6. 待ちぼうけの胸の内(3)
「別にいいけど」
メールを送ってから少しして仁穂ちゃんはそう言って現れた。温かいピザを抱えた佐賀さんと共に。
「仁穂ちゃん学校は?」
「うるさいな、早く、ピザ」
ソファーに腰かけてここに置けと、仁穂ちゃんはテーブルを叩く。
今は平日の昼。間違いなく学校はある。
「ちゃんと通わないと学校に千宜が行くことになっちゃうよ?」
「一日くらい平気だよ!」
強面警察官の麻野さんが苦手な仁穂ちゃんはそう言いながらピザに食らいついた。その姿を見て佐賀さんは小さくため息をつく。
「とりあえず、あすみさんは仁穂ちゃんの家に避難することにしたんだね?」
「はい。お世話になります」
私は仁穂ちゃんに頭を下げる。食べ終わったら一度家に帰って必要最低限の荷物だけを用意しなくては。
想定外の増員のためにピザはあっという間になくなった。
「うーん、足りなかったかなぁ」
佐賀さんはそう言って自分の腹部に手を当てる。仁穂ちゃんは相変わらず偉そうに警備員にお茶を運ばせていた。
「佐賀さん」
私は事務所を出た佐賀さんを呼び止めた。ぎゅっと拳を握る。
「依頼のことならとりあえず気にしないで避難したらいいよ」
緩い笑顔がこちらを向く。
「違うんです、そのことじゃなくて」
ずっと気がかりだった。本人のいないところで色々なことを知ってしまったこと。前髪がかかっていていることが多いあなたの右眼が義眼であることも。
「昨日、麻野さんに色々聞いてしまって、佐賀さんのことを……」
「ああ、そのことか」
深刻そうに俯く私とは対照的に佐賀さんの声は明るかった。
「千宜から聞いたよ。ここに居れることになってよかったね」
「そうじゃなくて、あなたのことを知ってしまって……」
どう考えてもそれはあなたの抱える大きな問題なのに。
「全然知ってないよ」
佐賀さんは近くまで来て、私の両頬を手で覆った。
「触れれば出会いが視える。そのはずなのに僕には僕の知らない過去がある」
麻野さんが言っていた。すべての瞬間に出会いがあるから佐賀さんは過去も未来も視ることができるのだと。
「僕がサガシヤをやる理由、千宜の下で働く理由をあいつは知らない」
頬に触れる佐賀さんの手は少しだけ冷たかった。近づいた前髪の隙間から熱を帯びない瞳が見える。
「過去を探すため……?」
そう言うと佐賀さんは笑って私から離れていった。
「あすみさん、君は立派なサガシヤになってくれ」
いつの日か、同じことを言われた。あれは猫探しの依頼の帰り道。
階段を下りて行った佐賀さんの姿はすぐに見えなくなった。
「佐賀さんは私に何をさせたいんだろう?」
ヒントを与えて、この人は私に何かを探させようとしている。
「ねぇ」
声がして振り向くとそこには仁穂ちゃんが立っていた。
「手伝ってほしいなら今ならやってあげるけど」
「あ、うん! お願いします!」
私は急いで仁穂ちゃんの家に引っ越す支度をした。とは言っても、短い間の居候だ。少し大きめのバッグ二つに荷物を詰めて家を出た。
仁穂ちゃんの家はサガシヤの事務所から電車で二駅の所にあった。古びたアパートの一階。郵便受けにはたくさんの紙が入ったままの部屋がある。夜、暗くなったらこの辺りは危ないんじゃないかと思うくらい、街灯も少なそうな閑静な場所だった。
パーカーのポケットから鍵を取り出して仁穂ちゃんはドアを開けた。
「入れば」
「ありがとう」
私はゆっくり中に入る。屋内はより一層暗く感じる。靴を脱いで床を踏むとギィと軋む音がした。
「こっち」
あまり広くないように感じたアパートだがダイニングの反対に部屋があった。
「この部屋使って」
「いいの?」
そう聞くと仁穂ちゃんはこくんと頷いた。
「元々この部屋はただの荷物置き場だし」
いくつかある棚には学校の教科書が雑に置かれている。その隣には見たことのない工具がある。彼女の仕事道具だろうか。
「ありがとう」
私は荷物を下ろす。
「台所は好きに使って。私の物には勝手に触らないで」
「うん」
仁穂ちゃんはそう言い残して部屋を出る。少し分厚いコートを着て、どこかに出掛ける支度を始めた。
「どこか行くの?」
もうすぐ日が暮れる。オレンジ色の光が窓から微かに射していた。
「どこに行こうとあんたに関係ないから」
突き放すようにそう言われて、私は一瞬固まった。その隙に仁穂ちゃんは足早に行ってしまう
「い、行ってらっしゃい……」
遠ざかる背中にそう呟いた。いきなり同居なんて迷惑だったに違いない。私と仁穂ちゃんはまだそこまで仲良くなれていないのに。年齢的にも色々複雑な時期だろう。
「無神経だったかな……」
私は床を鳴らしながらダイニングに歩いた。
コンロの周りは綺麗だった。シンクにはカップ麺のゴミがたくさん積み重ねられている。冷蔵庫を開けてもほとんど何も入っていない。とっくに賞味期限を迎えた調味料がいくつか並んでいる。
「食生活が心配だよ」
そう言って苦笑いをした。親がいない、前に佐賀さんから聞いた。ある日を境に帰ってこなくなったのだと。仁穂ちゃんにとって誰かと暮らすということは不慣れなことなのかもしれない。
私は近所のスーパーに買い物に行き、急いでハンバーグを作った。玉ねぎと人参をたっぷり入れて。これが食生活の改善に繋がるといいのだけれど。
時計を見ると時刻は八時を超えていた。少しずつハンバーグは冷たくなっていく。自分の分を食べて、もう一つのお皿にはラップをかけた。シャワーを浴びて、寝巻に着替えて。そして、日付が変わった。仁穂ちゃんはそれでも帰ってこなかった。
「どこ行っちゃったんだろう……」
まだ中学生なのに。出歩いていいはずがない。けれど私は彼女が行きそうな場所など知らない。探しに行きたくてもどこに行けばいいのか分からない。ここで待っていることしかできない。
待つことしかできないのはもどかしい。
私はそんなことを考えながらテーブルに頭を伏せた。
「ん……?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。どのくらい時間が経ったのだろう。体を起こそうとしたとき、ギィと音が聞こえた。
音のする方を見ると驚いた顔をしている仁穂ちゃんがいた。
「あ、おかえりなさい」
寝ちゃった、私はそう言って頭を掻く。
「そうだ、夜ご飯は食べた?」
「え、うん……」
「そっか、じゃあ明日にでもこれ食べてよ」
ラップをかけてあるハンバーグの乗ったお皿を冷蔵庫へ入れる。
「それじゃあおやすみ」
帰ってきてくれてよかった。私は仁穂ちゃんが貸してくれた部屋に行き持参した寝袋に潜った。
「なんで、起きてんの……」
そんな仁穂ちゃんの呟きが聞こえたような気がした。
しばらくして再び目が覚めた。隣室からパタパタと音が聞こえる。ダイニングと廊下は床の音が違うのか。そんなことを考えながらうっすらと目を開けた。
外はもう明るいようで、私の荷物が入ったバッグがくっきりと見えた。
カラカラと窓が開けられる音がする。
「仁穂ちゃん、もう起きたんだ……」
帰ってきてからまだあまり時間が経っていないのではないか。手探りでスマホを探して電源ボタンを押した。
「充電……」
残量が残り数パーセントを告げる通知が来てしまっていたが、幸いにも電源は切れていなかった。時刻は七時過ぎ。
「おはよう」
寝袋を抜けてダイニングに顔を出す。洗濯物を干し終えた彼女はカラカラと窓を閉めた。
「早く起きて偉いね。いつもこんなに早く起きてるの?」
夜遅くまで出歩いていたし、昨日の様子からも学校に熱心に通っているわけではなさそうだから、遅刻ギリギリまで寝ているかと思った。
「別に」
ああ、でも、よく考えれば初めて一緒に仕事をした日、彼女は遅刻することなく早朝の集合に間に合っていた。
仁穂ちゃんは私の横を通り抜けて玄関に座り込む。玄関には既に通学用のリュックが置かれていた。
「もう行くの? 気を付けてね」
バタン。
なんだか昨日も同じことがあった気がする。何も言わずに家を出てしまった。違うのは、行き先が分かっていることと、外が明るいことくらいだろうか。
私は口を大きく開けて欠伸をした。事務所に元上司が来るかもしれないから無理に出勤しなくていいと佐賀さんに言われた。この有り余った時間をどう使ったいいのだろうか。
「あっ」
シンクに置かれたお皿に目が留まる。それは昨日私がハンバーグをのせていたお皿だった。
「食べてくれたんだ」
何だかとてもほっこりした。仁穂ちゃんは口数が多いわけじゃないし、表情が豊かなわけでもない。でも、綺麗に食べられたお皿を見て、本当の仁穂ちゃんの姿が見えたような気がした。
それから、私と仁穂ちゃんの共同生活が始まった。その中で幾つか気づいたことがある。
仁穂ちゃんは毎日ちゃんと学校へ行っている。学校は麻野さんに言われて通っている。仁穂ちゃんは麻野さんが苦手だから、嫌々通っているのかと思ったがそうとも言い切れない。ちゃんと宿題はするし、配布された保護者向けのプリントなんかもしっかり読んでいた。私に学校の話はしないから、どんな風に過ごしているのかは分からないけれど。
ご飯は用意しておけば全部食べてくれる。好き嫌いは特にないみたいで、今のところは完食してくれている。迷惑かと思ったが、お弁当を作ってみたらちゃんと持って行って食べてくれた。夕食は一緒に食べてくれることもあった。
そして、夜が更けてから仁穂ちゃんはよく出かけた。どこに行っているのかは分からないがいつも帰ってくるのは丑三つ時だ。何をしているのか気になったけれど居候させてもらっている身で口出しをするのは何だか気が引けて、私はいつも黙って帰りを待っていた。
彼女は毎日六時過ぎに起きる。遅く寝て早く起きる生活は大変そうだが、彼女が眠そうにしているところは見たことがない。あまり眠らなくても平気な体なのだろう。
いつまでもこうしているわけにはいかないと思いながらも、どうしたらいいのか分からず、頭を悩ませる。会いたくないのだ。会って、何かを言われるのが怖い。そうして逃げて、もうすぐ一週間がたとうとしていた。
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