5. Promise(2)
「搬送された少年は?」
麻野は部署に戻ってコートを脱いだ。雪と灰ですっかり汚れてしまったコートを気休め程度に払う。香子に怒られるだろうな、そう思いながら自分のデスクに腰かけた。
「病院での処置は一通り終わって、今は五反田さんに調書を取られているはずです」
近所の牛丼屋のカレーを食べながら篠木は言った。香りの強い食べ物は空腹を刺激する。
「三河さんが体調を崩しちゃったばっかりにこんな寒い中の仕事が来ちゃって残念ですね」
「本当だよ」
「それよりいいんですか?」
「あ?」
「特殊警察でとって来いって言われてたのに五反田さんに譲っちゃって」
表向きには、麻野は五反田の部下。そして、その下に篠木がいる。しかし、五反田は組織には属しておらず、その存在を知らない。篠木は組織の中では監視としての役割を担っている。組織の中では麻野の役割は簡単でありリスクも低い物。立場は篠木よりも弱かった。
「……仕方ないだろ」
「手柄を立てないと上官に怒られますよ?」
プラスチックのスプーンを咥えてパソコンに向かったまま篠木はそう告げる。
「分かっている……」
「所属しちゃった以上、左遷になったら結構遠くまで飛ばされちゃうと思いますよ?」
篠木は優秀だ。協力者をうまく使って解決した業績は組織の中で上位に入るだろう。
「分かってる!」
「ならいいですけど」
郷に入っては郷に従え。使えない駒は切られる。今までどれほど警察として貢献してきたかは関係ない。新設の組織ではあるが、規律違反で左遷された者は数名いる。
不意に電話が鳴った。
「はい、篠木です」
右手でキーボードを打ち、左手で受話器とスプーンを持ちながら篠木は相槌を打っている。
「分かりました。伝えときます」
電話の相手はおそらく聞き取り調査をしている五反田だろう。
「五反田さんが担当を降りました。後任に麻野さんをご指名です。よかったですね」
薄っすらと笑みを浮かべる篠木。なぜ五反田が担当を降りたのか。そこに組織の介入があったのではないか、麻野はそんな思考を巡らせた。
「少年は病院から組織のビルに移送されたそうですよ」
今度はパソコンの画面を見せてくる。関係者しか入ることのできないサイトだ。
「随分早いな」
少年は負傷していたはず。それなのに医療班のない組織に急ぎ移す必要があった。
「行ってらっしゃい、麻野さん。僕はここで上官からの指令を待ちます」
体育座りをしてくるくると椅子を回す。主導権が移ったことによって篠木は麻野の部下ではなくなった。命令もなく手伝うつもりはない、そういう意思表示だ。
「ああ、行ってくる」
濡れたコートを再び手に取り麻野は部屋を後にした。
少年を初めに見つけたのは麻野であったにも関わらず、主導権を五反田に譲ったのは、あの不自然な少年に漠然とした恐怖を感じたからだった。
「……急ごう」
麻野は落ち着いてシートベルトをして車を発進させた。組織のビルまではそう遠くない。
名前の印字されたカードキーをかざして、入場を許可された駐車場に車を止める。入口でもう一度カードキーをかざし、さらにパスワードを入力する。そうして開かれた扉の中に入った。通路は全体的に薄暗い。麻野は速足で五階の上官室を訪れた。
「失礼します」
「入りなさい」
上官室にはなぜかあの少年がいた。
「麻野祐正、お前に監視を任せたい」
「は……?」
そう言って上官は乱暴に少年の服を脱がせた。少年は一切抵抗することなく、少しも反応を見せなかった。
「体中にたくさんの痣と切り傷がある。そして」
上官は少年の腕を掴み、無理矢理立たせ麻野に背中を見せた。その姿に麻野は絶句した。幾つもの同じ大きさの円が残っている。肩から腰まで隙間がないくらいに、その痕は残っていた。誰かが意図的にこの子につけたであろう、火傷の痕。
「こいつは口がきけないらしい」
上官が腕を離すと少年はその場に膝から崩れ落ちた。
「ところで、今回の現場から一人分の遺体が見つかった」
その遺体は最も火が盛んだった場所にあり、家具や柱の下敷きになってしまい身元の確認は時間がかかりそうだった。そして、あの建物の所有者は不明だった。
怪しい建物の火災、その生存者は背中に日常的に暴力を受けていたような痕跡があり、火の手が激しいところから見つかった遺体。
「我々はこの少年が放火殺人事件の容疑者だと考えている」
自分が生き延びるために火災を起こした、と。
「ほ、本当にこの子がそれを行うでしょうか……」
先ほどから自分では全く動こうとしない。糸の切れた操り人形のようだった。
「その証拠を掴むためにお前に監視をさせたい。連れ帰り調べろ。やり方は何でもいい。とにかく火災のことを聞き出せ」
「しかし、自分は、監視は担当外……」
「この少年が、唯一何かを言ったそうじゃないか。お前に」
『まってた……あなたを』
上官は知っている。この少年が麻野を待っていると言ったことを。
「承知しました……」
少年は再び腕を掴まれて麻野に向かって投げ飛ばされた。その無気力な体を麻野は受け止める。
「今日はもう帰るといい」
「……失礼します」
麻野は少年の手を握り歩こうとした。細い少年の脚は簡単にもつれてしまって上手に歩けなかった。あの時は炎で気づかなかったが、顔に血色がない。
「失礼」
麻野は少年の耳元でそう囁いてゆっくりと抱き上げた。上官室を出て、エレベーターを待つ。その間もずっと少年は無抵抗だった。
「名前は?」
細く、小さい体。年齢は小学校高学年くらいだろうか。どうしても息子の千宜と比べてしまう。千宜がこの子と同じくらいの年齢の時、これほど軽々と抱き上げることができていただろうか。この小さい体で、どんな苦労をしてきたのだろう。熱かっただろう、痛かっただろう。されるがままの少年は何も答えなかった。
「よいしょ」
麻野は少年を下ろして自分の目の前に立たせた。ぼんやりとした瞳にはかろうじて自分が映っていた。
「私は麻野祐正。君の名前は?」
少年は視線を少し落として、麻野が触れている自分の腕を見た。
「サガラ……」
「そうか、よろしくなサガラ」
そのタイミングでエレベーターが到着した。再び麻野はサガラを抱きかかえて乗り込み、駐車場を目指した。その間二人は何も話さなかった。車に着いた麻野は後部座席のドアを開けてそこにサガラを座らせた。
「……じゃあ、出発するぞ」
何も言わずにどこかに連れて行くのは可哀そうだと思い、麻野は自分の家のことをぽつぽつと話し始めた。
「私の家には妻と息子がいるんだ。息子の年は君より五つほど年が上だ」
ミラー越しにサガラを見ると、自分の手のひらを眺めていた。
「妻は香子、息子は千宜という」
車は夜の街を抜けて行く。交通量の少ないおかげでいつもよりも早く着きそうだ。
「ここが私の家だよ」
麻野は車庫に駐車してサガラを抱きかかえた。腕時計を見ると深夜十時を超えていた。千宜はもう自室に籠っているだろう。サガラだって疲れて眠たいのではないだろうか。
「ただいま」
少し小さい声で麻野は帰宅を告げる。ドアの開いた音に驚いた香子がパタパタと足音を鳴らして来た。
「今日は随分……」
早い、そう言いかけて彼女は言葉を止めた。麻野が腕に抱く少年を見たまま。
「どうしたの、その子」
「色々あって……」
苦笑いをしてサガラを下ろす。サガラは不思議そうに香子を見て、まるで抱っこを求めるように腕を伸ばした。
「まあ」
香子は仕方なくサガラの元まで歩き、優しく抱きかかえた。
「随分軽いのね……」
「しばらくうちで面倒を見ることになった。その、勝手に申し訳ない……」
「別にいいわよ、そちらさんの自分勝手なところは熟知してますから」
さすが警官の娘だ。少し怒っているように感じられるが、それでも香子はサガラを拒絶することなく受け入れてくれた。香子はサガラを抱いたままリビングに戻っていく。
「あなたは先にお風呂に入ってきてください」
「はい……」
煤と雪で汚くなってしまったコートに向けられた視線が痛かった。
麻野は急いで体を洗い、事情を説明すべくリビングに行った。
「香子」
彼女はソファーに座っていて、その膝を枕にしてサガラが眠っていた。優しい手が少年の頭を撫でている。
「香子」
麻野は足音を立てないように二人に近づき、膝をついて香子を見上げた。
「この子、何も言わないのね……」
突然新しいところに連れてこられても何も言わず、何も聞かず。ただおとなしくされるがままに。
「名前はサガラだと言っていた」
麻野はゆっくりと今日の火事のことを話し始めた。そしてこの子のこと。放火殺人の容疑者として監視をしながら話を聞き出さなければならないこと。
香子は最後まで黙って聞いていた。
「じゃあ千宜に弟ができるんだね」
「……そうだな」
「漢字、決めてあげないと」
香子はそう言って微笑んだ。こうしてサガラは相良となり、麻野家の一員として育っていくことになった。
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