5. Promise(3)
一部グロテスクな表記がございます。
その後のいくつかの検査の中で相良は栄養失調の状態であり、実年齢は外見よりも高いことが分かった。普通の人と同じような生活ができるように、二年後に高校進学を目指して生活することとなった。
麻野の家族は暖かく相良を受け入れた。千宜は実の弟のようにかわいがり、言葉もよく知らない相良に熱心な指導をした。
香子は相良にたくさん話しかけ、ご飯を作り、新しいことができるようになれば一番喜び、褒めた。
祐正は相良をあちこちに連れて行き、世界を教えた。春には近所に花見に出かけ、夏にはキャンプ場へ赴き虫取りや魚釣りをした。秋には栗を拾い、一緒に料理を作った。相良と出会った日を誕生日として、家族全員でケーキを食べた。次の春には植物園に行き、花の名前を覚えた。一緒に過ごした時間、触れたぬくもりは少しずつ相良に変化をもたらした。
「相良、お父さんにお弁当持って行って!」
「うん」
玄関で靴ひもを結ぶ祐正の元に少年は包まれたお弁当を運んだ。
「ありがとう、相良」
「行ってらっしゃい」
少年は相変わらず表情を変えないが、自分で考えて言葉を発するようになった。
「行ってくるね」
祐正は相良の頭を撫でて家を出た。初めて会った時から身長も伸びて、声も低くなり、少年から青年になろうとしていた。
「母さん、練習着どこ?」
エアコンの効いた涼しいリビングには大きなスーツケースが広げられていて、千宜の荷物が散らかっている。午後から千宜は剣道部の合宿に行くため、その準備をしていた。
「二階に干してあると思う」
「分かった」
そう言って千宜は階段を上っていく。
「千宜の準備手伝ってあげてくれる?」
「うん」
相良も後を追って階段を上る。
相良が話すようになって、あの火事の捜査は解決に向かうと誰もがそう思っていた。しかし、相良はほとんど何も覚えていなかった。見つかった焼死体も、所有者不明の屋敷のことも。
ただ二つ、彼が覚えていることがあった。一つは自分の名前。もう一つは自分が何かに捕らわれていたということ。具体的な、細かいことは何度聞きだしてもわからなかった。
「千宜、手伝う」
練習着やタオルを畳もうとしていた千宜は嬉しそうな顔をした。
「じゃあこれ畳んでくれ」
料理や掃除といった家事全般が壊滅的な千宜にはありがたい助っ人だった。
「お前、俺がいなくても勉強さぼるなよー」
「さぼらないよ」
相良はあっという間に小学生の勉強は終わらせて年相応の勉強ができるようになっていた。
「はい、千宜」
「さんきゅ」
相良が畳み終わったものを渡すとき、手が千宜と触れた。
「俺にとって高校最後の合宿で、それが終わったらすぐ引退試合だから頑張ってくるよ」
千宜はそう言って笑った。
「千宜、急がないと時間なくなるわよ」
階段の下から香子が声を上げた。千宜は時間を確認して大慌てで階段を下りて行った。
「早く詰め込みなさい」
慌てる千宜とそれを見つめる香子。二階から下りてきた相良は自らの手の平を見ていた。
「千宜」
「何?」
千宜は相良の方を向かずに返事をした。
「行っちゃだめだ」
突然の発言に二人は相良を見た。相良は冗談を言っているような雰囲気はなく、真面目な顔をしていた。
「何言ってんだよ、俺は行くよ?」
「合宿に行くのがさみしいの?」
「違う」
相良はそれ以上何も言わず竹刀の入った袋ごと抱きしめた。
「よし、支度できた」
千宜はスーツケースのチャックを閉めて玄関に運ぶ。
「少し早いけどもう行くよ」
「頑張ってね」
玄関に向かおうとする二人。千宜は振り返り相良を見た。
「それ、頂戴」
相良は黙って首を横に振った。
「だめよ、相良」
香子は少し強引に竹刀を取り上げて千宜に渡した。
「だめっ!」
今まで聞いた中で一番大きな声だった。普段と違う相良。少し潤んでいるようにも見える瞳は必死だった。
「すぐ帰ってくるから、な?」
千宜は相良の頭を撫でて玄関に戻って行った。
「行ってきます」
『え?』
「だから、千宜に行かないでって何回も言った後に家を出てどこかに行っちゃったの」
携帯電話を耳に当てながら香子は辺り見回した。
『追いかけちゃったのか?』
「分からない。一応千宜にも聞いてみたけどもうバスに乗ってて分からないって」
『困ったね』
「あの子に家の鍵持たせてないから外に探しに行くわけにもいかないし……」
『こっちで人員確保して探してみるよ』
「お願い」
監視対象であるあの子がいなくなってしまったのは問題だ。勝手に何かをするような子ではなかった。自分で判断して行動することは今までなかったのに。
「私のせいだ……」
相良の言いたいことをちゃんと聞いてあげるべきだった。だからと言って合宿に行かないという選択はできないけれど。
もうすぐ陽が落ちる。日中のお使いを頼んだことは何回かあったが、真っ暗の外を一人で歩いたことはない。香子は相良が心配でたまらなかった。
「ご飯を作ろう……」
あの子の好きなものを。好きだと言ってくれたことはないけれど、てんぷらの日はいつもより少したくさん食べるのを知っている。肉より魚が好き。玉ねぎは少し苦手。一緒に作った料理はいつもより味わって食べている。ご飯の時間は相良のことをたくさん教えてくれた。
それからしばらくたって、電話が鳴った。電話は香子の父からだった。
「もしもし、相良見つかった?」
『それどころじゃない』
低い声はどこか震えているようだった。
『落ち着いて聞くんだ』
香子の手から携帯電話が滑り落ちた。財布を掴んで外に出る。大きな通りまで走ってタクシーを捕まえた。
「国立病院まで、急いでください!」
香子の手は震えていた。
『千宜の乗っていたバスが落石事故に遭って、崖下に転落した』
もしかして相良はこの事を知っていたんじゃないだろうか。そんなわけない。どうやったらそんなことがわかるんだ。だけど、もしも、千宜を行かせていなかったら。もっとちゃんとあの子の話を聞いておくんだった。行かせなければよかった。
他の部員の安否もまだわかっていない。ただ、かなりの高所からバスは落ちた、香子の父はそう言った。
「無事でいて……!」
バスに乗っていた者は救助した順に病院に運ばれている。タクシーのラジオがバスの転落事故が起きたことを告げた。詳細は不明なまま。運転手が恐ろしいですね、なんて言っている。
長い時間が経った気がする。病院に着いて、名前を言って、病室に駆け込んだ。
「母さん」
そこにはベッドから起き上がっている息子の姿があった。頭に包帯を巻いている。左腕も骨折したように固定されていた。それでも、会話ができるほど元気な千宜がいた。
香子は堰を切ったように泣き出した。怖かった。無事でよかった。
「泣かないで、母さん」
少し遅れて祐正と香子の父が駆け込んできた。二人も千宜の姿を見て安堵の涙を流した。
「生きていないと思った……」
一度病室を追い出された祐正は香子にそう言った。現場はひどい有様だったらしい。ガードレールを突き破って落ちたバスは、途中の木に引っかかった。そこで数分停止して、地面に落ちた。暑さのせいか、木に引っかかったせいか開けられた窓が多く、バスから投げ出された人もいたそうだ。
「生存者は千宜だけだそうだ……」
「そんな……」
あのバスには同じ部活の仲間がたくさん乗っていたのに。病院の遠くの方で泣き叫ぶ声が聞こえてくる。その声が苦しくて、夫婦は俯いていた。
その時、一つの影が前を通って千宜の病室のドアを開けた。まだ入ってきていいと医師に言われていないのに。
「誰……?」
病室の中に入った人を連れ出そうと祐正と香子も中に入った。そこには、おぞましいものを見たような顔をしている千宜と、医師たちがいた。
「よかった……生きてた……」
「相良⁉」
その声は間違いなく相良だった。
「探していたんだぞ、いったいどこに……!」
祐正は相良の肩を掴んで自分の方に向ける。その姿に二人は言葉を失った。
相良の右眼が無かった。乾いた血が髪や皮膚についていて。さらに恐ろしいことに相良の右手には抉りとったものが握られていた。
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