5. Promise(1)
その日は一日中天気が悪くて、雨こそ降らないものの分厚い灰色の雲が空を占拠していた。
「今夜は雪になるかもしれないって」
「そうか」
女性に差し出された鞄を受け取る。非番の予定だったが体調不良者が出てしまったせいで夕方から勤務になってしまった。
「父さん、仕事?」
青年はリビングのドアからひょっこり顔を覗かせた。
「勉強を見る約束していたのに、ごめんな」
「こっちにおいで。お父さんをお見送りしましょ」
分厚い参考書を持ったまま、青年は女性の隣に立った。
「お仕事頑張って」
「行ってくるよ、千宜、香子」
玄関のドアを開けると冷たい空気が体に刺さった。白い息を吐きながら急いで車に乗り込む。
「こんな日に大きな事件が起こらないといいけれど」
キーを回してエンジンを入れる。リビングの窓からこちらを見ている息子の姿が目に入った。申し訳なさを感じながらも、車は「麻野」と書かれた家を出て行った。
「体調不良者が出たことによって俺が呼ばれるってことは、三河か。」
三河は彼の同期であり、同じ役職の者だ。食に対してのこだわりが強いんだか、弱いんだか、しょっちゅう変なものを食べてはお腹を壊している。どうせ今回もそういう類なのだろう。
『事件発生』
車内に取り付けられたスピーカーが急にアナウンスを始める。
『山の麓で火災発生』
無線の向こうの慌ただしい様子が聞こえてくる。麻野は一度車を停止させた。助手席に置いてある地図を取り出して、読み上げられた山の場所を調べる。もう少し詳しい位置が分からないと何とも言えないが、火事ならば近くまで行けば分かるかもしれない。
「こちら麻野、現場に向かいます」
そう告げて車はサイレンを鳴らしながら急発進した。
『麻野、現場は特殊警察で押さえろ』
「はっ!」
特殊警察、それは組織に所属する警察官のことを指す。まだ発足したばかりの組織。倫理面に問題を抱えながらも、世の秩序のために動く。麻野は組織の中でも警察に限りなく近い存在だった。監視対象を持たず、犯罪者を扱うことも選定することもない。特殊警察で扱う事件を取ってくることが役目であった。
そもそも麻野は特殊警察の存在に疑問を持っていた。それでも、協力者のおかげで早期解決した事件があることも事実だ。今の役職を否定しきれないからこそ、普通の警察と同じようなことしかしない今の役目は気が楽であった。
「あれか」
現場の煙を確認した。まだかなり距離はあるはずなのに見つかるということは、火災は相当激しいのだろう。
「黒煙を確認しました」
『了解、五反田班も確認できました』
五反田は麻野の上司だ。だが、彼は特殊警察ではない。
消防車のサイレンが鳴り響く。辺りは古めかしい家屋がいくつかある。田畑に囲まれたその場所は人が誰もいなかった。家があっても、住民はいないように思えた。
「これ以上は進めないな」
車を煤だらけにしたら香子に怒られる。麻野はそう思いながら車を降りて走り出した。
熱い。
冬だというのに。轟音をたてて燃え上がる炎は一つの怪物にさえ見える。屋敷のような広い一軒の家が燃えている。懸命な消火活動をするも、炎の勢いは変わらない。むき出しになった家の支柱が折れて、崩れる。
「警察です、詳細を!」
指揮を執る消防官に声をかける。
「まだ何もわかっていません!」
それどころではない、麻野は振り払われてしまった。指示を出す声さえこの炎にかき消されてしまっている。
通報からかなり時間がたっている。郊外で起こった火災ということもあり、対応が遅れてしまったんだろう。
「……?」
どこかから声がした気がした。
「どこだ?」
麻野は声を探して走り出す。声は最も火災の激しい西側とは反対から聞こえてくる気がする。呟くような、小さな声だ。そんなものがこの状況で聞こえてくるのはおかしい。それでも、誰かが自分を呼んでいる気がした。
「あれは……?」
東側の屋敷の門に寄りかかるようにして男の子が座っていた。帯のほどけかけた浴衣は煤にまみれ、腕や足に少しの傷がある。それでも火の回りが遅いこちらから逃げ出せたのだろう。
「大丈夫か⁉」
そう声をかけると、彼はかろうじて目を開けた。男の子は麻野の息子よりも幼く見えた。
「麻野!」
少し遅れて現場に到着した五反田とその部下、五名が麻野に駆け寄る。
「少年がここに倒れていました。すぐに病院に……」
「……ってた」
抱き上げた男の子が麻野を見ながら言った。呟くような、小さな声だ。
「まってた……あなたを」
灰を被った雪と火の粉が辺りに降っていた。
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