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6. 待ちぼうけの胸の内(4)

 家に帰ると誰かがいる。その人は食事を作ってくれて、生まれて初めてお弁当を食べた。温かくもないご飯がおいしく感じたのも初めてのことだった。

 どれほど冷たく接してもその人はずっと家で待っていた。家に帰ってきたことに気が付くと笑顔を向けて「おかえり」と言ってくる。


 それがあの頃の自分に重なって、どうしようもなく苦しかった。


 白い息を吐きながら公園のブランコに乗ってコーヒーを飲む。もうすっかり冬だ。頬に刺さる冷たい風が心地良い。


「どうしようかな……」


 仁穂はそう言いながらスマホを取り出す。特に依頼もない、やることがない夜は好きじゃない。長い夜は嫌いだ。

 発信履歴を表示して一番上の番号に電話をかけた。


『……もしもし』


 電話の相手は眠そうな声だった。


「引きニートのくせに何寝てんの? 早く調べて欲しいんだけど」

『僕にも眠る権利くらい……』

「いいから早くして」


 サガシヤのちっぽけな仕事では仁穂は満足できなかった。麻野に見つからないように密かに泥棒の真似事をする。個人経営の小さな事務所とかがいい。例えばサガシヤみたいな。


「早くしてよ」


 急がないと電車が止まってしまう。面倒だから往路は歩きたくない。


『こことかいいんじゃないですか、駅から少し遠いですけど』


 そう言って警備員はターゲットの情報を読み上げる。


『僕が関わってるって絶対にばらさないで下さいよ?』

「はいはい」


 こういうことをしたら怒られるのは目に見える。下手したら隠蔽された諸々の犯行も引っ張り出されて刑務所行きなんてことになりかねない。


『最近は減っていると思ってたんですけど、ここ数日は毎日じゃないですか。そんなにあの人と暮らすの嫌なんですか?』


 警備員のくせに電話越しだとよく話す。仁穂は奥歯を噛んだ。


「誰だって嫌でしょ。あの人は汚れてないんだから」

『……まぁ、そうですね』


 仁穂は俯いた。あの人と自分は同じだけど、決定的に違う。


『それじゃあ、切ります』


 電話が切れても仁穂はしばらくスマホを耳に当てていた。


「……行くか」


 いけないと分かっていても続けるのは、ぬるま湯みたいなところにいたら腕がなまるから。自分にはこれしかないと痛感しているから。この技術だけが、唯一手の中に残ったものだから。






「お前はしばらく自宅謹慎だ‼」


 共同生活を始めて八日目の朝、初めて夜のうちに戻ってこなかった仁穂ちゃんは麻野さんに連れられて帰ってきた。般若のような形相をしている麻野さんは仁穂ちゃんの首根っこを掴んで家に投げ入れた。


「お前も大人なら夜に出歩く中学生を注意しろ!」


 その怒りの火の粉は私にまで飛んできた。一体何があったのだろう。


「お前が普通に生活できる理由をよく考えろ! 一歩も家から出るなよ!」


 麻野さんはそう言い残して力いっぱいドアを閉めた。私は倒れたままの仁穂ちゃんに駆け寄った。


「どうしたの?」


 麻野さんは夜に出歩いたことをそんなに怒っているのだろうか。仁穂ちゃんの顔には殴られたような痕があった。


「何でもない……」


 仁穂ちゃんは腹部を抑えて立ち上がる。痛そうに見える顔よりも、服に隠れたお腹の方が殴られたのだろうか。

 それでも、女の子を殴るなんてひどいじゃないか。

 腕にはどこかにぶつけて切れたような出血があった。


「消毒しよう?」

「いい、ほっといて」


 バタンとドアを閉めて、仁穂ちゃんは私に貸してくれた部屋に閉じこもってしまった。

 不意にポケットのスマホが鳴る。着信、登録して間もない事務所の電話からだった。


「もしもし?」

『お疲れ様ー』


 久しぶりの佐賀さんの声。その奥からキーボードをタイピングしている音が聞こえてくる。


「お疲れ様です」

『千宜が仁穂ちゃんを連れて帰ったと思うけどしばらく家から出ないように監視しておいて』

「何があったんですか?」


 そう聞くと、彼は少し困ったような声で事の経緯を語り始めた。

 昨夜、個人経営の小さな会社に不法侵入したということだった。偶然、室内で居眠りをしていたオーナーに見つかり、殴る蹴るなどされたらしい。同様の事件はここ数日で何件か起きており、どれも特に盗まれた物は無いと見られている。


「その犯人が仁穂ちゃん……」

『僕たちは自由にさせてもらっている身だからこういうことはあってはならないんだけどね』


 させてもらっている。その言葉が刺さる。


『……まだ仁穂ちゃんは子どもだし、千宜が何とかしてくれると思うんだけど』

「だからあんなに怒っていたんですね」

『そりゃそうだ。部下の失敗の責任をとるのは上司の務めさ』


 初めて会ったとき、なんて怖い人なんだろうと思った。でも、その印象は知れば知るほど薄れていく。麻野さんはただ、佐賀さんを、サガシヤを守りたいんだ。そのためには権力が必要で。


『彼女のこと任せるね』

「はい」


 これ以上仁穂ちゃんが問題を起こさないように。

 電話が切れた。私はポケットにスマホを戻してキッチンに向かった。

 嬉しくても悲しくても不機嫌だとしても、お腹は空く。


 話をしよう、仁穂ちゃん。


 言葉じゃなくてもいい。私の想いが料理を通じて届けばいい。

 家族がいないとしても。仁穂ちゃんが犯罪者だったとしても。絶対一人になんかしない。


「ご飯、できたよ」


 私はドアをノックした。温かいポタージュスープと、ナスとトマトのドリア。机の上にはスプーンの用意もできていた。


「仁穂ちゃん」


 今までもこうやって声をかけても一緒にご飯を食べてくれないこともあった。けれどもう、そういう訳にはいかない。


「開けるよ」


 そう言って問答無用でドアを開けた。私は仁穂ちゃんを監視しないといけないし、佐賀さんに任された。それに、悪いことをしたのは変わらないわけで、そこはしっかり反省してもらわないといけない。


「なに……」


 仁穂ちゃんは窓際に座って外を眺めていた。


「ご飯だから、早く来なさい」


 彼女は少し悩んで、仕方なく立ち上がった。ゆっくりと歩いておとなしく席についた。

 並んだご飯をしばらく見つめてから、スプーンを握る。


「いただきます」


 食べ始めようとする彼女に私はわざとらしく大きな声で言った。


「……いただきます」


 その姿を見て、私は少し安心した。


 成長期の仁穂ちゃんはあっという間に食べ終わった。そしてまた部屋に籠ってしまった。


「買い物に行かないと」


 私は冷蔵庫を開ける。私が来てから随分と食材が増えた。この冷蔵庫がこんなに使われるのは初めてなのでは。

 スマホのメモを開き、買うものをまとめる。書き出してから行かないと何時間も買い物してしまうタイプの人間なので、この作業は必須だ。


「こんなもんかな」


 買い物に行くことをわざわざ伝えるのもなぁ、と思って、私は何も告げずに家を出た。


 大きなマイバッグいっぱいに食材を買ってしまった。安売りに負けて予定外の物を買ったせいだ。

 重たい荷物に悲鳴を上げながら、何とか玄関のドアを開けた。


「ただいまー」


 バタン。

 大きな音がして顔を上げる。そこには、籠っていた部屋から出てきた仁穂ちゃんがいて、今にも泣きだしそうな目でこちらを見ていた。


「どうしたの?」


 私は荷物を適当に置いて、靴も揃えずに仁穂ちゃんに駆け寄った。ぎゅっと抱きしめると彼女の瞳からぽろりと涙が落ちた。


「どうしたの?」


 いつもは気が強い仁穂ちゃんの初めて見る姿に戸惑いを隠せなかった。


「……かないで」


 仁穂ちゃんの目はまっすぐ私を見ているようで、私じゃない誰かを見ているようにも感じた。


「置いていかないで……」


 それが誰に向けられた言葉なのか。私にはわからない。


「置いていかないよ。ずっと一緒にいるよ」


 この子は今までもこうやって、大切な人を失ってきたのかもしれない。

 少し落ち着いたのか、仁穂ちゃんは私から離れた。


「お茶にしようか? おいしそうなお団子買ってきたの」


 お湯を沸かしてくれる? と聞くと、彼女は素直にやかんに水を入れて火にかけた。私はバッグの中からお団子を取り出す。出張販売に来ていた和菓子屋さんがあまりにもおいしそうで買ってしまったのだ。

 コップにフルーツティーのパックを用意して、お湯を注ぐ。桃のいい香りが辺りに広がった。お菓子はお団子だから、煎茶やほうじ茶を飲みたいところだが無いので仕方ない。


「どうぞ」


 私は仁穂ちゃんにコップとお団子を差し出した。みたらし、餡子、ずんだ。どれもつやつやしておいしそうだ。


「待つのは怖い……」

「怖い?」


 仁穂ちゃんは手を付けずにそう切り出した。


「父親は私を置いていなくなってしまったから……」


 温かなコップに両手を添えて一口、彼女は飲んだ。そして、ゆっくりと仁穂ちゃんは自分のことを話してくれた。

お読みいただきありがとうございます。

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