6. 待ちぼうけの胸の内(2)
「イラッ、おはよう」
イラッシャイマセ、そう言いそうになったところで入ってきたのが私だと気づいた。
「おはようございます、涼さん」
「伝えたけど、全然気にしてなさそうだよ」
「ありがとうございます」
そんな気はしていた。いつも私が出勤してから彼らは起床する。むしろまだ眠っているんじゃないだろうか。
階段を上って事務所のドアを開ける。
「すみません、遅くなりました」
そこには普段着に着替えて真面目そうに仕事をする佐賀さんと警備員の姿があった。よく見るとテーブルには湯飲みが二つ、向かい合うように置いてある。
「お早いですね……」
「まあ今日は千宜の家から来たからね」
そう言えば、昨日麻野さんが言っていた。
「それに今日は朝から一組お客さんが来ることになっていたし」
「えっ」
隣の部屋から警備員がお盆を持って現れた。
「下に電話をかけた理由は何となく想像つきますけど、そんなことしなくても呟いてくれたら十分ですよ」
「確かに」
それなら電車に乗ってからでも大丈夫だし、一番確実に伝えられる気がする。ネット中毒者の彼であればすぐに見つけてくれただろう。
「兎にも角にも、遅刻は誰も気にしてないよ。それより怪我は大丈夫?」
「それは問題ないです。全体的にかすり傷ですよ」
佐賀さんこそ大丈夫なんですか、そう聞こうとして止めた。本人のいないところであの話を知ってしまったことを少し後ろめたく思っているのかもしれない。
「……それより、お客様のご依頼は?」
「ああ、それね」
社長用のデスクの引き出しを開けて、佐賀さんはホチキスで束ねられた数枚の紙を取り出した。
「人探しなんだよね」
「難しいんですか?」
その表情は晴れやかではなかった。少し前の猫探しの時にはすぐに情報を集めて簡単そうに解決していたが、今回はそんなことないのだろうか。
「とある女性を探しているらしいんだ。依頼人はその女性の上司」
「なるほど」
「依頼人が出張から戻ったら急に会社を辞めると言い出してしまって、それから行方が分からないらしい」
「なるほど……?」
「女性の名前は笠桐あすみさんというんだけど心当たりあるかな?」
「どう考えても私ですね」
だよね、という顔をして佐賀さんは私を見る。
「はあー……」
どうして今更、私を探そうだなんて。今日ばかりは遅刻してよかったかもしれない。絶対に会いたくない。どんな顔をして会えばいいのだろう。
会社にたくさんのファンがいた上司。仕事もできる、指導もうまい。心から尊敬していた。こんな風に仕事ができるようになりたいと努力すればするほど周りの人たちに疎まれて。色んな嫌がらせをされて、そして私は倒れた。もう無理だ、体は心にそう訴えた。
「住所変わってないんですけど……」
「同僚が間違ってデータを削除しちゃったらしいよ。だから今本社に掛け合ってるって。まあ、しばらくかかるみたいだけど」
私は自分の腕をぎゅっと掴む。私を嫌がる誰かがわざとやったんだ。もう辞めたのに、どうしてまだ私のことを渦中に引き留めるんだろう。
「どうする?」
佐賀さんは持っていた紙をひらひらさせた。ご丁寧にそこには私の写真まで貼られていた。全部視ていて、私に委ねているのだろう。
「とりあえず、私の写真をあなたが持っているのはキモいので没収します」
「あっ」
私は佐賀さんの手から書類を奪い取る。
「……依頼を受けたならやらない以外の選択肢なんてないんじゃないですか」
私の胸元で紙がくしゃりと音をたてる。
「いや、受けてないよ?」
「え?」
佐賀さんは立ち上がって私に近づいてくる。
「勝手に受けたりしないよ。あすみさんはうちの大事な従業員だ」
真面目な顔をして言ってくるので少し恥ずかしくなった。
「どうするんですか……?」
「君が嫌ならその依頼は受けない。何なら彼を出禁にしてもいい」
それはサガシヤの信頼を損なうのでは。どうしたらいいのか、私は強く握った紙を眺めた。
「少し、時間を下さい」
私はそう言って隣室に入ってドアを閉めた。ドアに背中を付けてその場にしゃがみこむ。唇を軽く噛んでスマホを取り出した。あの日からずっと見ないようにしていた、会社で使っていたメールアドレスの受信履歴を見る。何通も何通もメールは来ていた。どれも未読のしるしがついたままだ。
その中で一番古いメールをタップする。パッと画面が切り替わってたくさん並んだ小さな文字が表示された。
【君が急に辞めると言い出すなんて】
【体調は大丈夫ですか?】
【私の配慮が足りていなかった】
【今はどこに】
【誰も君を責めていない】
【気にしなくていい】
【戻ってきていいんだよ】
私の眼は文字を追う。何回もスクロールしてようやく最後に辿り着いた。
「ははっ」
思わず笑ってしまう。誰に何を言われたのか知らないが何となく想像はできた。私が何度も失敗して、それで気が滅入って辞めると言い出した。そういうことになっているらしい。私は辞める理由をあの人に伝えたわけではない。その後のことなんてどうでもよかったから。
【一緒に謝ろう】
もう吐き気がした。迷惑をかけた取引先にも、会社の同僚にも一緒に謝ろう? しっかり仕事ができるようになるまで面倒を見るから?
「ふざけんな……っ」
スワイプして次々メールを読んでいく。どれもこれも書いてあることに大差はない。どこまでも私が悪くて、いつの日からか時間が経つほど関係の修復は難しくなるという言葉まで付け加えられるようになった。
【君を探すことにした】
最新のメールにそう書いてあった。自分が失敗してしまったから出てきにくいのだろうと推察されている。
「意味わかんない……」
私の目から大粒の涙がこぼれた。仕事ができる上司。優しい上司。憧れの上司。その姿がどんどん崩れていく。私はあなたの奥さんやファンたちの嫉妬によって追い込まれたのに。一方の話だけ聞いて、決めつけて。こんなのただの偽善者だ。
苦しかったら逃げればいいなんてよく聞く。だけど、逃げたところで私の名誉は回復されない。むしろ加害者は自分たちの保身のために都合のいいことを言うのだ。
こんなの、逃げても逃げても首が絞まるだけだ。
「悔しい……」
そんなのは全部嘘だ。私にはそれを言う勇気がない。立ち向かうことなんてできない。
「あすみさん」
ドアの向こうから佐賀さんの声がした。
「僕たちは知っているからね」
優しい声色。そうだ、この人は全部視ているんだ。この人だけは真実を知ってくれているんだ。
「お昼、ピザでも買ってこようか。テイクアウトだと半額だから」
「無難にマルゲリータがいいです」
二人は決してドアを開けようとしなかった。お昼ご飯に何を買うか、その話し声だけが聞こえてくる。私にはこの距離感が心地よかった。
「私はシーフードが食べたいです」
そう言った声は少し震えていた。
「うん、じゃあ買ってくるね」
佐賀さんはそう言って部屋から出ていく。
「僕は」
突然、警備員が話を始めた。
「あなたに何が起きたのかとか、分からないですけど」
なんて声を掛けたらいいのか、懸命に探っているような不器用な話し方。
「社長の視たものが正しいってことは知っているので」
「うん……」
サガシヤは味方だと、そう言ってくれている。
「正しい選択をするのって、たぶん、すごく難しいです」
私は目を擦って立ち上がった。
「僕は間違えたから……」
その言葉に思わず振り返る。それはもしかして彼が犯罪者としてサガシヤに居ることと関係しているのだろうか。
「住居が心配なら鍵師の所に居候したらいいんじゃないでしょうか」
ホテル暮らしは経費で落ちませんから、と彼は付け加えた。そう言えば仁穂ちゃんは中学三年生なのに一人暮らししていると言っていた。
「そうだね……」
そのうちあの家に来るかもしれない。会う覚悟ができていなくても、それを待たずに相手が来てしまうかもしれない。
「聞いてみようかな」
問題があるとすれば仁穂ちゃんが私を迎え入れてくれるかどうかだろう。彼女は結構気難しい。そういう年頃だということもあるのかもしれないが。
ピザが来るまであと少し。私は警備員に聞いた仁穂ちゃんのメールにメッセージを送った。
お読みいただきありがとうございます。