」


 姉の名前は仁稀(にれ)という。

 仁穂は仁稀に会ったことはないが、父は定期的に会いに行っていた。もう一度三人で暮らすために。それがずっと父の願いだった。それに、父は必ず仁穂のいる家に帰ってきたから、一人で待つのも我慢できた。


「だけど、あの日から父は帰ってこなくなった……」


 とても寒い日だった。いつもみたいに父は行ってくるね、と告げた。仁穂は寂しい気持ちを抑えてこくんと頷く。不意に父の腕が仁穂の体を包んだ。いつもはこんなことしないのにどうして抱きしめるのだろう? 仁穂は不思議に思った。ごめんな、耳元で父はそう呟いた。


 父が家を出てしばらく経った頃、目を覚ますと外が真っ白の雪で埋め尽くされていた。父がいたら一緒に遊びに行けるのに。そんなことを考えながら外を眺めていると玄関の鍵が開けられる音がした。父だ。帰って来たんだ。仁穂は玄関まで走って、開けられたドアを見た。

 そこには見たことのない人が立っていた。大きなマフラーを巻いたその人は、もう二度と父が帰って来ないこと、この家を捨てて自分と共に来ることを告げた。帰って来ないなんてありえない。仁穂はその人を拒絶した。


 何日かその人は家にいた。父が作ってくれた冷蔵庫のご飯がなくなって、それでも父は帰って来なかった。

 もう帰って来ない、その人は仁穂の腕を掴んで家を出た。

 嫌だ、帰ってくるから。勝手に外に出ちゃいけないから。

 力の限り拒んでも無力だった。


「その連れ出した人が鍵師の師匠」


 その人は仁穂に最低限の生きる知恵を教えた。食べられる野草の見分け方、鍵を開ける技術、ナイフの使い方、文字の書き方に簡単な計算。山の中の小屋のような家で二人で過ごした。


「師匠は誰かと暮らすのが嫌いな人で、私と暮らすのもたぶんすごく嫌だったと思う」


 ある日、また、同じように突然、師匠は帰って来なくなった。むしろ師匠がいなくなることは想像ついたというか、とうとうこの日が来たか、程度に思った。

 仁穂は師匠に教わった通り、街に出て、金がありそうな家を物色した。鍵師として初めて侵入する家を。そうして仁穂は大きな塀に囲われた家を選んで侵入を試みた。


『こんばんは。いい夜だね』


 塀を越えた先、そこには何十人もの警察と、その中央には和服を着た若い男が立っていた。

 予告をしたわけでもないのに、どうしてこんなに人がいるんだ。


「私はそうやってあの変態に捕まって、協力者としてサガシヤに身を置くことになった」






 仁穂ちゃんはずっとこの家に一人で。お父さんが帰って来なかった痛みにずっと耐えていたんだ。佐賀さんは仁穂ちゃんのお父さんも探していると言っていたけれど、仁穂ちゃんの口調からはそれを感じられなかった。まるでもう諦めているような。

 置いていかないで、そう言った仁穂ちゃんの姿を思い出す。いつも一人でいるのは、もう二度と大切な誰かに置いていかれたくないから。大切な人を作らないように彼女は孤独を選んでいたんだ。


「一人じゃないよ」


 私は仁穂ちゃんを抱きしめる。


「私はどこにも行かないから」


 私は絶対、仁穂ちゃんに何も言わずにいなくなったりしない。


「うん……」


 仁穂ちゃんは私の背中に腕を回した。


「あんたは綺麗なままでいてね……」

「どういう意味?」

「私らみたいにはならないで」


 私には仁穂ちゃんの言いたいことが何となくわかった気がした。


「仁穂ちゃん」

「うん?」

「一緒に謝りに行こうか」


 今も麻野さんは仁穂ちゃんを守るために頑張ってくれているはずだ。仁穂ちゃんを庇うのは鍵師としての能力のためかもしれないけれど、そのおかげで彼女は普通の女の子として生きていけるんだ。少なくとも師匠に教わったような生き方はしなくていい。


「ね?」


 悪いことをしたら謝らなくちゃいけない。仁穂ちゃんはまだ子どもで、責任を取ることなんてできないけれど、謝罪をすること、感謝をすることは誰にでもできる。


「うん」


 私は仁穂ちゃんの頭を撫でた。


「その前に少しだけ、用事を済ませてきてもいいかな?」

「どこに行くの?」


 仁穂ちゃんには少しだけ待っていてもらうことになる。


「けじめをつけてくるよ」


 私はスマホに視線を向けた。それに気づいた仁穂ちゃんは待ってる、と言った。


「仁穂ちゃんのおかげで決心がついたよ。ありがとう」

「行ってらっしゃい」


お読みいただきありがとうございます。

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